○2○マグカップ
ぼくらはそのまま、ほとんど引きずられるみたいにしてその女の人の家に連れて行かれた。
「いいじゃないのいいじゃないの。せっかく会えたのにつまらないわ。どうせお料理教えてあげるんなら、うちのキッチンを使いなさいよ!」
という、その女性の鶴の一声があったためにだ。
なんだかもう、「ここで会ったが百年目」っていう勢いだ。その派手な見た目を裏切らない、かなり強引な性格みたい。それでいて不思議と相手に不快感を与えるわけじゃないところが、このひとの人徳なのかもしれないなあ。
当の内藤くんはといえば、さっきから必死で固辞している。
「え、ちょっと馨子さん、待ってくださいよ。佐竹の了解も得てないのに、そんな――」
でも、馨子さん――ちょっと信じられないんだけど、あの佐竹さんのお母さん――は、それをまるっきり、完全にスルーした。
「そうね、洋介くんも呼んであげましょ? これだとお家にひとりぼっちになっちゃうものね。お父様にはあたしからご連絡しておくから」
にこにこ素敵な笑顔のまま、でも本当に有無を言わさぬ感じでぼくらを連れて、馨子さんはぐいぐいと大股に駅を抜け、向こう側の区画へ出る。そのままどんどん、高級マンションが立ち並ぶほうへと歩いていく。
「馨子さんってば……。俺ほんと、こんなの佐竹に怒られるから――」
あああ。
内藤くん、ちょっと半泣きになってるぞ。びくびくしちゃって、ほんと、小さなわんこか小動物を彷彿とさせる。
それはそれで可愛いなあとは思うんだけど、正直、可哀想だよ。このままだとほんとに佐竹さんに怒られそうだし。助けてあげたいのは山々なんだけど、ぼくにもとっても、この女を止められそうにはなかった。
「あ、あのあの、ぼくっ、遠慮しますからっ……!」
どうにかこうにかそんな台詞を滑り込ませるけれど、細身で綺麗な頭身をしたその女性は凛とした雰囲気のままずんずん前方のマンションへと突き進んで行ってしまう。
海外でばりばりお仕事をされてる弁護士さんって話だったけど、ニューヨークやなんかをこんな感じで颯爽と歩いてるんだろうなあなんてぼんやり思った。
いや、だめだ。
ぼんやりしてたら、もうここはマンションのエントランスホールじゃないか!
ぼくは必死に声を励ましてもう一度言った。
「あの! さすがに悪いので、また今度に――」
「だめ! お願い、一緒に来て、篠原さん……!」
とうとう、内藤くんの目がすがるようなものになった。
あ、なるほど。
内藤くん、今、全身全霊で「ここに俺ひとりにしないで!」ってぼくに訴えてるよ。
「あ、……あううう……」
ぼくはとうとう、諦めた。
それで仕方なくそっと彼に頷いて、大人しくその女性のあとについて行った。
○○○
佐竹さんがお母さんと住んでいるというマンションは、前から「綺麗だなあ、どんな人が住んでるんだろ」なんてぼくがちょっと憧れていた、とても高級なマンションだった。新しいのに、内装に和のテイストがあちこち盛り込まれていて、間接照明なんかをセンスよく使った、しっとりと落ち着いた雰囲気。
なんとなくだけど、すごく佐竹さんっぽいななんて思った。
とはいえ馨子さんは、ぼくがそんな風に周りをゆっくり見回す余裕なんてほとんど与えてくれなかった。気がつくともう、あっというまにエレベーターにぼくらを押し込んで、とっとと自宅へと連れ込んでしまった。
これ、ほとんど拉致に近いんじゃないのかなあ。
「うっふっふ。じゃ、可愛いお二人は早速『お料理教室』を始めちゃって? エプロンも割烹着もあるから、好きなほうを使ってね。あたし、今から内藤さんにご連絡して洋介くんを迎えに行ってくるから。お留守番、よろしくね?」
