○6○お粥
ふわふわと、変な夢を繰り返し見ながら眠って、ぼくはやっと重たい瞼を開けた。
体がひどくだるかった。まだ熱は引いていない感じだ。
(えっと……薬を飲んで、帰ってきて――)
なんだか記憶が曖昧だ。ゆっくりと部屋の中を見回す。
ああ、良かった。ぼくの部屋だ。
あの大学に入れることになって、パパとママが探してくれたこの部屋を、ぼくは思いきり女の子っぽいもので飾ることにした。つまり、ぼくの好きなものを、初めて誰の目も気にしないで置くことができたんだ。
ああ、カーテンの外がもう暗くなってる。部屋の電気は一番暗いものにしてある。
(喉、かわいた……)
舌が口のなかに貼りついたみたいになって、とても不快だ。ぼくはまだふらつく頭で、ゆっくりと体を起こそうとした。
「あ、起きたの?」
「え……」
びっくりして見れば、ベッドの足許のあたりで床に座って、内藤くんがこっちを見ていた。
「な、……内藤、くん……」
どうして。
まだここにいたの?
「もうちょっとしたら、柚木さんが着くと思うよ。大丈夫? 何か食べられそうかな」
見れば、ぼくは大学へ行ったときのままの格好だった。けど、氷枕や保冷剤が見慣れないタオルに包まれて頭や脇なんかにあてがわれている。額にはぬるくなった熱吸収シートが貼られていた。
「あの……どうして」
声が掠れてうまくしゃべれなかったけど、内藤くんは優しい目で笑って頷いた。
「うん。一応、茅野くんに了解はもらったからね。ここで看病していいって。って言っても、佐竹にもちょっと手伝って貰っちゃったんだけど」
内藤くんによると、ぼくの部屋の中のものを勝手に触るのにかなり抵抗を感じた彼は、迷った末に佐竹さんに助けを求めたんだそうだ。
佐竹さんはその時まだ部活中だったらしいんだけど、事情を話して帰らせて貰い、このタオルだとか、その他ちょっとしたものを買ってこのマンション前まで来てくれたらしい。それから彼はそのまま、内藤くんの家に向かったのだと。
「良かったよ。佐竹、今日は塾のバイトの日じゃなくて」
「……あ、そうか。洋介くん……」
ぼくははっとした。
そうだよ。内藤くんには、小さな弟さんがいるんじゃないか。お母さんがいないのに、こんな夜遅くまでお兄さんが戻らなかったら、すごく不安になってしまうかも。第一、晩御飯とか、どうするんだよ。
「うん、大丈夫。そのへんも、佐竹にお願いできたから」
「え……」
びっくりして内藤君を見返したら、彼は照れたみたいにへへっと笑った。
「ほんと言うと、料理は俺よりあいつのほうがよっぽど上手いんだ。いや、料理だけじゃなくて家事全般かな。俺も、母さんいなくなってからあいつに色々教えてもらって、やっとここまで来ただけでさ」
「え……そうなの?」
「うん。かなーり、紆余曲折あったよ? ほんとに、失敗なんて山ほどしたし」
それは初耳だ。
あの佐竹さんがそんなに料理や家事のできる人だったなんて、それもまた意外だった。なんだかちょっと、なんにも出来ない自分が恥ずかしくなってきちゃったな。
っていうか、佐竹さんったら、内藤くんを自分好みに育てちゃったりしてるわけ?
ただいま全力で、未来のヨメを育成中?
なにそれ、萌える……!
あ、ダメダメ。またそっちで興奮したら熱が上がってきちゃいそう。
落ち着くんだ、ぼく……!
「あ、でも、内藤くん……」
と、ぼくはあることに思い至って彼に尋ねた。
「ダメなんじゃない? あんまりここにいたら、洋介くんにぼくの風邪、伝染っちゃったりするかもしれない……」
「ああ、そんなのは気にしないで」
内藤くんがそっと笑う。
「手洗いとうがいはちゃんとするし。風邪は何より、普段の生活習慣と予防が大切だから。それより、ほんと、何か食べる? 俺、お粥の準備してるんだけど」
「え……」
そこでちょっと、内藤くんが困ったような顔でぼくを見た。
「こう言っちゃなんだけど。篠原さん、普段ろくなもの食べてないんじゃないの? 冷蔵庫、何も入ってないじゃない」
「……あう」
「ダメなんだからね? そうやって適当にやってたら、またすぐに風邪ひいちゃうぞ? 将来、年をとってから体を壊す原因にもなるんだから。あんまりこういうことを舐めてると、ほんと泣くことになるよ?」
「あうううう……」
痛いところを衝かれちゃった。
やっぱり内藤くん、お母さんキャラだ!
耳が痛すぎる。
言い方がすごく優しいのが救いだけど……!
