○8○見舞い
夜、そろそろ日付の変わる頃。
マンション入り口ホールからのチャイムが鳴って、やっと待ち人がやってきた。
内藤くんが買って来てくれていた林檎を慣れた手つきで剥いていたゆのぽんが、立ち上がってモニターのところへ行く。
『うーす。遅くなった、悪い』
「ほんっと遅いよ。それでもしのりんの恋人なの、君。自覚が足りなさすぎるんじゃない?」
すかさず飛び出したお小言に、モニターの中のほづがげんなりした顔になった。
『いいから開けろ。時間がねえんだろが』
「おやおや。反省の色なしか。しばらくそこで反省させようか? しのりん」
『だあ! 遊んでねえで早くしろっつの』
これももう、ぼくにとっては見慣れた光景になった。
ゆのぽんがくすくす笑いながらモニター横のドア解除ボタンを押し、早速帰り支度を始める。
「ほんと、今日は無理言ってごめんね、ゆのぽん。ありがとね。今からで電車とか、大丈夫?」
「ああ、うん。ぎりぎり、終電には間に合うよ。ダメでもタクシー使えばいいんだし」
ベッドから声を掛けると、ゆのぽんはにっこり笑ってそう答えた。
本当のことを言うと、実ははじめのうち、ゆのぽんは「僕がここへ泊まるから、君はわざわざ来なくても構わないよ」ってほづに連絡したんだよね。でも、それはほづのほうで「それ、まずいだろ」って待ったを掛けた。
「よく知んねえが、お前の親、色々と問題ありなんだろ? そんでお前、わざわざこっちの大学に入って親元を離れたんだろうが」
その通りだった。そこまでは、ぼくも今までにほづに話してあったからね。
「シノは、中身はどうでも男の名前でその部屋を借りてんだ。あとになって、もしこの事がバレてみろ。アレやらコレやらいちゃもんつけられて、『一人暮らしをさせた途端にこれか』とかなんとか、変な揚げ足取られたんじゃ目も当てらんねえ。それこそ鬼の首でもとったみてえに、速攻で『やっぱりこっちに戻って来い』とか言い出すんじゃねえのか? 違うのかよ」
「…………」
ゆのぽんはスマホを耳にあてたまま少し驚いた顔をしていた。そうしてとうとう、溜め息をついた。それで結局、今回はほづの意見を容れる形になったわけだ。
電話を切ってから、ゆのぽんは苦笑しながらぼくにこう言っていた。
「確かにそうなんだよね、言われてみれば。あの親……まあ、とくに母親のほうだけど、茅野の言う通りっていうか。それ以上のことを言い出してもちっともおかしくはないからなあ――」
それを聞いて、ぼくは正直、ぞっとした。
ゆのぽんがこっちの大学に受かって一人暮らしをしたいって申し出たとき、彼女のお母さんの反対は凄まじいものがあったんだって聞いている。学校のレベルとしては近所じゅうに自慢したっていいぐらいのものだったから、第一関門である親御さんの虚栄心を満たすっていうのはクリアできたわけなんだけど、それだけで問題が解決したわけじゃなかったんだ。
それこそ、「よくも親を捨てて行くようなことができるわね。育ててもらった恩を何だと思ってるの。あんたは本当に心の冷たい娘だわよ」みたいなひどい言葉を、ゆのぽんは実の親からさんざんに投げつけられたということだった。
ゆのぽんのお母さんは、夫や息子たちに家事をさせない人なんだそうだ。そしてその反動みたいにして、女の子であるゆのぽんのことはひたすらに当然のようにして家事のほとんどをさせてきた。今、そのゆのぽんがいなくなったら、いきなり家の中の事はほとんどストップしてしまう。
それは仕方のないことだ。だって、お母さん自身が息子さんたちをそういう何も出来ない男に育ててしまっているんだから。その当然の帰結として、看護師として働いているゆのぽんのお母さん一人では、家事をまわすことが非常に困難になるのは目に見えていた。
(でもさ……)
普通の母親だったら、娘が必死に勉強してやっと入ったいい学校に通うのに、そんなことを理由に反対なんかしないだろう。
