○4○お気に
そこからぼくは、できるだけかいつまんでだったけど、ぼくとほづとの出会いやら、ゆのぽんとのことについて美麗さんに話して聞かせた。
初めのうちは時間を気にする風で、あまり興味を引かれない顔だった美麗さんは、次第にぼくをじっと見て、真剣な目でぼくの話を聞いてくれるようになった。
あの、高校二年の夏の顛末。
その後、高校に戻ったはいいけれど、そこで起こりかけた怖い事件。
それを助けてくれたのはいつも、ほづと、友達のゆのぽんだったこと。
「ぼくは、あの田舎での事件のとき、下手をしたらもう命も失ってたかも知れなかった。それを助けてくれたのも、ここまでずっと力になってくれたのも、このほづと、友達のゆのぽんなんです」
美麗さんは、黙っている。
その瞳に、なんとも言えない寂しげな光が宿ったのを、ぼくはちゃんと見ていた。
その顔を見ただけで、ぼくには多くのことが分かった気がした。
この人が、学生時代に舐めざるを得なかった沢山のつらいこと。
ひとの醜い嗜虐心も、ひとを安易に差別し、見下したがる狭量さも。
「いじめ」なんて言葉でひとくくりにされる事柄には、ほんとうに多くのことが含まれている。
単純に、ものを捨てられたとかお金をとられたとか、体を傷つけられたなんていうことだけにとどまらない。
それは、ひとの心を壊すんだ。
何より、その人が生きていこうとする、大切な力を奪い取るんだ。
この人は、間違いなくそういう残酷なことをされてきた人。
そしてそのとき、誰からの助けもさしのべてもらえなかった人なんだ。
あの特殊な、学校という名の閉鎖された空間で、じわじわと絞め殺されてゆくような。体の皮を一枚ずつ剥ぎ取られてゆくような。
そんな体験をした人にしか、その慟哭は分からない。
多分……ぼくにも本当には、わかっていない。
――だってぼくには、ほづがいたから。
(……だけど。)
「分かってるんです。ぼくは、とってもラッキーだったんだってこと。本当は、ほづやゆのぽんみたいに素敵な、頼れる友達なんて誰もいなくて、ひとりで悩んで……。まわりの人の心無い言葉だのなんだのにメチャクチャに傷つけられて――そうなってる人がこの世の中には、たくさんいるはずだっていうことも」
ぼくはできるだけ、声に抑揚をつけないように気をつけていた。それは、なんとかして自分の感情に流されまいと思ってしていたことだった。だけど、気持ちはそうでもあんまり成功しているとは言えなかった。
「だから……とっても、とっても、ほづには感謝してるんです」
声が軋んで、まるでさび付いた蝶番みたいな不快な音が混ざり始める。
「だけど、このことも分かってる」
そう言って、ぼくはそっと、隣でずっと黙ったままぼくの話を聞いているほづを見やった。
「ほづが、お兄さんの……美麗さんのことがあったからこそ、ぼくの力になってくれたんだろうなってこと――」
「…………」
ほづが、はっとしたように顔を上げた。
それはなんだか、胸の中のいちばん大事な秘密の箱を暴かれた、そんな人の顔に見えた。
でも次の瞬間にはもう「違う」、と言いたげな目の色がひらめいた。けど、僕は黙って首を横に振って見せた。
「もちろん、ほづがぼくのことを心配してっていうのは嘘じゃないんだっていうのも分かってる。でも、もしもほづにお兄さんのことがなかったら、ここまでぼくのことを心配して、関わって、守ってくれていたかどうかは、分からないとも思ってる――」
「…………」
ほづが、ぎゅっと唇を噛んでテーブル上のコーヒーカップを睨みつけたようだった。
ほづの手が、自分のカーゴパンツの膝のところを力いっぱい握り締めるようにしている。気がつけばその手の甲に、ぼくは隣から自分の手を重ねていた。
(ごめんね……ほづ)
許してね。
ちょっと残酷なことを言っちゃったよね。
ぼくだってこんなこと、いま言うつもりじゃなかったんだけど。
でも今、お兄さんを引き止めるには、ぼくがここで、これを言うしかないんじゃないかと思うんだ。
