○2○珈琲店
電話で指定されただけでは、ぼくはそこにはたどり着けなかった。
それを想定していたらしく、ほづは電話のあとで改めてそこの住所や店の名前をメールで送ってくれていた。ぼくはスマホで検索して、どうにかこうにか言われた場所へとたどり着いた。
そこは、先ほどの交差点から五百メートルほど先の場所だった。人通りは十分にあるけれど、もっとも賑やかな界隈からは少し外れて、ビルなんかの建物もなんとなく古びた様子に見える。
ほづが指定してきた店は、やっぱりその経てきた年数を感じさせるような、ごく古い佇まいの小さな間口の喫茶店だった。ころりんと甘い音のするドアベルを鳴らして恐る恐る扉を開くと、店内は思った以上に暗かった。
明かりはというと、黒っぽい板壁にあるランプを模した小さな照明だけみたいだ。その光に照らされて、年季の入ったテーブルや椅子がぼんやりと浮かんで見える。
テーブルはそんなに多くはなかったけれど、ちらほらとお客さんが座っているらしいのがわかった。
カウンター席の方だけはもう少し明るくて、店主らしい年配のおじさんが黙々とコーヒーを淹れているのが見える。その背後には、木製の古い戸棚にずらりと綺麗なカップが並べられ、オレンジの明かりを反射してつやつやと輝いて見えた。
こくのあるコーヒーのいい香りがする。ここ、結構おいしそうだな。
いわゆる、地元の人しか知らない穴場っていうやつなのかも。
と、奥のほうから声が掛かった。
「……おう、シノ。ここだ」
はっとしてそちらに目をやってみたけれど、外界の光度に慣れた目には、どれがその声の主なのかもすぐにはよく分からなかった。何度か目を瞬いて、やっと何となく室内の様子がわかりはじめてからようやく、ぼくは暗闇の底から大きな影が手を振っているのを認めた。
その顔を見分けて、ほっとする。
「ほづ……」
ああ、良かった。やっと会えたよ。
ぼくは足許に気をつけながら、ゆっくりそちらに歩み寄った。
「もう、びっくりしたよ。一体なにがあったの――」
言いかけて、テーブルを挟んでほづの正面に座っているらしい人の背中に気づき、ぼくはびくりと足を止めた。
ゆらゆらとウェーブした長い茶系の髪が揺れて、その人はこちらに顔の半分だけを向け、不審そうな目でぼくの全身を素早く観察したみたいに見えた。
(女の、人……? いや、違う――)
その瞬間。
ぼくの体に、電撃が走ったみたいになった。
だって、分かったんだ。
ほづがさっき、どうして突然あんな顔をして、急に走り出していったのかが。
その人は、とても趣味のいいシンプルなデザインの、多分うっすらと花柄の地の入ったヴァイオレットのワンピースを着ていた。多分っていうのは、それだけ店内の照明が暗すぎて、微妙な色は見分けにくい感じだからだ。
肩にパッドが入っているわけでもないのに、その人はがっちりした体格で、とても肩幅があるように見えた。だけど、それを上手く隠すようにして肩からパールホワイトっぽい薄手のストールを掛けている。それもやっぱり、細やかな透かし織りがなされた品で、決して下品な印象じゃなかった。
「……来いよ、シノ。ここ座れ」
ほづが手招きをしたのに吸い寄せられるようにして、ぼくはふらふらとそちらに歩み寄り、彼の隣にすとんと座った。木製の古びた椅子は幅が狭くて固かった。持っていた紙袋は、ほかにどうしようもないので床に置く。がさがさと、その音が奇妙に耳につくような気がした。
ぼくが座り込むと同時に、年配のマスターがしゃがれた声で「何にしますか」と訊いてきた。ぼくはちらっとほづの手元にある、まったく手のつけられていないらしいコーヒーカップを見た。そうして「あ、彼と同じものを」と答え、すぐに目の前のひとに視線を戻した。
「紹介するわ。兄貴の、省吾だ」
腕組みをして、じっと相手に目を据えるようにしたままだったほづが、唸るような声でそう言った。
(やっぱり……)
ぼくは驚きのあまり、しばらく口もきけなかった。でも、そこから続いた沈黙の意味にやっと気がついて、慌てて相手の人に頭を下げた。
「あ、あのっ……。篠原、といいます。あの、ほづとは――」
「へえ。こんな子とお付き合いしてるんだ。穂積も大きくなったものね」