でも、ゆのぽんのお母さんはそういう人じゃないんだ。ゆのぽんを、自分がどれだけ虐げても構わないものと思ってて、どこまでも自分の持ち物みたいにしか考えられない、とてもとても怖い人。
その精神構造のなんたるかなんて、ぼくにはまったく分からない。ただただ、背筋にひやりとしたものを覚えるだけで。
「依存」という言葉で表現するにしても、あまりにもどろどろとねばついた気持ちの悪い所有欲と執着心。ぼくなんかには到底、理解の及ばない人だと思う。
そういう意味では少なくとも、ぼくはゆのぽんよりはずっとずうっと恵まれている。
心と体の性別が乖離して生まれてきた子だと分かっても、パパもママも、ぼくを厭うようなことは決してなかった。むしろ女の子として育ててやれなかったことをとても悔いていて、今まで以上に大事にしてくれているのが伝わってくる。
だから、ゆのぽんが長い間にしてきた苦労も、多分、ぼくには半分だって理解できてはいないだろう。血の繋がっている親からの心ない仕打ちというものがどれだけ子どもの心を痛めつけるか、それを自分の経験として知っているわけではないんだから。
でも、だからせめて、彼女の人生の足を引っ張るなんてことだけはしたくない。そんなわけで、ぼくも今回のほづの意見には全面的に賛成だった。
「……悔しいけど、あいつほんと、色々見てるね」
さすがのゆのぽんも、初めてぼくに向かってほづのことを褒めていた。
もちろん、「これ、内緒ね?」って笑ってたけどね。
○○○
部屋まで上がってきたほづは、練習着なんかの入った大きな荷物だけを部屋の中に放り込むようにすると、ぼくの顔をちらっと見て少し安心したみたいな顔になった。
熱もだいぶ引いて、今は楽になっている。
まだ体はだるいけど、起きられないぐらいじゃなかった。
「大丈夫そうだな、シノ。んじゃ、俺、こいつがタク拾うとこまでは送ってくから」
「え? いいよ、そんな。もう子どもじゃないんだし。一人で帰れるよ」
ゆのぽんが驚いてそう言ったけど、ほづは頑として聞かなかった。
「どアホ。そんなんでもお前、一応女なんだから遠慮すんな」
あ、ゆのぽん、一瞬むっとした顔になったぞ。
「たとえ女だと思われなくても、『イケメン』ってだけで絡んでくるアホどもなんざいくらでも居るんだぞ。見た目が男でも腕力は女ですって、どんなカモだ。んなもん、掛かって来られたらどうしようもねえだろが。どうやって逃げんだよ」
ああ、そうか。
そうなんだよなあ。ゆのぽんには、常にそういう危険が付きまとっているわけだ。それはちょっと、ぼくとも似たような状況だといえる。ぼくもあんまり、腕っ節には自信がないし。
「第一、ここでお前に何かあったら、シノが泣くじゃねえかよ。違うのか」
ほづの駄目押しのひと言を聞いて、ゆのぽんは結局、肩を竦めて頷いた。
「……それもそうだね。じゃ、しのりん、お大事に。ちょっと茅野、お借りするね。茅野も、僕がいなくなったからって病気の人に無茶な真似するんじゃないよ? いいね?」
「バーロー。するかっつうの」
ほづがすかさず、あきれ返ったような声で応酬した。
○○○
ゆのぽんを送ってから、ほづはあらためてぼくの部屋にやって来た。
「ったく、あのアマ……」
とかなんとか、しかめっ面で口の中でぶつぶつ言ってるみたいだけど、また何かゆのぽんから釘を刺されたりしたのかなあ。
少し気分もよくなったし、ゆのぽんとほづの居ないうちにと思って、この間にぼくは自分のパジャマに着替えている。汗を吸った衣類を脱いでちょっと顔を洗ったら、随分とすっきりした。
「で? 熱はどうなんだ。食欲は」
「あ、うん。内藤くんとゆのぽんのお陰で、昼間よりはだいぶ良くなったよ。内藤くんがお粥を作ってくれて食べたし。ごめんね? ほづも忙しいのに、わざわざここまで来てくれて――」
