◇7◇ゆびさき
その土曜日、俺は洋介を剣道場へ連れて行って、そのまま稽古の見学をした。
山本師範の道場はけっこう盛況で、成人から小学生までの色んなクラスでそれぞれの年代の人たちが、日々、竹刀を手に汗を流している。中学生以上になれば部活で稽古をする子が増えるので、佐竹がお手伝いをさせていただいているのは小学生のクラスだけだ。
ただ最近は、佐竹の言を借りれば少子化の影響で学校に剣道部のないところも増えてきているらしい。あの道着や防具なんかがやたら臭くて不衛生になりがちで、女子には特に敬遠されてしまうみたいだ。剣道部の男子部室は、そりゃもうえらい臭いがするらしいし。
もちろんそれは、ちゃんと丁寧に道具の管理や手入れをしていれば大丈夫なんだけどね。そして佐竹はもちろんきちんとやっている人だ。
最後に師範に向かって皆が一礼して稽古が終わり、俺は二人が着替えて出てくるのを道場の門の外で待った。庭木のどこかで、鳴きはじめの蝉がちょっと不器用な声でじょわじょわいっている。
(あ〜、夏だなあ)
俺と佐竹は、洋介よりひと足先に夏休みが始まっている。
でも、一応「休み」だとは言っても、佐竹は決して暇になるわけじゃない。むしろ剣道の試合のために、普段よりも忙しくなるという話だった。地方での試合は泊まりになることもあるし、他大学との練習試合も入れると、結構な日数になるらしい。
小中学校が本格的な夏休みに入れば、塾の夏期講習も始まって朝から授業が入ってしまうことになるんだそうだ。
つまり佐竹は、ますます忙しくなるわけだ。
(せっかくの、夏休み……なのにな)
俺のほうは、まあ家事で忙しいとは言っても、まだちゃんとしたバイトも始めていない暇な大学生に過ぎない。俺の大学なんて、「この夏、なにして遊ぼうか」って女の子たちに声を掛けまくってる浮かれた男子学生が山ほどいるのになあ。
高校の頃より明らかに佐竹とゆっくり会える時間が減って、俺はこのところ、なんとなく物足りない。まだ四ヶ月しかたってないのに、同じクラスで毎日普通に会えていたころが物凄く懐かしく感じてしまう。
こんなに近くに住んでいるのに、まさか学校が分かれただけでこんなに会えなくなるなんて思いもしなかった。
そういえば、今日は篠原さん、茅野くんとデートなんだって言ってたな。
いいなあ。彼女は少なくとも、女の子の格好をしていれば誰の目を憚ることもなく彼氏とデートができるんだ。いやもちろん、あの子が抱えてることは大変なことだし、これからの苦労だって半端ないんだってことは、俺だってそれなりには理解してるつもりだけど。
でも俺は、ひと前で佐竹と手をつないで歩いたり、肩や頬に触れてもらったりなんて決してできない。そればかりじゃない。二人きりで映画に行ったりアミューズメント施設に行ったり、そんなことだって相当な勇気が要る。
馨子さんも似たようなことを言っていたけど、俺たちみたいなのがごく普通のデートコースを使わせてもらうのは、少なくともこの国ではまだまだ敷居が高いんだ。
どこまでも「俺たち友達です」って雰囲気を作って、友達としての話し方をして。
そこはやっぱり、素直に篠原さんが羨ましいなって思っちゃうよ。
そして、時にはひとり眠れない夜、ベッドの上では、真っ黒で恐ろしい考えが俺を取り籠めてしまいそうになる。
(……こんな風にして)
こんな風にして会えない日々が続いているうちに、ちょっとずつちょっとずつ、あいつとの距離が開いていってしまったら。
いつか俺の知らない間に、もとの「友達」っていう関係よりもずっとずっと密度の薄い、限りなく「他人」に近い間柄になってしまうのかもしれない、なんて――。
「……どうかしたのか」
三人でうちの最寄り駅まで戻ってきたところで、ふと佐竹がそう訊いてきた。
「あ、ああ……ごめん」
ちょっと、ひとりで考え事に耽りすぎちゃったかも。洋介でさえ、稽古着の入ったリュック型の道着袋と竹刀袋をかついだまま、少し不安げな目をして俺の顔を見上げている。
小柄な洋介には結構な荷物だから持ってやってもいいんだけど、「よほどの事情のないかぎり、道具は自分で管理させてください」っていうのが山本師範の指導方針なんだよね。
山本師範いわく、どんなスポーツでも芸術でも、道具を大切にするのは大事なことなんだって。なるほど、そういえば有名なプロ野球の選手でもそうしてるってテレビで見たことあったなあ。
「弘法は筆を選ばず」なんて言うけれど、弘法大師だって選んだからにはその筆をきちんと手入れして、大切に使っていたに違いないんだし。
まあそんな訳で、佐竹も大抵、稽古のある日は自分の竹刀と道着を肩に掛けている。
