表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
続*虹を架ける人  作者: 城 マリカ
9/24

◆魔性彼氏

 わたしは朝から気が重かった。

 どんな顔をして葛西くんに会えばいいのかわからないのだ。

 目があったらなんて言おう?

 おはよう? いい天気だね?

 頭のなかで考えをめぐらせながら、学校に行った。

 けれど、葛西くんは授業がはじまっても登校してこなかった。

 二時限目の英語の授業中だった。遅刻があたりまえのような顔をして、葛西くんは教室に入ってきた。

 先生は不良じみた葛西くんを一瞥しただけで、そのまま授業をつづける。

 葛西くんは、わたしのほうを一度もみなかった。

 隣の席につくと、教科書と文房具を鞄からごそごそ取りだした。

 わたしはすこし、寂しいと思った。きのうのことは、葛西くんにとってもただの事故なのだろうか。

 黒板をノートに写していると、折りたたまれた紙が机のうえに飛んできた。

 ひろげてみると、角ばった字で『きのうはごめん』とあった。

 やっぱり気にかけてくれていた。

 葛西くんはそしらぬ態度で黒板をみている。

 わたしは文字のしたに『気にしてないよ』と書いて、葛西くんの机のうえに投げこんだ。

 葛西くんはそれをみて、ほっとしたような表情をうかべた。

『あいつに言った?』

『言ってないけどお見通しだったよ』

『何者だあいつは。こえーな』

 手紙を交換しているうちに、チャイムが鳴った。

 教室がざわめきはじめる。

 教科書とノートをおさめて顔をあげると、すでに窓ぎわに奏ちゃんの姿はなかった。

「おはよう、葛西」

 ふくみのある声色で挨拶をすると、奏ちゃんは葛西くんの机にどっかりと腰かけた。長い脚を組んで、視線だけを葛西くんにむけて微笑する。

 目が笑ってない。

「ちょっと屋上に行こうか」

 葛西くんが、ひるむそぶりをみせた。

「殴る気かよ」

「まさか。告白したいんだよ」

 奏ちゃんは妖しく笑うと、誘惑するように葛西くんの顎をつまんで持ちあげた。

「ついて来な」


 ふたりの後を、わたしはちょこまか小走りで追いかけた。

「ねえ、喧嘩しないでね?」

 わたしのお願いはみごとに黙殺された。

 不安がますます膨れあがった。こんなとき漫画なら、たいてい殴りあいに発展するのだ。

 痛いのも流血もいやだよ、とわたしはふたりの背中に懇願した。

 うす暗い階段をのぼりきって、奏ちゃんが屋上の扉を勢いよくあけた。

 まぶしい。

 だれもいない屋上に突如、奏ちゃんの低い声が響きわたった。

「返せ」

 葛西くんにむかって片手を突きだして、奏ちゃんは繰りかえした。

「返せよ」

 葛西くんが腑に落ちないという顔をした。

「金を借りた覚えはねぇけど」

 奏ちゃんは短く「ばか」と吐き捨てた。

「はなちゃんのくちびる奪っておいてとぼけんな」

 不穏な空気が流れる。

 わたしはおろおろして奏ちゃんのうしろから学ランを引っぱった。

「もういいでしょ、やめて」

「よくないだろ」

 間髪いれずに返ってきた声は、すこし苛立っていた。

「奪ったもの返せよ、泥棒」

 なんなんだよ、と葛西くんが眉をひそめて噛みついた。

「たかがキスひとつぐらいで……っ」

「そのたかがキスひとつにおれは十年かけたんだ!」

 奏ちゃんが声を荒げて遮った。

 足を踏みだすと、葛西くんの胸ぐらを乱暴につかんだ。殴りそうな気配を感じて、わたしはとっさに奏ちゃんの腕を抱きこんだ。

 きつく目をつむる。

 奏ちゃんの腕は、おとなしくわたしに抱かれたままだった。

 おそるおそる目をあけて、わたしは繰りひろげられている光景に愕然とした。

 奏ちゃんは殴るどころか、葛西くんのくちびるに濃厚なキスを施していたのだ。

 葛西くんは状況を理解できていない。目をみひらいて硬直し、粘りつくようなキスを受けつづけていた。

 奏ちゃんは葛西くんをさんざん舌で犯すと、顔を離して不敵に笑った。

「欲求不満ならおれが相手になってやる」

 胸ぐらをつかんだまま、挑発するように言い放った。

「その気になったらいつでも来な」

 凄絶な、薔薇の微笑に釘づけになる。

 うつくしい悪魔。

 葛西くんはよろけて尻もちをつくと、くちびるに手の甲をあてて茫然と奏ちゃんを仰いだ。あかるい陽射しのしたで、奏ちゃんはなまめかしいほどに色香を立ちのぼらせていた。

「はなちゃんはおれのものだ」

 堂々たる気迫。

 この魔性は罠だろうか。まるで暗示をかけるように。

「おまえはおれに惚れる運命なんだよ」

 強烈な目力で、葛西くんを縛りつけてしまった。


 手をひかれて、屋上を後にする。

 さっきの衝撃的な光景が、目に焼きついて離れない。

 動揺しながらふりかえると、葛西くんはあの場で放心したままだった。

「ねえ」

「放っておきな」

 つめたく言い放って、奏ちゃんは階段を軽快に降りていく。まともに顔がみられなくて、わたしは視線を泳がせた。

「あんなことするなんて……」

 すこしだけ非難をこめて呟くと、

「おれハンムラビ法典の信奉者だから」

 悪びれもせず、奏ちゃんは言った。

「目には目を、歯には歯を。くちびるを盗んだ者にはディープキスの刑を」

 なにも言えなくなったわたしに、奏ちゃんは穏やかに笑いかけた。

「おれの腕は、むやみに人を殴るためにあるんじゃない。はなちゃんを抱きしめるためにあるんだ」

 漫画の主人公みたいなことを言う。

 凜とした横顔に見惚れて、思いだしてしまった。


 ――そのたかがキスひとつにおれは十年かけたんだ!


