◆魔性彼氏
わたしは朝から気が重かった。
どんな顔をして葛西くんに会えばいいのかわからないのだ。
目があったらなんて言おう?
おはよう? いい天気だね?
頭のなかで考えをめぐらせながら、学校に行った。
けれど、葛西くんは授業がはじまっても登校してこなかった。
二時限目の英語の授業中だった。遅刻があたりまえのような顔をして、葛西くんは教室に入ってきた。
先生は不良じみた葛西くんを一瞥しただけで、そのまま授業をつづける。
葛西くんは、わたしのほうを一度もみなかった。
隣の席につくと、教科書と文房具を鞄からごそごそ取りだした。
わたしはすこし、寂しいと思った。きのうのことは、葛西くんにとってもただの事故なのだろうか。
黒板をノートに写していると、折りたたまれた紙が机のうえに飛んできた。
ひろげてみると、角ばった字で『きのうはごめん』とあった。
やっぱり気にかけてくれていた。
葛西くんはそしらぬ態度で黒板をみている。
わたしは文字のしたに『気にしてないよ』と書いて、葛西くんの机のうえに投げこんだ。
葛西くんはそれをみて、ほっとしたような表情をうかべた。
『あいつに言った?』
『言ってないけどお見通しだったよ』
『何者だあいつは。こえーな』
手紙を交換しているうちに、チャイムが鳴った。
教室がざわめきはじめる。
教科書とノートをおさめて顔をあげると、すでに窓ぎわに奏ちゃんの姿はなかった。
「おはよう、葛西」
ふくみのある声色で挨拶をすると、奏ちゃんは葛西くんの机にどっかりと腰かけた。長い脚を組んで、視線だけを葛西くんにむけて微笑する。
目が笑ってない。
「ちょっと屋上に行こうか」
葛西くんが、ひるむそぶりをみせた。
「殴る気かよ」
「まさか。告白したいんだよ」
奏ちゃんは妖しく笑うと、誘惑するように葛西くんの顎をつまんで持ちあげた。
「ついて来な」
ふたりの後を、わたしはちょこまか小走りで追いかけた。
「ねえ、喧嘩しないでね?」
わたしのお願いはみごとに黙殺された。
不安がますます膨れあがった。こんなとき漫画なら、たいてい殴りあいに発展するのだ。
痛いのも流血もいやだよ、とわたしはふたりの背中に懇願した。
うす暗い階段をのぼりきって、奏ちゃんが屋上の扉を勢いよくあけた。
まぶしい。
だれもいない屋上に突如、奏ちゃんの低い声が響きわたった。
「返せ」
葛西くんにむかって片手を突きだして、奏ちゃんは繰りかえした。
「返せよ」
葛西くんが腑に落ちないという顔をした。
「金を借りた覚えはねぇけど」
奏ちゃんは短く「ばか」と吐き捨てた。
「はなちゃんのくちびる奪っておいてとぼけんな」
不穏な空気が流れる。
わたしはおろおろして奏ちゃんのうしろから学ランを引っぱった。
「もういいでしょ、やめて」
「よくないだろ」
間髪いれずに返ってきた声は、すこし苛立っていた。
「奪ったもの返せよ、泥棒」
なんなんだよ、と葛西くんが眉をひそめて噛みついた。
「たかがキスひとつぐらいで……っ」
「そのたかがキスひとつにおれは十年かけたんだ!」
奏ちゃんが声を荒げて遮った。
足を踏みだすと、葛西くんの胸ぐらを乱暴につかんだ。殴りそうな気配を感じて、わたしはとっさに奏ちゃんの腕を抱きこんだ。
きつく目をつむる。
奏ちゃんの腕は、おとなしくわたしに抱かれたままだった。
おそるおそる目をあけて、わたしは繰りひろげられている光景に愕然とした。
奏ちゃんは殴るどころか、葛西くんのくちびるに濃厚なキスを施していたのだ。
葛西くんは状況を理解できていない。目をみひらいて硬直し、粘りつくようなキスを受けつづけていた。
奏ちゃんは葛西くんをさんざん舌で犯すと、顔を離して不敵に笑った。
「欲求不満ならおれが相手になってやる」
胸ぐらをつかんだまま、挑発するように言い放った。
「その気になったらいつでも来な」
凄絶な、薔薇の微笑に釘づけになる。
うつくしい悪魔。
葛西くんはよろけて尻もちをつくと、くちびるに手の甲をあてて茫然と奏ちゃんを仰いだ。あかるい陽射しのしたで、奏ちゃんはなまめかしいほどに色香を立ちのぼらせていた。
「はなちゃんはおれのものだ」
堂々たる気迫。
この魔性は罠だろうか。まるで暗示をかけるように。
「おまえはおれに惚れる運命なんだよ」
強烈な目力で、葛西くんを縛りつけてしまった。
手をひかれて、屋上を後にする。
さっきの衝撃的な光景が、目に焼きついて離れない。
動揺しながらふりかえると、葛西くんはあの場で放心したままだった。
「ねえ」
「放っておきな」
つめたく言い放って、奏ちゃんは階段を軽快に降りていく。まともに顔がみられなくて、わたしは視線を泳がせた。
「あんなことするなんて……」
すこしだけ非難をこめて呟くと、
「おれハンムラビ法典の信奉者だから」
悪びれもせず、奏ちゃんは言った。
「目には目を、歯には歯を。くちびるを盗んだ者にはディープキスの刑を」
なにも言えなくなったわたしに、奏ちゃんは穏やかに笑いかけた。
「おれの腕は、むやみに人を殴るためにあるんじゃない。はなちゃんを抱きしめるためにあるんだ」
漫画の主人公みたいなことを言う。
凜とした横顔に見惚れて、思いだしてしまった。
――そのたかがキスひとつにおれは十年かけたんだ!
