○5○ヒール
それからぼくらは、美麗さんに連れられて近くの靴屋に行くことになった。
そこはやっぱり彼女の馴染みのお店みたいで、今にもたぷたぷいいそうなお腹と優しそうな目をしたおじさんが、にこにこ笑って美麗さんを出迎えた。
「やあ、美麗ちゃん。どうしたんだい――おやおや、これは」
美麗さんがひょいと差し出した靴の惨状を見て、おじさんが苦笑する。そのまま一緒に店に招き入れられ、ぼくらは店内をきょろきょろ見回した。
おじさんはにっこり笑って、ちらりとぼくたちの方を見た。でも、特に何も訊ねる様子はなかった。
さっきの喫茶店もそうだったけれど、ここも古めかしい佇まいのお店だった。間口はとても狭くて、いろんな大きさの足の形をした木型がごろんごろんとあっちこっちに下げられている。飾られている靴はどれも、しっかりと手を入れてつくられたオーダーメイド品のようだった。
美麗さんのハイヒールは、全体がシルバーグレーをした落ち着いたもので、極細の白糸で丁寧な花の刺繍が品よく甲のあたりを飾ったようなデザインだった。
おじさんは、その靴を色んな方向から丁寧に検分してから、美麗さんのほうに視線を戻した。
「これはちょっと時間をいただかないといけないねえ。美麗ちゃん、今日も仕事なんだろう? どうしようかね」
「そうなのよお。このおバカが、えらいことしでかしてくれちゃってさ」
美麗さんは、ごく親しげな笑みを浮かべて楽しそうな様子だ。そこからひとくさり、彼女は先ほど弟にされた「無体」について、改めておじさんに語って聞かせた。
「なおる? マサさん」
「ああ。それは問題ないけどね。代わりに、ちょっとデザインは劣るけど、今日はこっちを履いていくといいよ。一応、試作品だった物だけど、美麗ちゃんの木型で作ってあるやつだからね」
「ありがと、マサさん。お願いね」
美麗さんは軽くおじさんにウインクすると、差し出された別のベージュのハイヒールを受け取ってそれを履き、ぼくらを店から追い出すようにして一緒に外へ出た。
「……で? いくらすんだよ」
少し押し殺したような声でほづが訊ねる。それはさっき、彼女に靴のことで「弁償しなさいよ」と言われたからに違いなかった。
ぼくは思わず、今の自分の手持ちをざっと概算した。
オーダーメイドの靴なんて、いったいいくらするんだろう。美麗さんは「お店」で働いてるって言ってたけど、もしもそういう類のお店なんだとしたら、結構なお値段なんじゃないかしら。ぼくとほづのお金を合わせてなんとかなるといいんだけど。
でも、ぼくらのそんな心配をよそに、美麗さんは何も聞こえないような顔でどんどん先へと歩くばかりだった。
ほづが小さく舌打ちをする。
「おい、ってばよ――」
「うるっさいわね。もう暗くなる時間よ。ガキは大事なシノちゃん連れて、さっさとお家に帰んなさいな」
「って、これで帰れるかっつーの! ばっきゃろ!」
美麗さんが肩をすくめ、冷ややかな視線をほづに投げた。
「俺に消えて欲しいってんなら、すぐにでもそうしてやんよ。けど、連絡先ぐらいはきっちり寄越せ。でなきゃこのまま、店までずっとついてくぞ!」
美麗さんの眉が片方だけ、ぴんと跳ね上がる。
「そうやって怒鳴り声さえあげれば、人が何でも言うこときくと思ったら大間違いよ。いいから吼えるしか能のないサル男子はちょっと黙ってなさい。……シノちゃん? こっちに来てくれないかしら」
「え? は、はい……」
指だけをちょいちょいと動かすような手招きで呼ばれて恐々そちらに近づくと、美麗さんは綺麗なビジューで装飾られたスマホを取り出してこちらに向けた。
「はい。シノちゃんとだったら交換したげる」
「って、コラ――」
ほづが途端に鼻白んだけど、美麗さんは完全に「柳に風」だ。
「仕事でもあるまいし、なんであたしが青臭くて暑ッ苦しいサッカー馬鹿となんて連絡先交換しなくちゃなんないのよ。どうせだったら、かーわゆい妹分とにしたいに決まってるじゃない」
