◇1◇相談
翌週の、月曜日。
この日を最後に、大学は夏季休暇に入ることになっていた。
俺はいつものように、朝、駅前で篠原さんと待ち合わせをして大学へ向かった。
月曜だから、篠原さんは男の子の格好だ。
道々、篠原さんは周囲の人には聞こえないように気をつかいながら、先日あったことを話して聞かせてくれた。
「うわ、そうなんだ。茅野くんのお兄さん、今そんな感じなんだね」
「うん。ぼくもびっくりしちゃった。でも、なんかすごーく逞しい感じがして……ってこれ、見た目のことじゃないからね!」
「あ、うん。分かってるよ」
俺は苦笑する。篠原さん、ひとりで赤くなって必死に言い訳していて、なんだか可愛い。
「えっと、それで、ぼくもなんだかすごく嬉しかった。ぼくと同じような感じで、昔いっぱい苦労して、でも今は幸せそうにしてらして。素敵なパートナーさんもいらっしゃるみたいだし。ほんと良かったなあって――」
そう言っている篠原さんが一番うれしそうに見えるの、俺の気のせいじゃないよね、多分。
「あ、それとね。なんかね、見た目は全然違うんだけど、そういう前向きで頼もしい感じが、なんだか馨子さんみたいだなあって思ったんだ。タイプはちょっと違うけど、すごく頼りがいがある感じ」
「ああ、うん。分かるなあ、それ」
茅野くんのお兄さん――いや、お姉さんって言ったほうが失礼にならないのかな――の顛末については、俺は詳しくはないんだけど、篠原さんと同じように心と体の性別の違う人なんだそうだ。そうして色んな事情があって、今はご家族と離れて暮らしているらしい。
世の中には、昼間は普通に男性の格好をしてサラリーマンとして会社で働き、夜だけ女性の格好になる、みたいな二重生活をしている人も多いって聞く。それをしないで、なおかつ自分に嘘をつかないで生きていこうと思ったら、まだまだ就ける仕事には限りがあるのに違いない。
同じような境遇にある篠原さんにとって、そういう人の存在はきっと心の支えになるだろう。そういう意味で、俺は「良かったなあ」なんて思っていた。
と、そろそろ大学の門が見えてきて、篠原さんは少し何かを言いよどむ風になった。
「……あの。あのね……内藤くん」
「ん?」
「ちょっと、お話したいことが、あって――」
困ったみたいなその顔を見ただけで、俺はわかった。彼女が本当に話したかったことは、さらにこの先にあるらしいということが。
一限目が始まるまでには、まだ少し時間がある。とは言っても、せいぜい十分ぐらいかな。
俺はキャンパスに入ったところで、学内の広場のほうへと彼女を誘い、人通りのあまり多くない所にあるベンチのひとつを探して、二人でそこへ座った。
「えっと、えっと……。美麗さんが、ぼくにだけ連絡先、くれたじゃない? そのことでさ――」
もじもじしながら、篠原さんはそれでも、まだ言おうか言うまいか考えているみたいだった。
「こんなの、内藤くんに言っても困らせるだけだと思うんだけど……」
「そんなのいいよ。言ってよ、篠原さん」
こう言うからには、これは篠原さんの友達の、あの柚木さんにも相談しにくい件なんだということだろう。俺に話したいってことは、つまり、同性で付き合っている人間にしか分からないような内容に違いなかった。
「ありがと……。ごめんね、内藤くん。じゃ、あの……言っちゃうね?」
「うん。遠慮しないでよ」
しっかり頷いて見せたら、篠原さんは嬉しそうにそっと微笑んだ。
「美麗さん、『自分に連絡するならこの子を介してにしろ』なんて言ってたけど、あれ……つまり、ほづに遠まわしに『この子と別れたりしたら承知しない』って言ってたんだろうなあ……と思って」
「ああ……。うん」
なるほど。
茅野くんのお兄さんはその時、篠原さんを介してじゃなきゃ彼と連絡を取る気はないって宣言したんだそうだ。
つまり、もしも今後、彼が篠原さんと別れてしまうようなことがあれば、それと同時に茅野くんはお兄さんとの連絡手段も失うってことになる。
「でもなんか……それって、ほづの負担にならないかなって。そうでなくてもぼく、こんな奴だから……いつもいつも、ほづに守られて、一方的に負担になってるばっかりだし。それでまた、こんな風にお兄さんに言われちゃったら、ほづ……ぼくのこと、逆に嫌になるんじゃないかな、って。だんだん、重荷に思うようになったらって――」
無意識なんだろうけど、取り出したスマホを膝の上で弄ぶようにしながら、篠原さんは俯いている。
「うんざりしないかな? 『もうめんどくせえ』って思われないかな……? だってほづ、すっごい面倒くさがりなんだもん……」
篠原さんの目が、見る見る悲しい色に染まっていくのを、俺は呆然と見ていた。
まさか彼女がそんな風に不安に思っているなんて考えてもいなかった。
だって茅野くんと一緒にいるときの篠原さんって、ほんと幸せそうで、笑顔なんか輝いてて、そういう暗さを感じさせなかったから。
(……バカだな、俺)
そりゃそうだろ。
篠原さんは、普通の女の子とは違うのに。
相手の負担にならないかとか、飽きられるんじゃないだろうかとか、不安に思うなんて当たり前のことなのに。
篠原さんは自分の手元を見たまま、言葉を続けている。
「あのさ……SNSとかでさ、たまに居るじゃない? 匿名で、ぼくみたいな感じの人が呟いてたりとか。中には恋愛相談までしてたりとかさ――」
「あ、……うん」