「ま、それはそれとして。篠原さん、何か食べられないものある? 卵は大丈夫かな。お粥、塩味と味噌味、どっちが好き?」
「いや、そんな……。そこまでしてもらっちゃ悪いよ、内藤くん……」
必死で遠慮しようとしたけど、「病人に選択権なんてないんだよ」って内藤くんは笑って立ち上がった。有無を言わさず、もうキッチンへ向かってる。
「ま、これも佐竹の受け売りなんだけどね。『病人は黙って甘えておけ』って。『寝床で偉そうにしていればいいんだ』ってさ――」
なんだか可愛い顔で、ちょっと照れたみたいにはにかんで。鍋を火にかけながら、内藤くんたら何を思い出してるんだろう。
この二人にも、きっと色んなことがあったんだろうな。
ぼくらと同じ、男同士で付き合うことを、世間はまだまだすんなり許してくれたりはしない。あの生真面目そうな佐竹さんと、このふんわりした内藤くんがどんな経緯で出会ってこういうことになったのか、そこにもきっと、ぼくらの知らない色んなドラマがあったはず。
そのあたりはまあ、ぼくも勝手に妄想して、次の本のこやしにさせて貰うわけなんだけど。
ベッドに再びもぐりこんでそんなことをぼんやりと考えているうちに、キッチンにいた内藤くんがうちの小鍋をお盆に乗せて運んできた。
「できたよ、篠原さん。熱いから気をつけてね」
「はい。いただきます……」
蓮華ですくって、ふうふう冷まして、そっと口に持っていく。
内藤くんが作ってくれたお粥は、ほっとするようなやさしいやさしい味がした。
ママが作ってくれるのとは違うけど、それでもなんだか、泣きたいぐらい嬉しかった。
「……ど、どうしたの」
泣きそうになったぼくを見て、内藤くんがひどく焦った声を出した。
「ううん。……なんでもないの。ありがとう。美味しいよ、内藤くん……」
うれしい。
美味しい。
ぼくなんかにこんなことが、大学に入ってから起こるなんて思ってもみなかった。
もっともっと、ずっと怖いことや辛いことは事前に予想して身構えてはいたんだけれど。
いいことは何ひとつ、想像することもできなかったのに。
「あの……えっと。篠原さん……?」
ぽろぽろと止まらなくなったぼくの涙を見つめて、内藤くんがおろおろしている。
本当に、優しい人。
そして、優しいっていうことが決して弱さを意味しないということを、ぼくはもう知っている。本当に優しい人は、同時に強さを秘めているものだから。
この内藤くんにしてもそうだ。彼だって、一見弱そうには見えるけど、いざとなったら本当に守りたいと思うものはちゃんと守ろうとする人なんじゃないのかな。多分、自分のことも省みないで。
ぱっと見は地味で目立たないようにも思うけど、この人、やっぱりどこかが普通じゃない気がする。あの佐竹さんがどうしてこの人を選んだのか、ぼく、なんとなくだけど分かる気がするよ。
(……素敵だな)
なんだかほんとに、素敵な二人だなと思う。
ぼくとほづも、この二人に負けないぐらい、素敵な二人になれたらいいな。
「……ね、内藤くん。教えてもらってもいいかな」
お粥を食べ終わってからまたベッドに潜り込んで、ぼくはキッチンで後片付けをしてくれている内藤くんの背中にそう言った。
「え? なに?」
不思議そうな目で内藤くんがこちらに振り向く。
「うん……。えっとね」
だってやっぱり、気になるもの。
たくさん、色んなことが聞いてみたい。
それにさっき、言ったよね? 「病人は偉そうにしていたらいい」って。
うん、意味が違うっていうのは分かってるけど。
でもぼく、ちょっと内藤くんにささやかなおねだりをしてみたくなったんだ。
「…………」
ぼくの「お願い」を聞いたあと、内藤くんの目は真ん丸くなった。
そうして、ぼくより多分、もっともっと赤い顔になった。
首まで赤く見えちゃって、なんかもう、ほんと可愛い。
掛け布の下からそうっと目だけを出して、「ダメ?」ってじっと見上げてみたら、内藤くんは困った顔でさんざん迷っていたけど、とうとう観念したみたいにして頷いた。
「うん……いいよ。でも、あんまり驚かないでね……?」
○○○
ゆのぽんがやってきたのは、そこから一時間ほどあとのことだった。
「だいぶ遅くなっちゃったね。ごめんね、しのりん。ありがとう、内藤くん――」
「ううん。どうぞ、お大事にね」
お礼を言うゆのぽんとぼくに笑って手を振って、内藤くんは帰って行った。
ふたつのすてきなものを、ぼくに残して。
それは彼のしてくれた、本当にびっくりするような、そして大切な大切な二人の過去のものがたり。
それから、可愛い形の桃のゼリー。
「熱が出ると、うち、これを食べるんだよね」
「ふたつ買ったから、良かったら柚木さんもどうぞ」
だって。
「……ふふふ」
「なに? しのりん。その怪しい微笑みは」
目ざといゆのぽんが、早速追求を始める。
「まさかとは思うけど、内藤くんと何かあった? 茅野に殺されても知らないぞ〜?」
「やだなあ、ゆのぽん。そんなんじゃないよ。……うん、でも、とっても素敵なこと」
ぼくはそう言って、カーテン越しにちょっとだけ見えている夜空のほうに目をやった。周囲の建物に切り取られ、四角く細長いその夜空は、ほとんど存在感も主張できないようなささやかなものだ。
不思議で素敵な、異なる世界の物語。
こことは違う夜空の下で、二人がなにを思っていたかも。
まさかそんな秘密が、あの二人にあったなんてね。
「また、ゆのぽんにも話してあげる。あ、でも内藤くんや佐竹さんに、いいかどうか訊いてみてからだけどね――」