○6○ヲタの街
※不快な描写が少しあります。お気をつけください。
その、週末。
ぼくは約束していた通り、ほづとお出かけをすることになった。
事前に相談した上で、ぼくは今回は女の子の格好で出てきている。その道中を心配して、ほづはわざわざこっちまでぼくを迎えに来てくれた。
本当のことを言うと、ほづはぼくが水曜日だけ女の子の格好をして大学に行くことにもあまりいい顔はしていない。それはもちろん、合コンに無理に誘われるからなんていうこともあるけれど、何より心配してくれたのは通学時の痴漢の問題だった。
実は、ほづには怖くて相談できなかったけど、ぼく、水曜日には電車の中でそういう目に遭いかけたことが何度もある。
実家のある地域ではここまで電車が混んでいなかったからあまり感じたことがなかったんだけど、こっちは毎朝、本当に驚くぐらいに乗客が車内にすし詰めになる。よくあれで窒息する人が出ないで済んでるなあなんて心配になるぐらいだ。いや、本当は出ているのかも知れないけどね。
自分の特別な体の事情のことを考えると、そうでなくてもびっしりと女性客の乗った女性専用車両に乗るのも気が引けて、ぼくは女性の格好のときでも一般車両を使っている。だから、考えてみればそういう目に遭うのも時間の問題だったんだ。
最初はそう、大学に入って間もなくの春のこと。
ぼんやりと「何か動いてる気がするけど、気のせいかな」なんて思いながら入り口付近に立っていたら、ごそごそと下半身のほうで男のものらしい手が蠢いていた。怖くなって体をずらしたり、さりげなく離れてみたりしたんだけど、その手はとてもしつこくてなかなか逃げ出すことができなかった。
幸い、ぼくが電車に乗るのはたったの三駅だけ。だから、そんなに重大なことにはならずに下車して逃げることができた。もしもあれが長時間続くような状況だったらと思うと心底ぞっとするし、吐き気がする。そういう気持ちの悪いことが何度かあって、このところ少し、ひとりで電車に乗るのが怖くなってきていたのも事実だった。
本当のことを言うと、ぼくは別にわざわざ女の子の格好をしていなくても、それに近い目に遭ったことまである。細っこくてとても男らしいとは言えないぼくの体格や顔立ちは、どうやらそういう趣味のある人の目を無駄にひいてしまうものらしい。
一度なんか、男の子の格好をしているのに、後ろに立っているサラリーマンらしい男の息づかいがだんだん荒くなってきて、なんだか固いものが下半身に押し付けられているのに気がついた。びっくりして途中の駅で電車からとび降りたけど、しばらくは心臓がはねまくって、どうしても電車に乗り直せず、ホームのベンチに座り込んで震えていた。
あれは、本当に怖かった。
あのままじゃぼく、大学に通えなくなっちゃってたかも。
でも、今は内藤くんがいてくれる。
彼は水曜日は特に気を遣って、一緒に通学してくれているんだよね。幸い家も近くだし、彼もぼくもサークルには入ってないしで、時間的にも丁度よかったってこともあるけど。
本当に優しい人だなあと思う。
このごろは、さっきも言ったような事情のために「できれば、他の曜日も一緒にじゃダメかな……?」ってお願いしてみたら、快く「いいよ」って言ってくれて、行きも帰りも同じ電車に乗ってくれることが多くなった。
内藤くんには、どんなに感謝してもし足りない。
最初のうちこそ、一応は男の人だからと思ってぼくも警戒していたんだけど、今ではすっかりいいお友達だ。優しいし、謙虚だし。佐竹さんのことを話すときにはなんだかとっても可愛いし。
その上、いろいろと家事のことでも相談に乗ってくれるし。一緒に買い物して、今夜のメニューなんかも考えてくれたりするし。
「……そうか。ま、油断はすんなよ」
ヲタクの街に向かう電車の中で小声でそんなことを伝えたら、ほづは機嫌こそよくはなかったけれど、一応内藤くんのことを認めてくれたようだった。
ほづに隠し事をするのは気がひけたので、道々、ぼくはこのあいだの佐竹さん家での「お料理教室」の顛末についても彼に話した。
佐竹さんのお母さん、馨子さんについては、ほづは「へえ、すげえ母ちゃんだな」って笑ってた。だけど、なんとなくその顔が「ざまあみろ」的な感じだったのは、ぼくの気のせいなのかなあ。
佐竹さんにも頭の上がらない人がいるってわかって、ほづ、そんなに嬉しいのかな。
困ったもんだよ。
内藤くんから過去の顛末を話してもらって、ぼくは佐竹さんのお父さんがとても特殊な事情で行方不明になっているということも知った。そうして、すでにあちらの世界でお亡くなりだということも。
つまり、内藤くんにはお母さんが、佐竹さんにはお父さんがいない。
内藤くんの弟、洋介くんなんて、小学二年生のときに不慮の事故でお母さんを亡くしていることになる。そんなこと、ぼくには想像もできないことだ。
洋介君のことを考えると、ぼく、なんかもう、どうしようもなく泣きたくなってしまうときがある。