ただの上滑りな言葉だけじゃ、ひどい過去の傷を抱えたこの人の心には届かない。
真摯で、まっすぐな、そして心から出た言葉でなくちゃ、そんな人には届かないんだ。
……前に、ぼくがそうだったように。
あの日、あの田舎の病院で。
君とゆのぽんがぼくに向かって、そうしてくれたようにだよ。
ぼくは、再びお兄さんのほうを見た。
「ほづは、全部じゃないとは思うけど、きっとぼくを守ることで、昔お兄さんにしてあげられなかったことを少しでもしたかったんじゃないのかなって思ってます。……つまり、ぼくがほづにあんなに助けてもらえたのは、お兄さんがいてくださったからだ」
美麗さんは黙ったまま、難しい顔になって黙り込んでしまった弟をちらりと見たようだった。
それは、ぼくの気のせいだったのかもしれない。でも、その瞳からは、さっきまではあった険が明らかに薄らいだように思えた。
「お兄さんのことがあったから、ぼくはほづに守ってもらえた。だから今、こうして無事でいられるんです」
「…………」
美麗さんがじっと、今度はぼくを見返した。
そのとても綺麗な顔が、次第にじわじわと熱くぼやけていくのを、ぼくはもうどうにもできなくなっていた。
「お兄さんが体験してくださった、多分、たくさん、たくさんのつらいことがあったから……ぼくはほづに助けてもらえた。だから……もし、もしもこうやってお会いできたら、必ずお礼を言いたいって……思ってた。ありがとうって、ちゃんと言いたいって……思ってたんです」
もう、そこまでしかちゃんとは喋れなかった。
あとはもう、ぼくはぼろぼろ溢れてきちゃったものを、手の甲でごしごしやって俯いているだけだった。
「あ、ありがとう……ございました――」
そうして。
ぼくはテーブルに額がつきそうなほど、深く深く頭を下げた。
それに倣うようにして、ほづも少し、頭を下げたみたいだった。
美麗さんは、しばらく何も言わなかった。
下を向いているからどんな表情をしているのかは分からなかったけれど、この場にさっきまであった、あの棘まみれの空気はもう存在していなかった。
かちゃかちゃと、カウンターの方から食器の触れ合う音がする。
やがて美麗さんが、ふと店の掛け時計を見て、はっとしたようだった。
「……あらやだ! こんな時間じゃない!」
そうして今度こそ、有無を言わさぬようにしてがばっと立ち上がった。立ち上がると美麗さんは、ほづに負けず劣らずの身長で、なんだか女ものの衣服をまとった仁王像みたいに見えた。
そのまま片方だけ踵の折れたヒールを履いた足が店の外へ出て行こうとするのを、ぼくらは呆然と見送った。
と、美麗さんはマスターにお代を支払おうとして、ぱっとこちらを振り向いて言い放った。
「ちょっと! あんたたち、あたしに奢らせようって言うの? さっさとこっちに来て支払いなさいよ!」
「……へ?」
ぼくらはそのとき、ちょっとぽかんとしていたかも知れない。
いつもはあまり物事に動じないほづですら、珍しく呆けたみたいな顔で自分のお兄さんを眺めているようだった。
と、とうとう美麗さんが痺れを切らして一喝した。
「ぐずぐずしないで! 時間がないのよ! まったくもう、靴を買いに行く時間がなくなっちゃうでしょッ! あんたたち、ちょっとでも悪いと思うんなら弁償してよね! これ、彼氏に買ってもらった、あたしの大事なお気にだったんだから!」
「……おお?」
ほづが本格的に驚愕の顔になる。
だけどぼくは、「ああ、やっぱり」と思って笑っちゃった。
やっぱりその指に光っているのは、そういう意味のあるものだったんだね。
美麗さん、今は幸せなんだろう。
「なんだかよかったな」なんて思っていたら、また大きな声でしかられた。
「ちょっと、シノちゃん! 可愛いからって、笑ってりゃ何でも許されると思ったら大間違いよッ!? 早くお財布もっていらっしゃいッッ!」
「あ、はあ〜い……」
ぼくはちょっと困った笑顔になると、ほづの腕を両手でひっぱって立たせ、一緒にレジのほうへと歩いて行った。




