◇5◇パニック
ベッドに入るなり、赤い顔をしてふうふう言いながら眠ってしまった篠原さんをそっと見て、俺は「さてどうしようか」と考えていた。
先ほどまず電話したのは、彼女の女友達である柚木さんだった。彼女は、ここから比較的近場の大学に通っている。だから来ようと思えばわりと早めに来られるんじゃないかと思ったんだ。でも、そううまくはいかなかった。
『うわ、しのりん風邪なの? ごめんね、内藤くん……』
電話に出た柚木さんは、とても申し訳なさそうだった。彼女は今日、生憎とすぐに帰れない用事があるとのことだった。彼女もどうやら、佐竹と同じで大学の講義とは別になにかの資格を取ろうとして猛勉強中らしい。その上、アルバイトで塾の講師もしている関係で、今日はどんなに早くてもこっちに着くのが十時を越えるということだった。
次に俺が連絡したのは、あの茅野穂積くん。
でも、まあ予想の範囲内だったけど、俺が恐々名乗った途端、凄まじい怒号が耳をつんざいた。
『てめえ! なんでてめえがシノの番号から電話掛けてきてんだッ!』
あ、うん。気持ちはよーく分かるんだよ?
でもいきなり、そんな殺気まみれの声で凄まなくてもいいじゃないかあ。
ちょっと泣きそうになりながら、俺は事の経緯を説明した。
それでやっと少し怒りのボルテージを下げた茅野くんは、それでも威圧感満載の声でこう言った。
『……そういうことならしょうがねえ。俺も部活で、行けても夜遅くなる。下手すると日付をまたぐ。まず、柚木より早くは行けねえだろうな』
「そ、そうなんですか……」
無理もない。この中で、彼が一番地理的に遠い大学に通っているからだ。その上、全国的にも有名な体育会系の部の所属ってなると、帰宅は普通に遅いはず。先輩後輩の上下関係なんかも厳しいだろうし、ちょっとやそっとのことで早く帰してはもらえないよな。
『だが、いいか。てめえ、シノにちょっとでも変な真似してみやがれ。ただじゃおかねえかんな、覚悟しとけよ』
「あ、……はい。もちろんです……」
俺は蚊の鳴くみたいな声でどうにかこうにかそう言った。なんなんだよこの罪悪感。
まだなんにもしてないのに、すでに罪人並みの扱いってひどくない?
「あのう、ほんとは汗をかいたら着替えさせたり、汗を拭いたりした方がいいんですけど、俺はやめておきますから。ほんと、すみません……」
そう言ったら、ちょっと茅野くんが沈黙した。
『……なに謝ってんだ、あんた』
「え?」
『いや、そーだな。今のは俺が悪かった。シノの方が迷惑掛けてんだもんな。悪い。さっき言ったこと、忘れてくれや』
「あ、はい……。いえ……」
ちょっとびっくり。結構、素直に謝ってくれたよ、この人。
『それよりあんた、弟、家にひとりじゃねえの? 大丈夫なのかよ』
(……あ)
そういえば、そうだった。
父さんも帰宅するのは十時を過ぎるし、俺が帰らなかったら洋介はそれまで一人で家にいなきゃならなくなる。夕食なんかは冷蔵庫に作り置きしているものでなんとかなるかとは思うけど、小学四年生の子どもを夜遅くまでひとりで家にいさせるのは、やっぱりどうかと思うよなあ。
それにしても茅野くん、けっこう気が回るんだな。
なんだ、けっこういい奴だ。そんで、優しい。
なるほど、だから篠原さん、彼のことが好きなのかも知れないな。
一見ぶっきらぼうで怖そうだけど、その実優しいところなんか、わりと佐竹と似てる気がする。そのへんのギャップみたいなものに、篠原さんもやられちゃったのかなあ。
そんな風に思ったら、次の言葉はなんだかとても自然に言うことができた。
「うちの心配までしてもらって、ありがとうございます。それはこっちでなんとかしますから。なるべく早く来てあげてくださいね? 篠原さん、心細いと思うんで」
『おお。……って、いや、あのよ――』
「はい……?」
なんだかまた彼の声が不機嫌そうになって、俺はどきどきする。何か失言でもしちゃっただろうか。
『いや、その……。あんた、俺と同学年だよな? なんでそんな、敬語なのよ』