そういい捨てて、馨子さんは玄関先にスーツケースを置いたまま、車のキーだけ持って風のように出て行ってしまう。
「ああああ……」
内藤くんが頭をかかえて肩を落とした。
そうかあ。これがいつもの風景なんだね。
内藤くん、結構大変なんだなあ。言ってみれば、あれが将来のお姑さんなわけだもんね。
ぼくだったら、パワフルすぎてついていけないかも。
あ、そういえばほづのお母さんもちょっと住む世界は違うけど、パワフルはパワフルな方だったなあ。
女の人って、子どもを生むと強くなるっていうけど、ほんとなんだなあと思う。
うん、でも、どっちのお母さんも素敵だな。
「あー。えっと。俺がするのもなんだけど、麦茶でもいれるから。とりあえず座って? 篠原さん」
頭を掻きながらそんなことを言って、意外と勝手知ったる感じで内藤くんがソファを勧めてくれ、ぼくは恐る恐るその高価そうな革張りのソファに腰をおろした。
リビングはきっちりと片付けられていて、ちりひとつない感じ。
さすがは佐竹さん。隙がなくて知的な感じがそのまま部屋の状態にも表れている。ぼくみたいに「とりあえず見えなければいいよね」って物を部屋の隅に寄せるだけとか、クローゼットにつっこむだけなんて頭の悪い片付け方は絶対にしなさそうだもんなあ。
そうやってきょろきょろしているうちに、内藤くんがぼくには硝子のコップに、自分には白くて大きめのマグカップに麦茶を入れて運んできた。
(……あ。それって)
もしかして、マイカップかな。うん、きっとそうだよね。
いいなあ、いいなあ。佐竹さん家に、自分のマグカップ置かせてもらってるんだ、内藤くん。なんだかすごーく、特別感が伝わってくる。内藤くん、ほんとに佐竹さんに大切にされてるんだな。
ぼくもほづん家に自分のカップ買って持っていこうかしら。
でもほづ、「食器とか別に、食えさえすりゃあ何でもいいわ」ってタイプだし、自炊なんかも真面目にはやってないから、あっても邪魔って思われるだけかもなあ。ここと違って、ただの普通のアパートだし。ここみたいに広くて綺麗なキッチンがあるわけでもないしなあ。
ちょっとしょんぼりしていたら、内藤くんが困った顔になった。
「あの……ごめんね? なんかとんでもない事になっちゃって」
「あ、ち、違うの。そうじゃなくて……。気にしないで? 大したことじゃないから」
「ん? そうなの?」
「うん。……えっと、その……マグカップ」
そう言って、ぼくは内藤くんの手元をちょっと指差した。
「内藤くんのなんでしょ? 羨ましいなあって思ってただけだから」
「え……」
その途端、ぶわわっと内藤くんが赤くなった。
「いやっ、えっと! いや、これは――」
おたおた慌てちゃって、やっぱり可愛い。じゃあそれ、本当にマイカップなんだ。
いつもの習慣でついそれを使っちゃったけど、今になって「しまった、俺!」とか思っているのが顔を見ただけではっきり分かっちゃう。
「その……。茅野くんのところには、置いてないの? 篠原さんの」
「ん、……まだ。だから今度、聞いてみようかなって思ったりして」
にこにこ笑ってあげたら、内藤くんはほっとしたような顔になった。
「……そか。茅野くんなら、もちろん『いいよ』って言うと思うよ。だってあんな、ものすごく篠原さんのこと心配して、大事にしてる人だもんね」
「そ、……そっかな」
なんの澱みもなくそんな風に言ってもらえて、ぼくは素直に嬉しくなった。
頬と耳のあたりが、じわじわ熱くなったみたい。
内藤くんがついに、いつもの笑顔でふわっと笑った。
「もちろんだよ。……じゃ、落ち着いたらそろそろ料理、始めようか?」
「あ、うん。どうぞ、よろしくお願いします」
そうしてぼくらは、なんとあの佐竹さんの家で即席の「お料理教室」を始めることになったのだった。




