○2○マサさん
ぼくのスマホにその人からの連絡が入ったのは、それから五日ほど経ってからのことだった。
『マサさんから連絡があったわ。靴、受け取りに行ってもらってもいいかしら』
そう言ってその人は、てきぱきと必要なことをぼくに告げ、早々に電話を切った。
「あの、あのあの、それでおいくらぐらい――」
と訊きかかったぼくの言葉は、多分完全に無視された。
ぼくはその日時について、一応ほづにも連絡した。
大学は夏季休暇に入っているけど、サッカー部が休みになっているわけじゃない。指定された平日の昼間の時間帯では、多分ほづは出てこられないだろうなと思った。
でも、ほづは即座にこう言い切った。
『……いや。それなら俺も行く』
「え、でも――」
『前っから決めてたんだ。あいつとはもう少し、ちゃんと話しなきゃなんねえってな』
「……そ、そう……」
ほづは、サッカーをするためにその大学を選んで進学した。だけど、前にも言ったようにスポーツ推薦枠を使えなかった。
強豪スポーツチームを擁する大学では普通にあることらしいんだけど、ほづの大学もその例に漏れず、たくさんいるサッカー部員はプロ野球の一軍、二軍みたいにしてチーム分けをされているらしい。
Aチームはいわゆるスタメンで、最も優秀なプレーヤーたちが集められている。Bチームはいわば二軍で、一応はスポーツ枠で入ったメンバーだけれどもAチームほどの実力はないと見なされているグループ。
そして、さらにその下にCチームがある。これはスポーツ枠を使えなかった人たちのグループで、上のチームに比べるとコーチも適当な人がつくだけらしい。練習時間も別々になり、当然ながらそのプレーが監督の目に留まることも格段に少なくなる。実際にどんなに実力があったとしても、ブレインの目に留まらなかったら上のチームにあがれるチャンスは当然わずかになるわけだ。
今ほづがいるのは、この三つのうちのBチーム。しかもとてもラッキーなことに、つい最近あったBとCとの練習試合でたまたま上の人たちの目に留まり、Cから上がってきたばかり。だから、今はほづにとって、ここでさらに自分の実力を周りに示し、自分の存在感をアピールしなければならない、とても大事な時期のはずだった。
「大丈夫なの、ほづ……。こんな大事なときに」
『バカ言え。これだって十分、大事なこったろ』
「そ、それは……そうなんだけど」
ぼくの心配をよそに、ほづは呵々と笑っただけだった。
『Bに上がったお陰で、練習時間がちょっと繰り上がったしな。前みてえに、真っ暗になるまでやって後片付けにこき使われることもねえし。少し明るいうちに帰れるはずだ。それでも少し遅れると思うけどよ。だから、悪いが先に行っててくんねえか』
「うん……。わかった」
『ああ、それと。女の格好して行く気なら、遠慮せずに専用車両使えよ。いいな?』
「え、……あの」
『お前がどこぞのクソ痴漢野郎に撫で回されてるかも知んねえとか思いながら、おちおち練習してられっか。いいな。わかったな』
ほづの方も有無を言わさぬ剣幕で、一方的に電話を切った。
なんだか色々、お見通しだな。
やっぱりきょうだいなんだなあ。この二人、絶対に似ているよ。
○○○
そんなこんなで、ぼくはこの日、美麗さんに言われたとおり、ひとりで再びあの街へとやって来た。
最後までどうしようか迷ったんだけど、せっかくのお出かけなのに男の子の格好でいるのは忍びなくて、結局また女の子の格好で行くことにした。
今回はヲタっぽい感じは避けて、大学に行くときみたいに、髪は脇を少しだけ編みこみにしておろし、服はフレアスカートに白いサンダル。白のカットソーの上に、ライトグリーンのグラデーションになっている、透かし編みの短いニット。首にはまた、ほづに貰ったネックレス。
道中はほづに言われたとおり、恐る恐る女性専用車両に乗って、隅っこで体を縮めるようにしていた。
「やあ、来たね。こんにちは。今日はひとりなのかい?」
あの靴屋さんの扉を開けると、あいかわらずぽっちゃりとした人の好さげなご主人、マサさんがにっこりと迎えてくれた。茶色の素朴なエプロン姿は、前とまったく同じままだ。
「話は美麗ちゃんから聞いてるよ。まあ座って。靴はもうできあがっているからね」
「え? あ、はい……」
出来上がっているのにどうして座って待たされるのかよく分からなかったけど、ぼくは素直にマサさんから勧められた隅の小さなソファに座った。前には小さな古びた木製の丸テーブル。
飴色の猫足に支えられ、深い緑色をしたベルベット張りのソファは、座るとぎしりと音がして、やっぱり年代を感じさせた。
「えーっと、シノちゃんだったかな」