「奏ちゃん」
「ん?」
「十年って、長いね」
「長いな」
涼しい顔で「褒めてよ」と言う。
「悶々と我慢してきたんだから」
「……すごいね」
「それだけ?」
「ごめんね、気がつかなくて」
「はなちゃん」
いたずらな瞳がみおろしてきた。
「ごめんねじゃないだろ? こんなときは、なんて言うの?」
幼いころから繰りかえされてきた、やさしい合言葉。
この言葉をきくと、わたしの心にはいつも、虹が架かるのだ。愛していると初めて言ってくれた、あの夏の日を思いだすから。
わたしは微笑んで、つないだ手を揺らした。
「ありがとう」
待っていてくれて、ありがとう。
「どういたしまして」
わたしの頭をくしゃりとなでる、てのひらはいつのまにかおおきくて。十年の歳月の長さを、否が応にも思いしらされた。
奏ちゃんの想いは計りしれない。そんなにも待てるものだろうか。
てのひらよりも、腕よりも。
もっとひろく、おおきなもので守られている気がした。
「で、あいつは今日だけ美術部員ってわけだな?」
人体模型のまえで、宮内先生が腕を組んで確認した。
放課後になって、奏ちゃんは持参したかぼちゃごと美術室に消えたのだ。
「道具を借りてかぼちゃをくり抜くんだって、楽しそうでした」
わたしが言うと、宮内先生は眉間にしわをよせて嘆息した。
「やりたい放題だな、あいつは」
「……ここで待ってろって」
奏ちゃんがいないとつまらない。
不服をあらわにしたわたしの顔を、宮内先生がにやにやしながら眺めてきた。うろたえてしまう。
「なんですか?」
宮内先生は片手で顎をなでると、感慨深そうに言った。
「おまえ、あいつにべた惚れだな。いつのまに俺から乗り換えたんだかねえ……」
「えっ?」
驚いて心臓が跳ねた。
あのころは精一杯ときめきを隠していたのだ。ばれてしまうはずがない。
宮内先生はわたしの動揺を悟ると、
「理科教師の観察力をなめんなよ?」
わたしのおでこを人差し指でつついた。
「人間ってのはな、恋する相手をみると瞳孔がひらいて黒目がちになるんだよ。不思議だよな」
わたしの気持ちを知っていながら、知らないふりをしていたらしい。
「ひどい」
赤面したわたしを、宮内先生はおもしろそうに笑った。
「今日はいいものみせてやる。視聴覚室に行くぞ」
ひるがえる白衣の裾に、胸を高鳴らせていた自分はもういない。わたしはかつての憧れの人の背中を、ぱたぱたと追いかけた。
暗闇に、青い映像がうっすらと流れだす。
宮内先生がみせてくれたのは、海に降る雪のビデオだった。
ひかりの届かない深海に、白いものがふわふわと漂っている。
「初めてみました……」
「あたりまえだが、マリンスノーは地上の雪とは違うからな?」
宮内先生が、わたしのまえの机に腰かけた。
「あの白いやつの正体は懸濁物、プランクトンの死骸や排出物が主だな」
「死骸、ですか」
それでも綺麗だった。
「深海に棲む生き物たちにとってはいい栄養源になるんだ」
死骸にも、役割があるのか。
わたしは食い入るように映像をみた。
真夏の雪を思いだした。わたしの誕生日に奏ちゃんがみせてくれた。
純白のきらめきだった。
だけど海に降る雪に、そんなまぶしさはない。
暗くて青い。神秘と幻想。
旅のような漂流。
まるで宇宙のようだった。
海底に降り積もる、儚すぎる命にすらも意味がある。
わたしはポケットに手をいれて、ちいさな鉱石を取りだした。
砂漠のバラ。
お守りみたいにずっと持っていた。
――悪縁を断ち切ってくれる石だ。
ざらざらした感触を楽しみながら、宮内先生の言葉を反芻した。
悪縁とはなんだろう。
葛西くんの存在は、悪縁になるのだろうか。
「先生」
「なんだ?」
宮内先生がふりむいた。
「砂漠のバラ、返してもいいですか?」
ためらいがちに、わたしは鉱石を差しだした。
「どうした?」
「悪縁じゃないと思うから」
プランクトンの死にさえ、意味があることを知った。だったらわたしのすべての出来事にも、意味があるのかもしれない。
わたしは宮内先生の目を、まっすぐにみつめた。
「宇宙の摂理です」
闇のなかで、宮内先生が優美に微笑んだ。いつもの教師の顔ではなかった。
「いい女になるよ、おまえは」
宮内先生はそう言って、わたしの前髪に指を触れた。そっと払って、ゆっくりと顔を近づけてくる。
不覚にもどきどきした。
「先生……?」
ふっ、と息を吹きかけられた。
わたしは慌てておでこを押さえて身をひいた。
「なにするんですか、くすぐったいじゃないですか」
おたおた狼狽しながら抗議すると、宮内先生はおかしそうに肩を揺らした。
「その石は持っとけ」
わたしはおでこを押さえたまま、上目づかいで宮内先生をうかがった。
砂漠のバラはな、と、宮内先生はおしえてくれた。
「持ち主に幸せをもたらす石とも言われてるんだよ」
手のなかの鉱石が。ほんのりと、ぬくもりをおびた。