「え……」
いや、それは。
別に理由なんてないんだけど、なんとなく。
だって、怖いし。どう見たって、自分よりあなたの方が格上だと思っちゃうし。
って、そんなこと正直に答えるわけにもいかないよなあ。
俺が何も言えないでいたら、なんだか言いにくそうな感じで茅野くんがこう言った。
『べっつによ。俺ぁ、構わねえし。ふつーにタメ口にしてくれよ。でねえとなんか、こっちも気ぃ使うし。世話になってんの、こっちなんだしよ』
「え……? は、はい……。いや、うん……」
『そんじゃ、シノのことよろしく頼むわ。なるべく早く行くようにする』
茅野くんは最後はあっさり、どっちかって言うと爽やかって言っていいぐらいの感じで電話を切った。
「さて、と……」
そこから俺は、眠ってしまった篠原さんに断りもなくで悪かったけど、とにかく冷蔵庫をチェックしに行った。
篠原さんの部屋はコンパクトな感じの1DKだ。彼女の寝ている部屋は八畳ぐらいのスペースだけど、台所なんかもとても狭い。俺が立ったらもう一杯の幅だ。すぐ脇はやっぱり小ぶりのユニットバスのドアになっている。トイレは別になってるみたいだ。
冷蔵庫はキッチン下に造りつけになってる小さなもので、ろくに食材が入るようには見えなかった。実際、ほとんど食材は入ってない。篠原さん、あまり自炊はしてないのかな。普段、どんなもの食べてるんだろう。
それでも幸い、冷凍庫にジェルタイプの氷枕を発見する。これはきっと、こういう時のためにってお母さんが気を利かせて入れておいたんだろうな。ほかにもいくつか、ケーキなんかにつけて貰える保冷剤もあった。よしよし、なんとかなりそう。これ、便利なんだよね。
氷枕はもちろん頭用で、保冷剤は脇の下だとか足の付け根だとか、太い血管の走っているところにあてて体温を下げるのに使うんだ。
(さて、次は――)
と、それらに巻くタオルか何かを探そうとして、俺ははたと困って立ち止まった。
(待てよ……。だって篠原さん、中身は女の子なんだから――)
しまった、俺。
とても重大なことを失念していたかも。
一応俺も、必要そうな食材や額に貼って熱を除去するシートなんかは、篠原さんが医院にいる間に近くのコンビニで調達してきたんだけどね。
改めて見回してみれば、部屋は完全に女の子の仕様になっている。家具もカーテンもカーペットも、ピンク色や白や花柄といった女の子の好きそうな色目でまとめられているし、狭い部屋の中に大きな化粧台までちゃんとあって。かわいいぬいぐるみのくまさんだのパンダさんだのが、つぶらな瞳で俺を見ている。
ドレッサーの脇に小ぶりの白い引き出しが置いてあるのが見えるけど、あそこにタオルとか入ってるんだろうか。
(いやいやいや。でも――)
だってもしかして、そこに下着とかが入っていたら――。
俺は誰が見てるわけでもないのに、ぶんぶん首を横に振ってた。
(ダメダメダメ。そんなリスキーなこと、出来るかよ……!)
ベッドと反対側の壁には造りつけのクローゼットもあるけど、そこだって勝手に開けちゃまずいよな? 別に入ってるのが男物だったらいいじゃないかとか、そういう問題でもないだろうし。
いや万が一、女物だったりしたらもう、ほんと目もあてられないけどさ。
鬼の形相になった茅野くんの顔を想像して、俺はさらに激しく首をふる。
(ダメ! ゼッタイ。)
どうしよう。パニクりそう。
これがうちでのことだったら、看病なんかはだいぶ慣れてるし、こんなに困ったりしないんだけど。ひとの家って、どこに何があるかからしてよく分からないもんなあ。あんまり勝手に触るのは悪いし。
ひとまず心を落ち着けて、俺は自分のハンカチを鞄から取り出した。
とりあえず、頭だけでも冷やさないといけないからだ。氷枕の上にそれを敷き、篠原さんの頭をそっと持ち上げて差し入れる。そうしておいて、俺はさっきまでそうするつもりはなかったんだけど、やっぱりあいつに電話していた。
「あの、佐竹? ごめん、その……ちょっとピンチかも、俺……!」