それは、本物の女性にしては低いけれど、かといって本物の男の人にしてはやや高めの、艶のあるいい声だった。
ぼくはまだ戸惑いながらも、そっと隣のほづに目をやった。
「あの、ほづ……。ぼく、下の名前も言ったほうがいい……のかな?」
ほづはちらりとこっちを見て、ちょっと苦笑したみたいだった。
「……おお。むしろ、そうしてくれた方が話が早いかと思ってな。お前さえいいんなら、そうしてくんね?」
「……うん」
相手の人が、少し怪訝な目になったようだったけど、ぼくは改めて姿勢を正してその人を見た。
「……あの。ぼく、篠原和馬と言います。穂積くんとは高校時代のクラスメートで、今は、その……こういうお付き合いを、させていただいています――」
ああ、声が震えちゃった。
喉がからからだよ。ぼくは思わず、目の前にあったほづのものらしい水を勝手に貰って飲んでしまった。
省吾さん――なんだかこの見た目からだと、今はほかのお名前で呼んだほうがいいような感じだけど――は、しばらく絶句したようになってぼくを穴のあくほど見つめていた。そうしてその目がもう一度、素早くぼくの全身をくまなく探るのを感じた。なんだかその視線が、痛いような感じだった。
省吾さんは綺麗にお化粧していて、本当はいかついのだろう顎の線もうまく髪でカバーして、今はそんなに男っぽくは見えない。だけど、彫りが深くて唇が薄い感じとか目の雰囲気とかが、確かにほづによく似ている。
指先には毒々しい感じじゃなく、ほんと品のいい色のマニキュア。それになんだか、とっても可愛らしいデザインのリングが薬指にはまっているのを、ぼくはしっかり観察していた。
と、マスターがぼくにブレンドコーヒーを運んできて、またカウンターの向こうに引っ込んでいった。それを機にといった感じで、省吾さんは自分の前にあったコーヒーカップに口をつけ、さりげなくそこについた口紅を拭ってから、やっと口を開いた。
「……驚いたわね。まさかあんたが、こういう子とお付き合いするとは思わなかったわ」
その口ぶりにも表情にも、特になにかを揶揄するような感じはなかった。
「だから言ったじゃねえかよ。なんで俺が、んな事で嘘つかなきゃなんねえんだ」
ほとんど膨れっ面みたいな顔になって、ほづが面倒くさそうに言った。
省吾さんはすうっと目を細めて、うっすらと口の端を引き上げた。そしてかすかに鼻を鳴らした。
「体のほうもバカでかくなったとは思ったけど、あんた随分ね。態度も口も、昔の片鱗もないじゃないの。昔はオネショがなかなか治んなくて、布団に世界地図を作っちゃあ、あたしに泣きついてきたくせに。『兄ちゃんどうにかしてよ、母ちゃんに怒られるよ』って、ひいひいべそなんかかいてさ――」
「ばっ……! なに言ってんだいきなり! 今、んなこと関係ねえだろ!」
ほづが赤くなって怒号をあげると、マスターがちらっとこっちを詰るような目で見たようだった。
「あらごめんなさい。でかくなったのは形だけみたいね? ここは大人が静かに上等のコーヒーを味わうためのお店よ。ガキは端からお呼びじゃないの。うるさくするならたたき出すわよ。ほかのお客さんに迷惑ですからね」
省吾さんは、ほづの剣幕など意にも介さない感じだ。むしろ余裕そのもので、にっこりと微笑んでいる。ほづが「ぐう」と変な声を上げて黙り込んだ。
わあ、すごいな。
なんとなくだけど、役者が違うっていう感じ。
ちょっとほづ、可哀想な感じもするけど。
やっぱりあれだね、幼少時の失敗を知ってる人には、頭が上がんないもんだよね。
と、省吾さんは今度は不思議なぐらいふわりと優しい微笑みを浮かべてぼくを見た。
「ずいぶんと、可愛い子ね? その格好じゃ、まるっきり女の子にしか見えないじゃない。これじゃノーマル男子だってあっという間に釣れるでしょうよ。ああやだ。こんな年になってまで、誰かを羨んだりしたくないっていうのに」
台詞自体はそんなのだけど、省吾さんの口ぶりはやっぱり暗いものではなかった。
ぼくはもう、なんて言っていいかもわからずに、ただ膝の上で握り締めた自分の拳を見下ろすしかなかった。
なんだろう。ぼくの聞き間違いなんだろうか。なんか、「羨ましい」って言われたような気がするんだけど。




