○4○馨子さん
佐竹さんの夕食が終わったら、時計はもう十一時になってしまっていた。
「送って行くよ」と言う内藤くんの言葉を遮るようにして、なんと佐竹さんのお母さん、馨子さんが「あ、いいわよ。しいちゃんはあたしが送っていくわ」と車を出してくれることになった。
歩いても十数分の距離のことだからとぼくはお断りしたんだけれど、馨子さんはほとんど聞いてもくれなかった。
佐竹さんは佐竹さんで、徒歩で内藤くんを家の近くまで送っていくようだ。
(あ、なるほど……)
ぼくはそこで、やっと理解した。馨子さんはこうやってさりげなく、この人たちの貴重な二人きりの時間をとってあげたんだろうということを。
見たところなんだけど、どうも佐竹さんと内藤くんもぼくらと同じで、お互いの両親の公認でお付き合いをしているらしい。でも、そうであっても多分ぼくらとは違って、ものすごーくプラトニックなお付き合いなんじゃないかと思った。
キスぐらいはしてるんだろうけれど、多分、それ以上のことはほとんどない。
ぼくとほづは、すでに高校生のときからもっとずっと深い、つまりそういう関係になってしまっているけれど、「大人になるまでは」って我慢してお互いを大切にしながら付き合えるって、それはそれでなんとなく羨ましいような気がする。
そうやって大切に育んだ関係は、きっと一生壊れたりしないはず。
そういう意味では、ほんといいなあって思っちゃう。
まあ、あのほづが間違いなく「そこまで我慢できるかあ!」って吼えるのは目に見えているけどね。
だけど佐竹さんはちゃんと、それを我慢してくれてるんだ。
きっと、それって思った以上に大変なことだろうなって思う。それでもそれをやり通しちゃうのが、あの佐竹さんって人なんだろう。
彼がそれだけ、内藤くんを大事に考えてるからこそできることなんだろうなあ。
ああ! やっぱりいいなあ。
○○○
馨子さんはぼくだけを連れ、エレベーターで地下駐車場へおりて車のドアロックを解除した。
国産車だけれども、そのなかでも有名なハイクラスの車種だった。色はシルバーグレーっていう感じかな。彼女自身は滅多に家に戻ってこないって聞いていたけど、こうやって車まで維持してるんだから相当な高給とりなんだなあ、馨子さん。
ぼくは彼女に勧められ、その助手席に座ってシートベルトを締めた。
すぐに発車するのかと思っていたら、運転席に座った馨子さんは意外なことに、エンジンを掛けて空調を動かしただけでこちらを見て、にっこりと微笑んだ。
わあ、近くで見ても本当に綺麗な人だ。大学生の息子がいるようには、ほんと、絶対に見えないよ。これ、お世辞でもなんでもない。ほんとにいるんだなあ、こういう人。
しゃべりだすとアレだけど、黙っていれば相当に品のあるすっきりした美貌の人だ。
佐竹さん、やっぱりお母さん似なのかなあ。
お父さんって、どんな人なんだろう。
「……ね、しいちゃん」
「は、はい……?」
なんだろう。
二人きりになったところで、なにか怖い釘でも刺されるのかしらと、ぼくは一瞬身構えた。
ぼくのこの状態のことを知っている大人は、そんなには多くない。だからそういう困った事態になったことはほとんどないけれど、これまでまったくなかったという訳でもない。
大人は表の顔と裏の顔をとても器用に使い分ける。それは、ぼくの高校の教師たちも同じだった。
パパとママがぼくのことを学校に話しにいってくれたあと、教師たちは表面上、一応は平静を装っていた。けれどその実、ぼくの扱いにかなり困っていたみたいだった。
なにしろ、男子としても、女子としても扱えない。体育のとき、更衣のためにどの教室を使うのかとか、どの教師が責任を持ってそれを管理するのかとか、最初のうちは戸惑っていたのに違いなかった。
だからふとした拍子に、「余計な面倒ごとを持ってきやがって」というような雰囲気というかオーラというか、そういうものを醸し出す教師も何人かはいた。これは仕方のないことだし、ぼくも予想の範囲内のことだったので、見て見ないふりをした。
実際、着替えについてはあのほづが全面的にぼくを守る方向に動いてくれて、大きな問題には……なりかかったこともあるけど、結果的になんとかなったわけだから。
そんな事情があったから、今日初めて会った大人の女性である馨子さんからどんな厳しい言葉がきたとしたって、ぼくが驚くことはなかったと思う。
それでもやっぱり、体が強張るのは仕方のないことだったけど。
「悪いんだけど、もう息子たちとは付き合わないでくれないかしら」とか。
「うちに来るのは、もうこれっきりにしてちょうだい」とか。