「だぁほ。んなこと、当たり前だろっつーの」
言った途端、大きな手がのびてきてぼくの頭をわしゃわしゃ掻き回した。
「ほづ、ごはんは? お腹空いてるんじゃないの……?」
「あー、心配すんな。コンビニで適当に買ってきたからよ」
そういえば、料理の腕がたいしたことないもんだから、今までぼく、ほづに手料理を食べてもらったこともないなあ。
ああ、情けない。「心の中は女の子」とか言ったって、女子力ほとんど皆無じゃないか。女の子として育てられて来なかったからって、そんなの言い訳にもならないし。
(……そうだ。今度……)
内藤くんに料理、習おうかしら。
ってことは、ぼくは佐竹さんの孫弟子になるのかな。
ああ、なんかいいな、そういうの。
「……うふふ」
「なんだ、いきなり。気持ち悪いな」
ほづが変な顔になったのをベッドから見上げて、ぼくはにこにこした。
そうしたら、いきなりぐいと枕の脇に手を突かれて、ぐっと顔を寄せられた。
(……あ)
今にもキスされてしまいそう。
「ダメ。風邪、うつしちゃう――」
近づいてきたほづの顔を両手で阻止する。
「いいんじゃね? そしたら今度は、お前が俺の看病に来い」
「なに言ってるの、もう……。ほづったら」
そう言えば、ほづはいつも忙しいんで、ぼくの方から彼の住んでる部屋に行ったことは何度かあるんだよね。
だけど、最近はあんまりやってない。
だって、その……夜じゅう放してもらえなくって、ほんと困ったんだもの。
最後のほうなんてもうわけわかんなくて、ぼくの声とか物音とか、かなりご近所迷惑だったんじゃないかなって、後になって身が竦む思いがした。当のほづはなんだかもう、憎たらしくなるぐらい平気な顔をしていたけどね。
それだけじゃなく、翌朝ぼくがうまく立ち上がれなくてよろめいているのをいいことに、羽交い絞めにされて「体洗ってやる」って一緒にお風呂にまで入られて、それから、ええっと――
ああ、もう! だからこういうのは秘密なんだってば!
「な〜んだ。まだ顔赤いじゃねえか。氷枕、換えるか」
「あ、……う、うん……」
ほづは笑って、すっかりぬるくなってしまったぼくの額の熱吸収シートをはがし、そこを平手でぺちぺち叩いた。それから本当に軽く、そこに触れるだけのキスをした。
そのまま氷枕も引き抜いて立ち上がり、キッチンの方へ行ってしまう。
ぼくはしばらく、勝手知ったる様子で食器やなんかを準備しているその背中をぼんやりと見ていた。
そうしたら、急にほづが思い出したみたいに振り返った。
「そう言やさ。体なおったらだけど、今度の週末、どっか行かねえ?」
「……え?」
「一日、珍しく休みが出来てよ。お互いの家、行ったり来たりはしてても、あんま二人で出かけたことはねえだろ。どうだ」
「ほんと……? 嬉しい!」
ほづがにやっと口の端を引き上げて、別の氷枕と一緒にペットボトルのお茶やらコンビニのお弁当を持って戻ってきた。もちろん、お弁当は三人前だ。そのまま氷枕をもとどおり、ぼくの頭の下に差し入れると、小さなローテーブルの前にどかりと座る。
ちょうど、ベッドとテーブルの間に座ってベッドに背中をもたれさせる感じだ。そこからくいと顎を上げてこっちを振り返る。
「どこ行きてえ? 俺はちょっと服買ったりだとか、スポーツショップに寄るぐれえしか用事はねえけど」
いや、そんなの。
せっかくこっちに住んでいるなら、そしてヲタクと呼ばれる人なら絶対に行っておかなくてはならない聖地があるでしょうに。
もちろん、本来ならゆのぽんと行くのが正しいんだろうけれど、彼女もとっても忙しくて、このところなかなかそんな時間は取れずにいたんだよね。
「……元気になってきたみてえだな」
ぼくの、恐らくはきらきらし始めた目を見てだろう、ほづが少し呆れたようににかりと笑って、またぼくの髪をぐしゃぐしゃにした。




