○4○医務室
翌週の、月曜日。
ぼくは男子の格好で、今日もまた大学に来ている。
今日は語学の授業があるんで、この格好で来るしかない。女の子の格好に慣れてくると、夏場はやっぱり、ひらひらしたスカートをはいてるほうが涼しくて楽だなあなんて思っちゃうんだけどね。
今日はえーと、第二外国語であるドイツ語の講義がある日だ。
ドイツ語は文法を覚えるのは大変だけど、フランス語ほど発音が難しくない。語感もなんとなく、誇り高くて高貴な感じがして好きなんだよね。英語と違って主語や置かれる場所によっていちいち動詞やなんかが変化していくのを覚えるのは大変だけど、小説を書くのにもきっと役に立つ知識だろうから、ぼくはこれを選んでる。
「ねえねえ、篠原くん……」
「えっ? はい……?」
色んな事情があっておいそれと友達を作るわけにもいかないので、普段は別にしゃべる相手もいない。だからぼくは自分の席でテキストの演習部分をちょっと復習したりしていることが多い。だけど、このごろはこんな風に声を掛けてくる男子学生がときどきいる。
「君の、双子の妹さん? いや、お姉さんかな。いるじゃない? この大学に」
(ああ。またその話か――)
ぼくはもう、この話題には慣れっこだ。
ぼくがひと言も「そうだ」なんて言わないうちに、周りでもう勝手に、ぼくには同じ大学に通う双子の姉妹がいるってことにされてしまっている。水曜日にしか現れない彼女がなかなか合コンに参加してくれないのに業を煮やして、遂に彼らはぼくを――つまり、男のほうである篠原和馬を――標的にしはじめたということらしい。
要するに、兄弟であるぼくを通じて、どうにか女の子の「篠原さん」を引っ張り出そうというわけだ。分かりやすすぎて笑ってしまう。
「将を射んと欲すれば」なんとやらっていうやつだよね。なんだかさもしいなあ。まあ、もともと「男子側」で生きて来た身としてそういう切実な気持ちも分からないわけではないから、ちょっと可哀想な気はするんだけどね。
「あの……ごめんね。妹はものすごーく内気な子なんだ。もう、高校から付き合ってる彼氏もいるし。ここんとこ色々、彼氏にその件で怒られちゃってるみたいで、泣いてたし……。お願いだから、もうそっとしておいてやってもらえないかな」
嘘八百を並べて、ぼくは苦笑しながら男子学生にそうお願いする。
こんなことも、もう何度目だろう。
あ、別に全部が嘘なわけじゃないけどね。
実際、ほづには何度も「脇が甘えんだよ」と雷を落とされている。「そいつら、俺の前に連れて来い。全員、その場でブッ殺す」って、本当に殺しそうな目で唸ってたし。
そういえば、この間のことでも怒られちゃった。
佐竹さんと内藤くんに萌えまくって、二人と別れてからあとも、ぼくはゆのぽんと萌え話で盛り上がりっぱなしで。ゆのぽんが「じゃあ今夜はしのりんちで萌え大会だね!」って言っちゃってからは、ほづ、全身から殺気がほとばしるみたいだったもの。
あれ、本当に怖かった。
うん、だからゆのぽんのお泊まりはなかったけどね。
それで、えーっと……ぼくはしっかりほづから「お仕置き」されちゃった。
「お仕置き」の内容? そ、そんなの、秘密に決まってるじゃない!
ああもう。
変なこと考えてたら、授業が耳に入ってこないじゃないか。
まったくもう、ほづのスケベ。
ひとりで赤い顔して、周りの人に変に見られたらどうしてくれるの。
あ、ちなみに、ぼくはあのあと、ほづにあの内藤くんと佐竹さんのこと「どう思った?」って訊いてみた。ほづは「ん〜。ま、いいんじゃね?」って言っただけで、あまり詳しい感想は聞けなかった。
「けど、あんま油断はするんじゃねえぞ」って、しっかり釘は刺されたけどね。
実はほづ、佐竹さんが剣道の指導をするところを見学してから、ちょっと彼を見直したみたい。「ありゃ、本物だな。認めるわ」って、少し悔しそうだけどそう言ってたしね。
正直、二人が会ってものすごく険悪なことにならないかって、ぼくも内藤くんも心配はしてたんだけど。でも実際、二人が本気で殴りあいの喧嘩かなにかに発展することって、なさそうだと分かってほっとした。
あの冷静沈着で真面目そうな佐竹さんからほづに掛かってくることはまずないだろうし、ほづの方で彼を認められるんだったら、なにか大きな事件でもない限り、今後も激しい衝突は起こりにくいだろうと思う。
なんていうか佐竹さん、すごーく大人の雰囲気だったしなあ。
ほづのことをどう思ったのかは分からないけど、万が一ほづが掛かっていくようなことがあっても、彼ならほづを怪我させないようにしながらも、ちゃんと勝ってしまいそう。それだけの気魄みたいなものを、静かな中に沈めたような人だと思った。
○○○
授業が終わって昼休みになり、ぼくは学内のカフェテリアを目指して歩いた。お弁当を持ってくる人たちは、それぞれ学内の広場だとか木陰のベンチだとかの空きを探してそこでもう食べはじめている。
ぼく、料理はあんまり得意じゃないから、そういうのはまだできなくて。一応、一人暮らしをするにあたって基本的なことはママから教わってきたんだけど、だからってすぐに上手になれるわけないもんね。
それに、自分で作ったものって不思議とあんまり美味しいって思えない。あれ、なんでなんだろう。いつもひとりで食べてるから、っていうのもあるのかもしれないな。そんなこんなで、ぼくはいつもお昼には、カフェテリアでちょっとした軽食を食べるだけにしてるんだよね。
ああ、でも、今日はなんとなく食欲が湧かないなあ。
ほづのことを思い出していたせいか、体も熱いような気がするし。
今日はカフェテリアが随分と遠いような気がする。おかしいなあ。
そんなことをぼんやりと考えながら足許だけを見て、てくてく廊下を歩いていたら、ふと背後から声がした。
「……あれ? 篠原さ……くん?」
「あ。内藤くん……」
振り向いたら、最近できたばかりの優しい顔をした友達が、にっこり笑って立っていた。
「どうしたの? なんとなく、ふらふらしてるように見えるけど……って、顔も赤いよ? 篠原くん」
「え、そう……? って、うひゃ!」
内藤くんが子どもにするみたいにしてぼくの額に手を当ててきて、ぼくは変な声を出した。あっという間のことで、逃げる暇もなかった。
び、びび、びっくりした。
いきなり触ってくるなんて、そんなの反則じゃない?