「奏ちゃん」

「ん?」

「十年って、長いね」

「長いな」

 涼しい顔で「褒めてよ」と言う。

「悶々と我慢してきたんだから」

「……すごいね」

「それだけ?」

「ごめんね、気がつかなくて」

「はなちゃん」

 いたずらな瞳がみおろしてきた。

「ごめんねじゃないだろ? こんなときは、なんて言うの?」

 幼いころから繰りかえされてきた、やさしい合言葉。

 この言葉をきくと、わたしの心にはいつも、虹が架かるのだ。愛していると初めて言ってくれた、あの夏の日を思いだすから。

 わたしは微笑んで、つないだ手を揺らした。

「ありがとう」

 待っていてくれて、ありがとう。

「どういたしまして」

 わたしの頭をくしゃりとなでる、てのひらはいつのまにかおおきくて。十年の歳月の長さを、いやが応にも思いしらされた。

 奏ちゃんの想いは計りしれない。そんなにも待てるものだろうか。

 てのひらよりも、腕よりも。

 もっとひろく、おおきなもので守られている気がした。


「で、あいつは今日だけ美術部員ってわけだな?」

 人体模型のまえで、宮内先生が腕を組んで確認した。

 放課後になって、奏ちゃんは持参したかぼちゃごと美術室に消えたのだ。

「道具を借りてかぼちゃをくり抜くんだって、楽しそうでした」

 わたしが言うと、宮内先生は眉間にしわをよせて嘆息した。

「やりたい放題だな、あいつは」

「……ここで待ってろって」

 奏ちゃんがいないとつまらない。

 不服をあらわにしたわたしの顔を、宮内先生がにやにやしながら眺めてきた。うろたえてしまう。

「なんですか?」

 宮内先生は片手で顎をなでると、感慨深そうに言った。

「おまえ、あいつにべた惚れだな。いつのまに俺から乗り換えたんだかねえ……」

「えっ?」

 驚いて心臓が跳ねた。

 あのころは精一杯ときめきを隠していたのだ。ばれてしまうはずがない。

 宮内先生はわたしの動揺を悟ると、

「理科教師の観察力をなめんなよ?」

 わたしのおでこを人差し指でつついた。

「人間ってのはな、恋する相手をみると瞳孔がひらいて黒目がちになるんだよ。不思議だよな」

 わたしの気持ちを知っていながら、知らないふりをしていたらしい。

「ひどい」

 赤面したわたしを、宮内先生はおもしろそうに笑った。

「今日はいいものみせてやる。視聴覚室に行くぞ」

 ひるがえる白衣の裾に、胸を高鳴らせていた自分はもういない。わたしはかつての憧れの人の背中を、ぱたぱたと追いかけた。


 暗闇に、青い映像がうっすらと流れだす。

 宮内先生がみせてくれたのは、海に降る雪のビデオだった。

 ひかりの届かない深海に、白いものがふわふわと漂っている。

「初めてみました……」

「あたりまえだが、マリンスノーは地上の雪とは違うからな?」

 宮内先生が、わたしのまえの机に腰かけた。

「あの白いやつの正体は懸濁物けんだくぶつ、プランクトンの死骸や排出物が主だな」

「死骸、ですか」

 それでも綺麗だった。

「深海に棲む生き物たちにとってはいい栄養源になるんだ」

 死骸にも、役割があるのか。

 わたしは食い入るように映像をみた。

 真夏の雪を思いだした。わたしの誕生日に奏ちゃんがみせてくれた。

 純白のきらめきだった。

 だけど海に降る雪に、そんなまぶしさはない。

 暗くて青い。神秘と幻想。

 旅のような漂流。

 まるで宇宙のようだった。

 海底に降り積もる、儚すぎる命にすらも意味がある。

 わたしはポケットに手をいれて、ちいさな鉱石を取りだした。

 砂漠のバラ。

 お守りみたいにずっと持っていた。


 ――悪縁を断ち切ってくれる石だ。


 ざらざらした感触を楽しみながら、宮内先生の言葉を反芻はんすうした。

 悪縁とはなんだろう。

 葛西くんの存在は、悪縁になるのだろうか。

「先生」

「なんだ?」

 宮内先生がふりむいた。

「砂漠のバラ、返してもいいですか?」

 ためらいがちに、わたしは鉱石を差しだした。

「どうした?」

「悪縁じゃないと思うから」

 プランクトンの死にさえ、意味があることを知った。だったらわたしのすべての出来事にも、意味があるのかもしれない。

 わたしは宮内先生の目を、まっすぐにみつめた。

「宇宙の摂理です」

 闇のなかで、宮内先生が優美に微笑んだ。いつもの教師の顔ではなかった。

「いい女になるよ、おまえは」

 宮内先生はそう言って、わたしの前髪に指を触れた。そっと払って、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 不覚にもどきどきした。

「先生……?」

 ふっ、と息を吹きかけられた。

 わたしは慌てておでこを押さえて身をひいた。

「なにするんですか、くすぐったいじゃないですか」

 おたおた狼狽しながら抗議すると、宮内先生はおかしそうに肩を揺らした。

「その石は持っとけ」

 わたしはおでこを押さえたまま、上目づかいで宮内先生をうかがった。

 砂漠のバラはな、と、宮内先生はおしえてくれた。

「持ち主に幸せをもたらす石とも言われてるんだよ」

 手のなかの鉱石が。ほんのりと、ぬくもりをおびた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