「え、……えと」
おたおたしていると、美麗さんはすうっと目を細めて苦笑した。
「やーだ、トロい子ねえ。そんなので、これから先どうやって生きてくの? あたしたちみたいな者は、普通の女よりももっとずっと強く賢く、美しく生きなくっちゃダメよ? 世の中が王道を明け渡してくれないってんなら、自分で切り拓く気概がなくっちゃ。そうでしょう? ……さあさあ、早くしてちょうだい」
うわあ、なんだかめちゃくちゃ説得力あるなあ。そして、ほんと有無を言わさぬ感じだ。
そうしてぼくと美麗さんのスマホは、あっという間にお互いの連絡先を交換した。
「……これで文句ないでしょ。今後、あたしに連絡したいなら、この子を介してにしてちょうだい。あ、この子からデータだけもぎ取ってあんたが連絡してきても、きっちり無視するからそのつもりでね」
「って、待てよ。なにを勝手に――」
「勝手に人の縄張りにズカズカ入り込んできたのはあんたじゃないのよ。本来だったらまったくお呼びじゃないところ、ここまで付き合ってやったんだから文句は言いっこなし。それじゃあたし、ほんっと遅刻しちゃうから、もう行くわね」
そうして、大きな体を翻して今にも消えてしまいそうな美麗さんを、ぼくは必死に呼び止めた。
「あのっ、あのあの、美麗さんっ……!」
かつ、とヒールの踵を鳴らして一瞬だけ彼女がこっちを見てくれる。
「く、靴の、お金は――」
ああ、と美麗さんは意味ありげに微笑んだ。
そうして顔の横で、綺麗なスマホをひょいひょい振って見せた。
「それはまた連絡するわ。靴ができあがったら、マサさんのところに引き取りにいって頂戴」
そうして今度こそ、美麗さんは凄い速さであとも見ないで行ってしまった。
○○○
予想に反して、ほづはぼくにお兄さんの連絡先を教えろとは言わなかった。
帰りの電車の中で、ぼくはほづをそうっと見た。
夜の色に傾きかけている窓の外を見やるほづは、いつも以上に無口だった。もちろん、いつもそんなに分かりやすいわけじゃないけど、今のほづは普段以上に、何を考えているのかが分かりにくかった。
だから、さっきぼそっと訊ねられたひと言を、ぼくはすぐには理解できなかったんだ。
「……うち、来んだろ」
「え、……いいの」
そう聞き返してしまったら、ほづは変な顔になった。
「なんだ。お前は別にいいのかよ」
「あっ、……そ、そういう意味じゃ、ないよ……」
明日は日曜日。
この時間からほづのアパートに行くってことは、つまり……そういうこと。
うん、ぼくだってもちろんそのつもりで来ているんだから、それはいいんだけど。
「……お兄さん、元気そうだったね」
恐る恐るそう訊いてみたら、ほづは動かない表情のまま、ただ低く「おお」と答えただけだった。
「よ、……よかった、ね……?」
ほづは、それには答えなかった。
土曜の夕刻、この街を走る電車は混んでいる。
電車の入り口付近に立ったぼくらは、ほとんどぴったりと体をくっつけるようにしている。
「お相手のかたって、どんな人だろうね。……きっと、とっても素敵な人だよね」
そう言ったら初めて、ほづの目がふとせつなげな色になった。
「……よかったね」
ぼくはもう一度、同じことを繰り返した。
なんだか不思議に、それが自分のことみたいに嬉しくて少し笑って見せたら、ぐらりと電車が揺れて、ぼくはよろめいた。やっぱり、こういう靴ってちょっと不安定だ。
と、ほづの腕が僕の腰に回ってきて、ぐいと抱き寄せてくれた。
「しっかり立っとけ。んな靴履いてっとすっ転ぶぞ」
「……ん」
ほづの手が熱い。
ああ、早くキスしたいな。
もちろん、それだけじゃないけどね。
きっとほづも、そう思ってくれているよね。
そうっとその胸に頬を寄せたら、上から小さく囁かれた。
「……シノ。今日……ありがとな」って。