この場にもしもほづがいたら、今ごろ内藤くん、この世の人じゃなくなってるよ?
でも、彼は何も意識していないらしく、たちまち顔を曇らせただけだった。
「……やっぱ、熱いよ。篠原くん、熱あるんじゃない?」
「え……?」
そうか。体が熱いのはそのせいだったのか。そう言えば、喉の奥がいつもと違って熱が籠もったみたいになって、どんより重たい感じがある。
内藤くん、さすがだよ。やっぱり、お母さんの代わりに何年も小さな弟さんの面倒を見てきただけはあるなあ。
「風邪かな? 医務室行ってみる? 午後の授業に、絶対出ないとヤバいのある?」
「ううん。一応、大丈夫……」
そう言ったら、内藤くんは有無を言わさずぼくの鞄を取り上げて自分の肩に掛けてしまった。
「じゃ、行こう。お昼、なにか食べられそうなもの買って持っていくから。篠原くんはしばらくそこで休ませてもらってるといいよ」
「あ、ありがと……」
わあ、ほんとにお母さんみたい。
佐竹さんとはまた違うけど、ふわっとしてるのに頼りがいがありそうだなあ。
と思った途端、視界がいきなりぐらりと傾いだ。
「わ、大丈夫?」
内藤くんが慌てて僕の二の腕を掴む。それでどうにか、壁に頭を激突させるのを回避できたみたいだった。
「あ、ごめんね……? ありがとう……」
「そんなのいいから。ふらつくんだね? 俺の腕を掴んで歩いて。ゆっくりでいいからね」
そうしてそのまま、ぼくは学内の医務室へと連れて行かれた。
○○○
保健医の先生のお見立ては、「まあ風邪でしょうね」というものだった。
ぼくはそのまま午後いっぱい医務室のベッドで休ませてもらい、そのあと迎えに来てくれた内藤くんと一緒に帰ることになった。
「俺んちの近くに、うちのかかりつけの内科があるよ。この時間からでも診てくれるし、年配だけど診断はしっかりした先生だから、行こう? 篠原さん、保健証っていま持ってるかな?」
内藤くんが手馴れた感じでいろいろと気遣ってくれる。
なんでもそのお医者さんは、ほかの小児科で「風邪ですかねえ」って何度か風邪薬を処方されても治らなかった洋介くんを、ちょっと診察しただけで「これ、マイコかもしれないよ」って一発で言い当てたという人らしい。
「マイコ」っていうのはマイコプラズマ肺炎のことなんだって。微熱が続いて、昼間はおさまっているんだけど夜になると熱が上がって咳もひどくなるんだそうだ。
ぼくはそのままその小さな内科医院に連れて行かれ、やっぱり「風邪ですね」と診断されて薬を貰い、内藤くんに付き添われて自分のマンションに帰った。
その頃にはもう、熱が三十九度を越えていた。
平熱が低めのぼくは、そんなのでももうふらふらだった。
「しっかり。もう少しだからね」
内科を出た時からは、内藤くんはなんともう、ぼくを背負ってくれていた。荷物から何から全部持った上でぼくを背負って、そりゃもう大変だろうに。申し訳なくてたまらない。それに、こんなのほづに見られたらえらいことになっちゃうよ。
でももう、そんなこと言っていられなかった。ぼくはそのぐらい、内藤くんから見ても危なっかしい歩き方しか出来なくなってしまってた。
そんなこんなでやっとのことで、内藤くん自身もかなりよろめきながら、ぼくの部屋まで辿りついてくれたみたいだった。
ぼくの部屋のあるマンションは、セキュリティがしっかりしている反面、こういう場合にはちょっと面倒なことになる。だってさすがにオートロックは内藤くんが解除するわけにはいかないもんね。仕方がないので、ぼくは一旦、彼の背中からおりなくてはならなかった。
ともかくも、どうにかこうにか自室に着く。
ぼくはもう、その頃には半分朦朧としていた。
ぱったりベッドに倒れこんだぼくに断って、内藤くんはぼくのスマホを使い、ゆのぽんやほづに電話を掛けてくれたようだった。
「ご実家には? どうする?」
一応そう訊いてくれたけど、こんなことで遠くに住んでいる家族に心配を掛けるのは申し訳ない気がして、ぼくは首を横にふった。
内科で処方して貰ってすぐに一回目の薬は飲んできていたんだけど、そのせいかもう眠くて眠くてたまらなかった。
「とにかく眠るといいよ。あとは任せて」
内藤くんは優しい声でそう言って、ぼくに上掛けをかけてくれた。
ぼくはもう、それには夢うつつで頷いていた。
そしてあっというまに、眠りの底に沈んでいった。