「は、はい……」
「今日は、ちょっと暇にしているんだよ。腰も痛くなってきちゃったし、そろそろ休憩しようかと思っていたんだ。良かったら、つきあってくれないかな。紅茶でいいかい?」
「あ、あの、お構いなく……」
「ははは。まあ、そう言わないで。そんなに急ぎじゃないんでしょう?」
「え、ええ……まあ」
マサさんはエプロンをしたお腹をちょっと揺らすようにして笑うと、店の奥に引っ込んで茶器のセットを持ってきた。そうして沸かしたお湯を持ってくると、目の前で茶葉の入った白くて丸っこいポットにお湯を注いで紅茶を淹れた。
「さあさあ。お菓子も召し上がってね。なに、僕が食べたいだけなんだけどね。せっかく目の前に可愛いお嬢さんがいるっていうのに、ひとりで食べるなんて味気ないじゃないか。だから、どうか遠慮しないでね」
そんな年の人がするのは不思議な感じだったけど、マサさんはごく自然にぼくに可愛らしいウインクをしてそう言った。なんだかそのお茶目な感じが、このおじさんにはとても似合った。
「す、すみません。いただきます……」
出されていたのは、なんとかいう名前のハート型をしたパイで、ちょっと懐かしい感じのお菓子だった。口にするとぱりぱりいう甘いお菓子と香りの良い紅茶をいただいて、ぼくはマサさんとそこでお話をすることになってしまった。
「シノちゃんは、美麗ちゃんの弟さんとお付き合いをしているんだったよね? 確か、穂積くんだったっけか」
「あ、……は、はい……」
ぼくはなんだか小さくなっていた。
この人も、先日の美麗さんとぼくたちとの会話を聞いていたはずだった。ということは、ぼくが美麗さんと同じような状態の人間だということは、もう気づいていらっしゃるに違いなかった。
そんなぼくの思いに気づいた風もなく、マサさんはただ穏やかに微笑んでいた。
「素敵な弟さんだったよね。精悍で男っぽくて。美麗ちゃんがいつも、ちょっと自慢げだったの、納得したよ」
「……え?」
美麗さんが、ほづのことをこのおじさんに話していたの?
彼女がほづと別れることになったのは、確かもう七、八年も前のことだったと思うけど。その時はまだ、ほづは「子供」っていうカテゴリーにしっかり入っている年だったはず。
「当時はまだ小さかったんだろうけど、それでも『男気のある、いい子なのよ』って、そりゃあ嬉しそうに話していたよ。小さかったはずなのに、あの美麗ちゃんのこと、わかっていても決して詰るようなことはしなかったって。いろんなことがあって、今はわかれて暮らしてるって言ってたけどね。ああして会うことができて、本当はとっても嬉しかったんじゃないのかな」
「そ、……そうなんですか……?」
少なくともぼくには、あの日はほづから強烈なタックルを食らわされてとてもご機嫌斜めみたいに見えたけど。
それに、ほづは確か小学生のときに、美麗さんをとても傷つけてしまったってものすごく後悔していたはず。「詰ったことがない」ってそれ、本気でおっしゃっているのかなあ。
僕の表情を読んだように、マサさんがまた「ふほほほ」と面白い笑声を立てた。なんとなく、南米奥地の森林なんかで聞こえる鳥の声みたいだなと思った。まあぼくも、そんなのテレビでしか知らないけどね。
「意外そうだね? だけど、この間の美麗ちゃん、ああ見えてとても嬉しそうだったよ? あのあと、またうちの店にも寄ってくれたんだけどね。そりゃあにこにこしちゃってさ。穂積くんのこと、自慢したくてしょうがないっていう風に見えたけどね」
「え、ほ……ほんとうですか?」
ぼくはもうびっくりして、思わずそう聞き返した。
「ほんとうですとも。彼女のあんな顔は、やっとのことでとうとう意中の彼氏とうまく行ったとき以来だったよ、いやほんとにね――」
「彼氏、さん……」
それを聞いた途端、ぼくの注意はその単語にぐぐっと引き寄せられた。
彼氏さん。
やっぱり美麗さん、本当に彼氏さんがいるんだ。
「あのあのっ。そのかた、どんな人なんですか? マサさんはご存知なんですよね……?」
「ああ、うん。って言うか、もともと僕はそっちの彼と知り合いだったわけだから」
そう言って、マサさんは紅茶をひとくち、飲み下した。
それから、とっても優しい瞳をくるっと回してぼくを見つめた。
「……聞きたいかな? 彼の話。実を言うと、美麗ちゃんからはもう頂いているんだよ。『シノちゃんになら、話してもいいわよ』っていう、お墨付きをね」
その瞳がまた片方だけ、ぱちりと閉じられる。
ぼくは言葉を失って、そんなマサさんの顔をしばらく穴の空くぐらいに見つめていた。
そして。
ぼくはもちろん、しっかりと頷き返したのだった。