両親が揃っていても、ゆのぽんみたいに幸せではいられない人だっているんだから、「親がいるんだからいいじゃないか」なんて一概には言えないことなのは分かってる。だからやっぱり、ぼくやほづは恵まれているんだろう。
もちろん、ほづに内藤くんと佐竹さんのあの物語をするわけにもいかないから、少なくとも佐竹さんのお父さんの顛末については話せないけどね。
○○○
遂に「ヲタクの街」に到着して、ぼくはうきうきとその憧れの街を歩き回った。
今日のぼくは、イベントに参加するときと同じような、ちょっと派手めの服にしている。一般的な場面でも着られるようなデザインだけど、ゴスロリ調のメイド服みたいなワインレッドのワンピース。髪はツインテールにして、レースのリボンをあしらっている。
もう暑い季節だから、服の生地は薄いものだし七分袖ではあるんだけどね。髪も少しずつのばしてるけど、まだまだ色々遊べるような長さには足りないので、今日もウィッグをつけている。
ほづはいつもと似たような格好だ。
今日は少し、店を回って服を見たいとは言っていたけど、きっと似たような服を買うだけなんだろうなと思う。おしゃれじゃないとまでは思わないけど、ベースや色目はあんまり変えないで適当に着まわすタイプみたい。要は、面倒くさがりなんだよね。
いかにも「ヲタ向けの店です」って主張しているような、アニメグッズや同人誌も置いている書店の中では、ほづはさすがに居場所のなさそうな顔になっていた。
でも、それでもひと言も文句なんかは言わなかった。ぼくの見ているものには敢えて目をやらないようにして、ずっと黙って傍に立っていてくれる。
気のせいかもしれないんだけど、街なかでも店の中でも、ちらちらとこっちに視線を寄越してくる男性がいる。やっぱりぼくの格好、どこか変なのかなあと思ってしょげていたら、ほづがそういう男たちを目で殺すみたいにしながら低く唸った。
「……やっぱダメだな。お前ひとりでこんな場所、来させらんねーわ。危なすぎる」
ん? どういう意味だろう。
と思った途端、ほづがそういう男性の一人に怒号を放った。
「くぉら! 勝手に撮影とか、してんじゃねーぞ!」
見れば、そういう男の一人がさりげなく紙袋の陰からこちらにスマホを向けていた。ほづの形相とその体躯を見て取って、男は顔を蒼白にし、こそこそと店の外へ出て行く。周囲にいたほかの男たちも、蜘蛛の子を散らすようにして姿を消した。
「ったく……」
ほづが忌々しげに舌打ちをする。
いったい何が起こったのかがやっとわかって、ぼくはそうっとほづを見上げた。
「……ご、ごめんね……?」
「いや。これは別に、お前が謝るこっちゃねえ」
ほづはそう言って、ただぽすぽすとぼくの頭を叩いた。
ともかくも。
ひと通り、目ぼしいものを買うことができて、ぼくはほくほく顔でその店をあとにした。なかなか手に入らなかった同人さんの本、見つけちゃったよ。イベントでも通販でも手に入らなくて、もう幻かと思ってた大好きな作家さんの本。ほんとラッキーだった。今度、ゆのぽんにも見せてあげなきゃ。
ほづはぼくのずっしりと重くなった紙袋を持ってくれて、また電車に乗り、別の街へと向かった。
ほづの買い物はあっという間に終わってしまった。別にブランドにこだわるわけでもない上に、店頭でそんなにあれやこれやと迷うのは好きじゃないらしい。ぱっと見て「これと、これ。それと、これかな」って言ったかと思ったら、もうレジのほうに向かって歩き出している、そんな感じ。
少し歩き疲れてお腹も空いたので、ほづはぼくが行きたがっていた近くの執事カフェに一緒に行ってくれた。
さっきまでいた街のほうにはBL喫茶があったんだけど、さすがにそこだとほづは入れないので話題にするのも控えたんだよね。目の前で男子同士が絡んでるのを見て、ほづがどんな顔になるかなんて想像するまでもないことだし。
そう言うぼくも、そんなに三次元のBLに萌えるわけじゃないので構わなかった。
佐竹さんと内藤くんには何故かものすごーく萌えたけど、基本的にぼく、BLは二次元以下が主食なもんだから。そこはゆのぽんも、ぼくと好みはよく似ている。
びしっとした黒い執事コスに身を包んだ、ゆのぽんばりのイケメンさんが爽やかな笑顔で出迎えてくれる。そういえばゆのぽん、ここでのバイトでもちゃんとこなせそうだよなあ。
うん、きっと似合う。ちょっと見てみたいかも。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
定番の台詞。華麗なお辞儀。
でも物慣れないほづは完全に、目を白黒させていた。
「お? ……おう……」
「なんだてめえ、殺すぞ」的なほづの視線にも、さすが相手はプロの方だ。少しも動じず、にこやかな表情もいっさい崩さない。
そうしてぼくに降ってくるのは、もちろんこちらの台詞だ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ああ! 幸せ。
だってぼく、ずうっとここに、この格好で来るのが夢だったんだもの。
だけど。
ぼくらのそんな甘いデートは、そんなに長くは続けられなかったんだ。




