◇1◇美女
翌日、火曜日。
朝、電話をかけてみたら、篠原さんは大学を休むということだった。それで、俺は普通に講義に出て帰宅してから、作っておいた料理をあれこれとタッパーに詰めて彼女の家に持っていった。
篠原さんはだいぶ顔色も良くなっていて、料理もすごく喜んでくれた。
俺、実は佐竹との過去の話を篠原さんにしちゃったこと、あれから少し後悔していた。あんな荒唐無稽な話をいきなりしちゃって、篠原さんだってきっと困ったんじゃないかなって思ったし。しかも篠原さん、あの時は病気で体もつらかったんだしさ。なんかすごく、悪いことしちゃったかなって思ってたから。
でも、恐る恐るそう訊いてみたら、篠原さんは「え、どうして?」と不思議そうな顔をしただけだった。
「だって内藤くん、こう言っちゃうとちょっと悪いんだけど、嘘であんな複雑な話をすらすらっと、慌てもしないで話せるような人じゃないでしょう? しかもどこにも、矛盾してるところなんてなかったし。だからぼく、全部ちゃんとほんとの事なんだなって分かったんだよ」
そうして、「本当のことを教えてくれてありがとう」って、可愛い笑顔を見せてくれた。
……ああ、うん。後で考えたら確かに、ちょっとひどいこと言われたような気はするけどさ。まあ、俺だしね。そこはもうしょうがないって言うか。
「驚かないの? びっくりしたでしょ」って訊ねたら、「そりゃ少しはね」って笑っていたけど。
「でもすっごく参考になった。本当に素敵なお話だったし。色々刺激されちゃって、ほんと嬉しい。もうこれだけで、ご飯何杯でもいけちゃうし、この先何年も生きていけるし! ありがとう!」
って、むしろほくほく顔でお礼まで言われたのが不思議だった。
(『ご飯何杯も』? 『この先何年も』って――)
いや、大げさだって。
なんだかよく分からないけど、ものを書く人ってこういうぶっとんだ所があるものなのかなあ。
そして今日は、水曜日。篠原さんが女の子の格好をして、例の哲学の授業に来る日だ。
もう七月に入ったこともあって、これが夏休み前のラストの講義。教授は夏休みの間のレポートの課題を学生に出すと、またのんびりと大教室から出て行った。
俺は今日もまたいつものように、篠原さんの周囲に群がりかけた男子学生を追い払うようにして、彼女と一緒に家路に就いた。
そしていつも通り、電車で最寄り駅まで戻る。
駅の改札を出たところで、篠原さんがこちらを見上げた。
「ね、内藤くん……」
「ん、なに?」
今日の篠原さんは、白いワンピースにベージュの薄いカーデを羽織っている。ほんと、これで体は男の子だなんて信じられないぐらいの可愛さだ。茅野くんがあれだけ余計な虫がつくのを心配するのも分かるよなあ。
篠原さんは、自分から話しかけたにも関わらずしばらく頬を赤くして逡巡したみたいだった。
「えっと、あの……。お料理、とっても美味しかった。本当にありがとう……」
「ああ……ううん。あんなの、別に大した料理じゃないし」
俺はちょっと嬉しくなって、つい余計な事までぺらぺらしゃべった。
「佐竹はちゃんと出汁をとるところからするんだけど、俺はそこまでやってらんないんで、ぱっとだしの素とか使っちゃうしね。あいつが作ったら、もっと、めちゃくちゃ品があって美味いのができるよ。ほんと、風味とか別もんだもん」
「そうなんだ。やっぱりすごいね、佐竹さん」
篠原さんは心から感心したような顔だった。俺はそれが、なんだか自分が褒められたみたいに嬉しかった。
「……へへ」
ここで自分が照れるのも変だなって思うんだけど、それでもやっぱり頭なんか掻いて照れてしまう。
篠原さんは少し赤くなって俯いた。
「あ、……えっと、それでね?」
バッグについたフリンジをちょっと弄りながら口ごもる様子は、本当に普通の女の子にしか見えない。もちろん、この子の心の中はちゃんと女の子なんだから、そう見えて当然なわけだけどね。
「すごーく、恥ずかしいんだけど、その……。ぼくに、お、お料理教えてもらえない……かな?」
◇◇◇
一時間後。
女の子の格好のままでうちに来るのは迷惑を掛けそうだからと、篠原さんは一旦家に戻って男の子の姿になってから、改めて俺と待ち合わせをした。
場所は駅前のスーパー。
