◇7◇公園
柚木さんがやってきて、俺は彼女と交代し、マンションの外に出た。そしてすぐ、佐竹のスマホに電話をした。
『……そうか。こちらも先ほど隆さんが帰宅された。俺も外に出たところだ』
「隆」っていうのは、俺の父さんの名前だ。
「あ、そうなんだ」
思わずきょろきょろと周囲を見回す。
何しろ、俺の家と佐竹のマンション、篠原さんのマンションは徒歩十五分の圏内にある。つまり佐竹が俺ん家から歩いて自宅に帰るとすると、恐らくこのあたりを通るはず。
ってことは――
と、見慣れたシルエットが道の向こうから現れて、俺の胸がとくんと跳ねた。
あっちはもう、先に俺を見つけたみたいだ。薄手のA4サイズのクリアケースを手にした影が、真っ直ぐにこっちに向かってくる。いつもみたいに、本でも入っているんだろう。
俺たちは何も言わないまま目を合わせると、お互いに電話を切った。
「……佐竹。ごめんな、ほんと急に――」
「いや。病気になるのは誰でも急なものだろう。誰の落ち度でもないことだ」
「ん、まあ、そうなんだけど……」
「篠原さんはどうだった」
それで俺は、彼女の容態なんかをかいつまんで佐竹に話した。
「ほんと、ごめんな。部活のほう、大丈夫だったの?」
「ああ。さぼっているのとは訳が違うしな。とは言え『鍛錬の手を抜かず、部に貢献できるならばよし』というドライな考え方の部で助かっているのは事実だが」
「あ、……そうなの」
「そうでなければ、塾の講師まで兼任というのは難しかった。ほかではなかなか、こうは行かないはずだからな」
まあ、佐竹なら間違いなく部には貢献できるもんなあ。なるほど。
個人戦はもちろんだけど、佐竹は大抵、団体戦のメンバーにも選ばれている。個人戦にも出るわけだから、集中力だとか体力の温存だとかはきっとタイトになるはずだ。両方に全力を注ぐとなれば、相当にストレスが掛かってしまうに違いない。
もちろん佐竹はそんな泣き言を言う奴じゃない。だからそういう理由でじゃなく、「他の部員にももっと試合の経験を積む機会を与えてほしい、ゆえに自分は団体戦を遠慮させて頂きたい」と何度か監督や主将にも申し出たらしい。だけど結局、「いや、すべては勝つための選択だ」って一蹴されてしまうんだそうだ。
うーん。実力者っていうのもつらいかも。
そういえば高校時代、あの科戸瀬真綾さんのお兄さんで佐竹のライバル剣士だった慶吾さんも、別の大学で剣道を続けている。仕合いではすでに何度も当たっていて、全国大会個人戦の決勝なんて大舞台もすでに経験済み。
真綾さん曰く、佐竹は前に個人的にお兄さんと仕合いをして負けたことがあるらしい。でもそれ以降はまったく負けなしで来ているそうだ。
その一度だけの敗北時に何があったのかはすごく気になるところなんだけど、訊いても絶対、佐竹は答えてくれないんだよなあ。
「それは……答えてくださらないでしょうね」なんて、真綾さんも意味ありげな顔で笑うだけだし。いったい、何だって言うんだよ。
(ってことはつまり、俺が原因……ってことなのかなあ?)