「で、それはもちろん大人の人なんだけど、『オカマは人の迷惑になるな』って周りから言われて当然、だから自分は一人で生きることを決意した、みたいなこと、書き込んでるの見たことがあって」
「……うん」
「分かってるんだ。ほづに会うことができなかったら、ぼくだってまったく同じようになってるんだってこと。だからほづにも、ほづのご家族にも、とってもとっても感謝してる。……けど」
篠原さんの唇が、きゅっと結ばれた。
「ほづに迷惑は、掛けたくない。なにかちょっとでも負担になるようなことがあったら、『もうめんどくせえ』って捨てられるんじゃないかって、いっつも、いっつも不安になる。だってやっぱり、どう考えてもぼくなんかより、ほかのちゃんとした女の子たちのほうが素敵だし、魅力的だもの……」
「篠原さん……」
俺は、鳩尾のあたりにきゅうっと痛みを覚えた。
その思いは、俺にも十分心当たりのあるものだ。
俺も、佐竹に迷惑は掛けたくない。確かに、ただの友達からこういう関係になることを望んだのは事実で、結果こうなったことを後悔はしてないけど。
大学生になって、急に綺麗になりだした周囲の女の子たちを見るにつけ、「あいつの大学でもこうなんだろうな」なんて考えたら、どんどん思考がマイナス方向へ走っていってしまいそうになるもんな。
「内藤くんは、そういうの……心配になること、ないの……?」
そう言ってしまってから、篠原さんは慌てたように言い足した。
「あ、でも、そうだね。相手があの佐竹さんなら、そんな心配する必要もないかもだけど――」
「え? あー、うん……。佐竹自身はそうかもしれないけど、えーっと……」
俺はちょっと頭を掻く。
「……だけど俺、そんな自信満々じゃないよ? っていうか、自信なんて全然ない。佐竹は凄い奴だけど、俺なんて取り立ててすごい特技とかあるわけじゃないし。……ついでに言うと、小さくもないし」
そうなんだよな。
篠原さんは茅野くんと並ぶと彼の肩あたりまでしかないけど、俺は佐竹と並んでも十センチも違わない。むかし入ってたバスケ部の中では比較的小柄なほうだったけど、それでも十分、平均的な日本の男子の身長は満たしている。
そして、なにより、
「篠原さんみたいな、超可愛い子でもないし――」
「え、いやいや、あのっ……」
篠原さんがびっくりして、目を丸くする。ぶんぶん首を横に振って真っ赤になって。
ほら、やっぱり可愛いって。
「見た目もふつーで、性格も別に……。すぐにへこたれるし、泣き言だってわんさか言っちゃうし。正直、佐竹が俺のどこがいいと思ってるんだか、いまだにまったくわかんない」
ああ。
言えば言うほど惨めな気持ちになってくる。ほんとそうなんだよな。あいつ、一体俺のどこが良くって「好きだ」なんて言ってくれたんだろう。
「そ、そんなことないよ! 内藤くん!」
急にまっすぐ俺を見て篠原さんが言った。その目がちょっと怒っているように見えて、俺は驚いた。
「内藤くんは、すっごく可愛い。洋介くんを見てればわかるもの。やさしくて、いいお兄さんで、ちゃんと家族を大事にしてる人なんだって」
「……え」
「内藤くんは、とっても素敵。ぼくはそう思う。あのとき、ぼくみたいな奴にだってちゃんとすぐに手を差し伸べてくれたじゃない。それに、出来ないことがあってもちゃんと努力して、今より良くなろうとしてるでしょう?」
「いや、それは――」
それは、あいつが後押ししてくれたからこそ頑張れたっていう面が大きいし。
あの世界でのことも、こっちに戻ってきてからも。
あいつがいつもそばにいて、俺の未来のためにサポートし続けてくれてきたから。
俺もそれに応えなきゃって、それなりに頑張れた。まあ、勉強に関してはかなりスパルタで、ちょっと半泣きにはなってたけどね。
篠原さんは、だけど、俺に「ううん」と言うように首を横に振った。
「……だから、わかるよ? 佐竹さんが、どうして内藤くんのことが好きなのか。……ちょっと偉そうかもしれないけど、それはわかる気がするの」
「篠原さん……」
俺はもう、びっくりして篠原さんを見返すだけだった。
まさか自分が、人からこんな風に言ってもらえるなんて思わなかった。
「内藤くんは、すてきな人だよ」
呆然としている俺に、篠原さんは本当に天使みたいな笑顔で言いきった。
「もっともっと、自信を持っていいと思うよ? それに、そういう人でなきゃ、そもそもあの佐竹さんが君を選んだりしないと思う」
「…………」
ああ。ダメかも、俺。
鼻の奥がつんとしてきちゃった。
ちょっと泣きそう。
そう、この泣き虫なところも、いい加減なおさなきゃって思うのにな。
第一、彼女の相談に乗ってるはずが、逆に彼女に励まされてるって、どうなんだよ。
ああもう、情けねえ。
と、そのとき、一限目の始まるチャイムが鳴り出して、俺たちははっとした。
「あ、やばっ……!」
「うわ、ごめんね、内藤くん! ちょっと話しこんじゃったね」
二人で同時に立ち上がる。
「ごめ、俺……。俺が篠原さんの話を聞こうと思ってたのに」
「ううん、いいよ。それはまた、今度にしよう。どうもありがとう、内藤くん。話きいてくれて、とっても嬉しかったよ!」
「あ、じゃあまた、お昼にでも――」
別々の講義室に向かって駆け出しながら、お互いに手を振り合う。
「うん! じゃあね、内藤くん……! ほんと、ありがと……!」
そうして俺たちは、それぞれの授業のある教室に向かって慌てて走って行ったのだった。