彼女の部屋にはろくな食材がないことは分かっていたので、俺はひとまず、一緒にスーパーで買い物するところから指南しようと思ったんだ。これもまあ、タネを明かせば佐竹にそうされたとおりのことなんだけどさ。
旬の食材のほうが栄養もあって安いんだとか、野菜や惣菜のほうが先に並べてあってもまずそこは素通りして奥へ行き、先にメインを肉にするか魚にするかってところから決めて、あとの食材を選びに戻るだとか。そういう基本的なところから説明しながら、俺は篠原さんと一緒にスーパーをひと巡りしてそこを出た。
篠原さんは周囲をきょろきょろ見ながら、「あ、あのエコバッグ可愛いな」なんて、他のお客さんの持ち物を見て楽しそうに言っていた。そういえば、篠原さんはエコバッグすら持ってない。思うんだけど、この子、家では相当な「箱入り娘」だったのかもしれないなあ。見るからに「いいとこの子」って感じがするもんね。
無事に買い物も終わって、俺の家に向かって歩きかけたところで、俺は前方からころころと小ぶりのスーツケースを引いてやってくる、すらっとした姿を見つけてびっくりした。
(……え、まさか)
と思う間に、相手のほうからさっさとこっちを見つけて華麗に手を振り、にこやかに早足でやってくる。つややかなパンプスがかつかつと軽やかな音をたててこちらへ近づいてきた。
「あらやだ、祐哉きゅん! こんなところで何やってるの」
隣の篠原さんもびっくりして固まっている。
女性にしては長身の、派手系な美人。見るからに仕事の出来そうなシルバー系のパンツスーツをびしっと着こなしている。
そう。この人は――
「……馨子、さん……? 今日は帰ってくる日だったんですか?」
ついそう言ってしまったら、さすがの馨子さんも苦笑したみたいだった。
「ほ〜んと。単身赴任のお父さんみたいなこと言われちゃって、情けないったらありゃしないわね」
「あっ、ご、ごめんなさい――」
だけど、別に意に介した風もなく、馨子さんはけたけた笑っただけだった。
「で? そちらの可愛い方はお友達?」
「あ、は、はい。えーと、同じ大学の友達で、篠原さんです」
「あ、えと……。は、はじめまして――」
緊張しきったような顔で篠原さんが頭を下げる。
途端、きらんと馨子さんの両眼が光った。
「あーら。ほんとに可愛らしいお子さんだこと。……やあねえ、祐哉きゅんったら。あきちゃんというものがありながら、こんな近場で浮気だなんて。ずいぶん大人になったものよねえ」
「え? や、ちが……!」
なに言ってるんだよこの人! 必死に否定しようとするのに、馨子さんは完全に面白がってしまっているらしく、くすくす笑っているばかりで俺の言葉なんて聞いてもいない。
隣の篠原さんが変な顔になって俺を見た。
「あの……内藤くん? あきちゃんって……?」
「あ、そうか。えっと、こちらは佐竹馨子さん。あの佐竹のお母さんだよ」
「……え?」
篠原さんがぎょっとして目を剥いた。
うん。まあ、無理もない。
馨子さんがうふふふ、と頬に手なんか添えて意味ありげに笑って見せた。
「そうなのよ〜? 煌ちゃんはあたしの愛息子。そうは見えないぐらいに綺麗で若くて素敵な女性って思ってもらってるとは思うけど、実はそんな妙齢の女なのよ〜ん」
俺にはわかりましたよ、お母様。
いま「絶対に否定するな」って、その目が一瞬殺気を帯びましたよね?
そうですよね?
ここ、ひと言でも「やだなあ、なに言ってるんですかいい年して」とか言ったら殺されるとこですよね?
「さ、……佐竹さんの?」
篠原さんはもう、そう言ったきり口をぱくぱくさせて俺と馨子さんを見比べているだけだ。
「あらやだ。篠原君だったかしら? こう言ってはなんだけど、あたしも『佐竹さん』ですからね? できればあなたも、あたしのことは『馨子さん』って呼んでもらえると嬉しいわ」
にっこり素敵な、しかしまったく譲歩する気のない笑顔。
さすが馨子さん。どこまで行ってもぶれない人だ。
そして篠原さん、完全に固まっている。
うん。これはもう、しょうがないな。
あの佐竹をしてすら、この女には勝てないんだから。
だから俺も、苦笑してこう言うほかはなかった。
「あー。えっと。逆らわないほうがいいよ? 篠原さん……」