って、いやいやいや。そんなわけないよな、うん。
こういうのってあれだよ。自惚れてるって言うんだよ。
あの佐竹が俺なんかのために、剣の仕合いを疎かにするわけないもんな。
それにしても、なんかもやもや変な気分になっちゃうよなあ。
俺はそのまま何となく、話をしながら佐竹のマンションの方へ向かって一緒にぶらぶらと歩いた。
佐竹自身が「さっさと帰れ」なんて言うならやめようかと思ったんだけど、こいつも何も言わなかった。
最寄りの駅を抜けて、高級マンションのある区画へ近づくと、スペースをゆったりととった公園の沿道に出る。ここからだと、もう佐竹のマンションは目と鼻の先だ。
このあたり、そんなに人通りは多くない。
(……ああ。着いちゃう)
ちらっと隣を見ると、やっぱり何を考えているのか分からないような瞳の色で、佐竹も同じようにして自分の住むマンションを見上げているようだった。
と、ぐいと袖を引かれて、俺は公園の敷地のほうへ引っ張って行かれた。
「え、なに……?」
「いいから来い」
広々とした公園には、防犯上の意味もあるんだろうけど、あまり人目を避けられるような植え込みはない。遊具の周りにぽつぽつとベンチや花壇なんかが設置されているだけだ。
「……あのさ、佐竹」
少しでも間をもたせたい一心で、俺はそんな風にして、篠原さんにした話のことを打ち明けはじめた。
篠原さんが聞きたがった話。
それは俺たちの、いわゆる馴れ初めってやつだった。
篠原さん曰く、俺たちはどう見ても普通だったら単なるクラスメートとか、友達としてつきあっていくタイプの二人に見えるんだって。
それはほんと、その通りで。確かにあのことがなかったら、俺は佐竹と単なる友達としてでさえ、こうして付き合っていたかどうかは分からない。
それがどうして、こういうことになったのか。
「もしも教えてもらえたら、ぼくも自分のこと、話すから。ぼくとほづ、どうやってこうなったのかってこと――」
熱でまだ少し赤い顔をして、でも熱心に篠原さんはお願いしてきた。
……俺、かなり迷ったけど。
だって俺たちのことは、あの世界のこと抜きにしては語れない。
こんな話、いきなりしちゃって「ああそうなの」って信じられる人のほうが少ないんだし。
だけどあの、篠原さんの小動物みたいな可愛い目を見ていたら、嘘を織り交ぜて適当にごまかした話をするのはなんとなく嫌だったんだ。
だから、俺は本当のことをそのまま話した。
俺と佐竹がどうやって、いまのこの状態になったのか。
佐竹がどんな苦労をして、俺をここに連れ戻してくれたのかをだ。
「……ごめんな? お前に訊かずに、勝手に人にあの話、しちゃったりして」
ベンチに座ってそう言ったら、佐竹は少し沈黙していたけれど、やがてわずかに首を横にふった。そうして自分も、俺の隣に腰をおろした。
「別に、ほかで話されたとして、信じる奴もいないだろうしな。俺は別に構わんさ」
「……そか」
「だが――」
そう言って、佐竹は何故かクリアケースを片手でひょいと顔のあたりに持ち上げた。
なんだろうと思う間に、もう片方の手で首をぐいと引き寄せられる。
びっくりしているうちに、あっという間に唇を奪われた。
(……!)
一瞬のことだった。
目を白黒させているうちに、もう佐竹は元通りにケースをおろして、そ知らぬ顔でさっきと同じ姿勢に戻り、隣に座っているだけだった。
「な、……ななな」
なんだよ、この不意打ちは!
「なにっ……、さた、なにして――」
かあっと耳が熱くなる。口許を覆って、必死に抗議しようとするが、なんだかしどろもどろになってうまく言えない。
「あまり、あちこちで吹聴するな」
「え……」
「できればなるべく、お前と俺だけのものにしておきたい」
そう言って、すいと佐竹が立ち上がる。それはまるで、今ここでは何事も起きなかったかのようだった。
「って、おい――」
「もう遅いぞ。早く帰れ。親父さんと洋介が心配する」
「……あ」
ふと見れば、公園内に立てられた時計の針は、もう十一時を回っていた。
「わ、わかったよ……」
俺も仕方なく立ち上がり、鞄を肩に掛けた。
そのまままた、歩道に出る。
「……あのさ。さっきのあれ、何?」
「なにがだ」
「いや、だからさ……。そいつをさ、こう……」
言って手振りでその真似をすると、佐竹がひとつ、頷いた。
「……ああ」
ちらりと周囲に視線を走らせるようにしてから、こちらを見る。
「防犯カメラよけだ。一見しただけでは分かりづらいが、この公園、あちこちにあるからな」
「……うわ!」
そういえば、そうだった。
今日び、周りに人影がないからって、安心してちゃダメなんだよなあ。
危ない、危ない。
いや、別にカメラ映像で誰かに見られたからって、犯罪じゃないんだから大丈夫だとは思うけどもさ。
(いやいやいや! やっぱりダメだよ――!)
うん、ダメだ。恥ずかしすぎる。それだけで死ねる。何べんでも死ねる!
思わずその場で硬直してしまった俺を、佐竹はふと振り返るようにすると、ごくわずかに口の両端を持ち上げた。
わあ、なんか悪い顔だぞ。
向こうの世界の誰かさんを思い出したぞ。
「……たとえば今なら、この角度だな」
そうして、佐竹は再びケースを無造作に俺の顔の脇まで持ち上げると、素早くまた、俺の唇に自分のそれを触れさせた。