怪訝そうにこっちの表情を検分してるみたいな佐竹の目を見返して、俺はちょっと笑って見せた。
「なんでもないよ。今日の晩メシ、何にしようかな〜って考えてただけだから」
そんなの、少なくとも佐竹に対してはまったく通用しない言い訳だって分かってる。わかっていたけど、そう返すよりほかはなかった。
今は、そばに洋介もいる。だからこれ以上は、佐竹も問い詰めてきたりしないはず。これはちょっと、俺の狡いとこでもあるんだけどね。
佐竹は思ったとおり、一瞬目を細めただけで特に何も言わなかった。
◇◇◇
その日、俺は「ちょっと話があるから」と、佐竹をうちに誘った。
佐竹は思った通り「いや、隆さんのご迷惑になる」ってすぐに遠慮しようとした。だけど俺は、この間はあんな形でみんなでそっちに押しかけてしまったんだから、これはそのお返しみたいなもんだって言って押し切った。
事前に、父さんからも許可は貰っていたしね。俺にしては用意周到だったかも。
「……そうか。では、お言葉に甘えさせてもらう」
「やった!」
小躍りしたのは洋介だったけど、俺の気持ちもおんなじだった。
ちなみに馨子さんはと言えば、もうとっくに海の向こうへお戻りなっている。なんだかいつも、竜巻みたいな人だよなあ。
「良かった。夕飯、食べていくだろ? ……じゃなくて、食べていってよ」
佐竹は俺を見て少し沈黙したけど、やがて頷いてこう言った。
「……なら、材料費は出させてくれ。ご馳走になるばかりでは心苦しいからな」
そんなのいいのにと思ったけれど、そうでもしないと来てくれないことは分かっていたから、俺も佐竹の申し出を断ることはしなかった。
スーパーに入ると、洋介は例によって「アイスのとこに行っててもいい?」と俺たちのそばから離れて行った。
大荷物を背負った洋介の姿が陳列棚の陰に隠れてしまってから、俺たちの間には少し沈黙があった。
やがて、目の前の商品を検分するようにしながら佐竹が低く言った。
「……なにかあったのか。内藤」
「え……」
驚いて見上げると、ちらりとその視線が俺に向いた。
「この間から、どうもおかしい。何か気がかりなことでもあるのか」
「あ、……えっと」
うわ、ダメだな。俺、ほんとダメだ。
別に、いつもどおりに笑えてるって思ってたのに。
こいつにはやっぱり、そんなのみんなお見通しってことなのかな。
「さびしいんだ」とか、
「もっと触れて欲しいんだ」とか。
そんなこと、平気で言えたら苦労しないよ。
ましてやこんな場所で、俺がお前に、何が言えると思ってんの?
「…………」
ちょっとでも油断したら、掠れた半泣きみたいなかっこ悪い声が出てしまいそうで、俺は奥歯を噛みしめた。買い物かごの持ち手をぎゅうっと握り締める。
俺がなんにも言えないで視線を落とし、黙り込んでしまったのを、佐竹はしばらくじっと見ていた。それから不意に、そっと俺の耳元に顔を寄せてきて囁いた。多分、周囲のだれも自分たちを注視していないのは確認済みなんだろう。
「不安なことがあるなら言え。……出来る限りは、善処する」
「…………」
そうして、空いたほうの俺の手の、指先あたりをぎゅっと握った。
俺たちの手はいま、佐竹の荷物の陰になって周囲からは完全に死角になる位置にある。
佐竹の手から、体温だけじゃなくてなんていうか、そう、気みたいな濃密な熱量が流れ込んでくるみたいだった。
そのぬくみが、俺にそっと囁いている。
『心配するな』
『俺を信じろ』――
二人で親元を離れることにしている日まで、まだあと一年と少し。
俺たちは今も、その日を一日千秋の思いで待っている。
その日が来たら、俺と佐竹はどこかに部屋を借りて、一緒に住むことにしているからだ。
時間はときに残酷で、ともすると俺たちの距離を開かせようとするけれど。
それはもしかしたら、「できればそうなって欲しい」と考えているのだろう、俺の父さんの思惑どおりになるってことなのかもしれないけれど。
(大丈夫……なんだよな?)
佐竹に目だけでそう訊いたら、強い視線がまっすぐに俺を見て、「然り」と答えてくれていた。
俺は思わす、その指先を握り返した。
そうして、唇を噛み、天井の蛍光灯を親の仇みたいに睨みつけた。
だってそうしてないとつい、洋介に見られちゃったら困るものが溢れてきそうになったから。
無骨で大きな佐竹の手は、それからもしばらくそのままでいてくれた。
そうして彼の、真摯で温かな体温を伝えつづけてくれていた。
剣道の防具の衛生問題なのですが、
読者さまの中に「ひどいと篭手の裏側にキノコを生やしてる奴とかいましたよ」と教えてくださったかたがありました。ほんまかいな!
もはやカオスや……(笑)