「できれば少しずつでも、内藤くんから離れてあげて」とか。
どんな棘だらけの言葉が来たとしたって、ぼくはちゃんと「はい」って答える。そのぐらいの覚悟はしておかなくちゃ、ぼくみたいな奴はとてもこの世の中で生きてなんていけないんだから。
大丈夫。ぼくはもう、ひとりじゃないもの。
今のぼくには、ほづだって、ゆのぽんだっていてくれる。
だからどんなことだって、どんな人だって、本当にぼくを傷つけることはできないんだ。
ぼくはそんな覚悟を決めながらも、思わず胸のところでぎゅっと拳を握った。
だけどそれは、ぼくのとんだ杞憂だった。
馨子さんは、さっきリビングで出していたのと何も変わらない声と表情のままこう言ったからだ。
「この国に住んでいれば、あなたのような子は色々と大変なこともあるだろうと思うけど。どうか、堂々と生きてね。あなたは何も、悪いことなんてしていないんだから。いい?」
「え……」
ぼくは驚いて、あらためて馨子さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
馨子さんは、その整った相貌に、なんだか女神さまみたいな、神々しいような笑顔を浮かべていた。
「何かあったら、遠慮なくあたしを頼っていいわ。そちら方面は専門外ではあるんだけれど、知り合いにいくらでも、敏腕かつ誠実な弁護士はいますからね。必要なら紹介もしてあげる。間違っても、そこらの変な弁護士にはひっかからないで」
そこでちょっと、馨子さんの目が憂いを帯びたみたいだった。
「……悲しいけれど、世の中には、他人の不幸をメシの種ぐらいにしか考えない輩も大勢いるの」
何を考えているのかは分からなかったけれど、馨子さんの目の中のその光はすぐに消えて、またもとの強くて明るい光が戻った。
「もしも今後、あなたに何か理不尽な災難がふりかかるようなことがあったら、あきちゃんや祐哉きゅんを通じてでも、あたしに連絡をよこすといいわ。警察関係にも、けっこう頼れる知り合いがいるしね」
「あ、……あの、かおるこ、さん――」
ぼくは呆然としてしまって、そう言うのがやっとだった。
「ああ、なんだったら」
そう言って、馨子さんはスリムな形のポーチから白い紙片を取り出した。
それは、この人の名刺だった。裏にはちゃんと、個人用の電話番号まで記してあった。
「ここへ直接、連絡してくれてもいいわ」
「…………」
ぼくは震える指でやっとそれを受け取った。
それを見つめて何も言えないでいるぼくに、馨子さんはまた明るい声でかろかろ笑った。
「幸せにならなきゃダメよ? 別に、うちの息子たちがああいうお付き合いをしているからってだけじゃないの。この国だっていい加減、そっちに舵を切る時期なのよ」
知的でゆらがない目の光は、確かにその息子さんに受け継がれているものなんだと、ぼくは改めてそう思った。
「先駆者はいつだって、傷だらけにならざるを得ないのかも知れないけれど。そんな傷からできるだけ守るのが、あたしたちの役目でもあるんですから」
「かおるこ、さん……」
ぼくの声はもう、どうしようもなく歪んでいた。
それと同時に、わーっと胸の真ん中が熱くなって、目頭もそうなって。
名刺の上に落ちた雫をみて、馨子さんはちょっと苦笑した。
さっきまでは見せなかった、不思議な優しい目をしていた。
「……いいわね? しいちゃん。ひとりであんまり頑張りすぎないこと。早めに周りにヘルプを要請することが肝要よ。そこだけは決して、遅きに失してはいけないわ。ひとりで袋小路に迷い込んでしまう前に、必ずあたしたちを思い出して。それだけはちゃんと、覚えていてね」
馨子さんはそれだけ言うと、あとはもう何も言わないで前を向き、アクセルを踏んだのだった。
○○○
『わあっ、そうなの! 佐竹さんのお母さんって、なんだかハンサムな人なんだねえ。さすが、あの佐竹さんのお母さんだよね――』
家に帰るなり電話をしたら、ゆのぽんもとても嬉しそうにそう言ってくれた。
『なんだかいいなあ、そういうの。ちょっと尊敬しちゃうかも。僕もそんな大人になりたいよ』
うん。それはもう、ぼくも全面的にそう思う。
ほんとかっこよかったもの、馨子さん。
『心強い人脈ができたじゃない。おめでとう、しのりん! これで少し、僕も安心できるっていうもんだよ』
「うん。ありがとうね、ゆのぽん……」
ぼくは、ほこほこしてくる胸の中のぬくもりを感じながら、そっと通話を切るボタンをタップした。
それから、週末のことを話すために、今度はほづの番号に電話を掛けた。




