○3○美麗ちゃん
「で? あんたがこの子と付き合ってるから、だから何だっていうの。別に関係ないでしょう。今はもう、あんたとあたしは何の関係もないんですから」
ぼくに向けていた目をすいとほづに戻したときには、もう省吾さんはさっきの優しい笑みを消していた。
ほづは眉間にぎゅっと皺をよせたまま、少し沈黙して自分のお兄さんを見返した。
「……連絡、とってねえんだろ? 親父とも、お袋とも。もう何年もよ」
省吾さんは答えない。
「連絡先も教えてねえんだろが。俺にはそんなに言わねえが、あれで心配してんだぞ」
「……うるさいわよ」
省吾さんが唸るように言って、また珈琲をひとくち飲んだ。
ぼくはさっきからもう、ずっとはらはらしながら二人のやりとりを聞いている。
「あんたに何が分かるの。そりゃ、親ですからね? 子どもの事は心配でしょうよ。でも、だから必ずそばにいなけりゃならないってもんでもない。そばに居れば居たで、今度は色んな面倒ごとがふりかかってたはずなんだから。ご近所さんの噂話だってそう。就職できるのできないのってことだってそうよ」
省吾さんの声はひたすらに淡々として、やたらに説得力があるみたいだった。
ぼくはなんだか、とても他人事とは思えなくて、胸の痛くなるような思いでその言葉の数々を聞いていた。
「離れていたほうが幸せなことって必ずあるの。幸い今は、誰にも迷惑掛けずに生きてることだし。今はこれが、あたしにとってのベストだと思ってるわよ」
「…………」
ほづは渋面のまま、沈黙している。
ぼくはそっとそちらを見て、またきりきりとお腹のあたりに痛みを覚えた。
ほづにはとても、この人に太刀打ちする術がなさそうだった。
「連絡先どうこう言うなら、あんたから伝えてもらえば十分よ。『性別を間違えて生まれてきちゃったあなたたちの子どもは、遠くで元気にしています』って。それなりに、今は幸せにもしていますって、そう言っといて」
「って、待てよ――」
言いたいことだけを言い捨てるようにしてテーブルの上の伝票をぱっと握って立ち上がろうとした省吾さんの腕を、ほづはあっという間に掴んでいた。
省吾さんが、ぎろりとほづを睨みおろす。
「放してよ。さっきみたいなことしたら、大声あげてやるんだから。この辺り、あたしの知り合いはたくさんいるのよ? あたしが本気で知り合いじゅうに助けてって叫んだら、あんたなんてあっという間に怖いお兄さんたちに囲まれて、ぼこぼこにされちゃうんだから」
(……え)
思わず飛び出た怖い台詞に、ぼくはびびった。ちらっと見れば、カウンターの向こうのマスターが意味ありげな視線をこちらに一瞬、よこしたようにも見えた。
これ、まんざら嘘でもなさそうだ。
「いやあの、ちょっと待ってくださいっ……!」
ぼくは立ち上がって、ほづの手でつかまれている省吾さんの手首をその上から両手でつかんだ。
「とにかく、あの……落ち着いて。お願いです。座ってください……」
そのまま必死で頭を下げる。
そしてそのまま、思ったことを口走った。
「あのっ、ぼく、ほづから聞いてます! 省吾さんがおうちから出て行かれた事情とか、昔のこととか。けっこう詳しく聞いてて、それで――」
「シノ――」
ほづが少し困惑したみたいな声でそう言ったけど、ぼくは構わずに言い続けた。
「ずっと、お会いできたらいいなって思ってて。だってぼく、周りにそういう人――ぼくみたいな感じの人、だれもいなくて……。お話ししたいなって思ってたんです。お願いです。もうちょっとでいいので、いてください……!」
「…………」
省吾さんは黙ったまま、じっとぼくの顔を見つめ返した。その瞳に、わずかだけれどもゆらぎがあるのを見て、ぼくはさらに頭を下げた。
「お願いです! お願い、します……!」
永遠にも思える沈黙があった。
でも、とうとう省吾さんがこう言った。
「……しょうがないわね」
「とりあえず、手を放してよ」と言われてしまって、ぼくとほづは恐る恐る省吾さんの手首を放した。
省吾さんが席に座り直す。そうして、ふうっと深く息をついた。
「『静かにしてちょうだい』って言ったわよね? 二人とも、それを守ってくれるっていうなら、もう少しなら構わないわよ。だけど、本当に少しだけよ? このあと、あたしも仕事なの。あまり時間は取れないわよ。……なにしろ」
そう言って、省吾さんはなぜかひょいと、足許から何かを持ち上げて見せた。
「こいつのお陰で、この通りですからね。お店の前に、行きつけの靴屋さんに寄らなくちゃならないんだもの」
省吾さんのその手には、ぽっきりと踵の折れたヒールがぶらさがっていた。
○○○
「まったく。サッカー部だかなんだか知らないけれど、筋肉バカなんてお呼びじゃないのよ。シノちゃんだっけ? あなたも気をつけなさいよ? こういう脳筋バカぐらい、手に負えないものはないんですから」
マスターに珈琲の二杯目を注文してから、溜め息をこぼしつつ省吾さんはそう言った。
「今はラブラブ、幸せ全開の時期でしょうけど、いざ別れるってなったら大変よ? さっきみたいにものすごい勢いで追いかけてきて、タックル食らわす勢いで羽交い絞めにされて、それこそそのまま一生監禁されかねないわよ。あ〜、危ないったらありゃしない」
「え、えええ……」
待ってよほづ。
お兄さんにそんなことしちゃったの?
その勢いでヒールが折れるって、どんな格闘戦だよ。
こんな街なかで、いったい何をやらかしてるんだよ!
それにしてもお兄さん、どこも怪我なんてしなかっただろうなあ。
いや、うん。ガタイだけ見れば省吾さんだってほづといい勝負みたいだし、まあ大丈夫だったんだろう。そうだろう。
「ああ、それと。その『省吾さん』ってのはやめてくれない? あたし今、お店では『美麗ちゃん』って呼ばれてるの。もうそっちで呼ばれ慣れちゃってるから、そっちでお願いしたいのよね」
「あ、……は、はい……」
ぼくは素直に頷いたけど、ほづは明らかに変な顔になっただけだった。
いや、こういう人ってそう呼ばないと、多分返事もしてくれないと思うよ、ほづ。
なんだかちょっと、佐竹さんのお母さんを思い出して、ぼくはふふっと笑ってしまった。
途端、省吾さん――じゃなかった、「美麗さん」――がとても朗らかな表情でころころと笑ってくれた。
「あ〜ら。笑うとますます可愛いわね? 穂積ったらこんな子がタイプだったのねえ。やあだ、妬けちゃう」
「え……」
ぼくはその瞬間、かあっと首から上が熱くなるのを覚えた。
「……うるっせえよ」
ほづはほづで完全な半眼だ。そして、ほとんど歯の間から押し出すみたいにして、地を這うような声で唸っただけだった。




