◆手をつないで
「ジャック・オー・ランタンって、元々はかぶで作られてたんだって」
「うん」
地面をみつめる目の端に、かぼちゃ色の輝きをとらえる。
残照につつまれた土手。
いつものように、奏ちゃんと手をつないで帰途を歩く。
「おれ、あしたの放課後は美術部に紛れこんでかぼちゃくり抜くから」
「うん」
つめたい川風がくちびるをなでていく。
わたしは無意識に指先をあてた。
渇いたくちびるだった。ときめきも、なにも残らないキスだった。
「はなちゃんはいい子して理科倶楽部で待ってなね」
「うん」
あの後、葛西くんは弾かれたようにわたしから顔を離した。
手の甲をくちびるにあて、みるみる顔を紅潮させた。自分がしたことに戸惑っているようだった。
目をみはり、後ずさって、ごめんと言った。
茫然自失の体で立ちつくすわたしを置いて、そのまま走り去った。
「なんかあったな?」
「うん」
どうして避けられなかったのだろう。
「なにがあった?」
「うん」
〝花見橋〟の真ん中で、奏ちゃんが立ちどまった。
「ほかの男で頭がいっぱい?」
はっとしてふり仰いだ。
お見通しの瞳がみおろしてくる。
「葛西のこと考えてたろ」
心臓がうるさく鳴った。
避けようとおもえばできたはず。なのに、わたしはうごけなかった。
くちびるにあてていた指を、奏ちゃんがやんわりと払った。
「キスでもされた?」
まなざしが怒りをふくんでいる。初めてみる奏ちゃんだった。
こわくて体がすくんだ。
涙をこらえて、深く息を吸った。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「ごめんなさい……」
我慢していた涙がこぼれた。
裏切ってしまったような罪の意識で胸が張りさけそうだった。
「なんで泣くの」
奏ちゃんが、つないだ手を離した。
喪失感で目のまえが真っ暗になる。わたしはしゃくりあげた。
「なんの涙なのか説明しな」
奏ちゃんは涙をぬぐってくれない。
「浮気してごめんなさいの涙?」
つめたいほどに綺麗な顔をみつめて、わたしは頭を横にふった。
涙が顎をつたってぽたぽたと落ちる。
「葛西くんをすきになったから別れましょうの涙?」
わたしは首がちぎれるほどかぶりをふった。
奏ちゃんは穏やかに吐息をついた。
「だったら泣くことないじゃないか」
どうせあいつが一方的に仕掛けたんだろ、と苦笑した。
「怒らないの?」
「なにを?」
「おまえがぼんやりしてるからだ、って、怒らないの?」
奏ちゃんは二度目の吐息をつくと、わたしの頬を両手でつつみこんだ。
「はなちゃんを怒ることに何の意味がある?」
真剣にみつめて、涙をぬぐった。
「でも、怒ってた」
「いつ?」
「さっき」
「ばか、はなちゃんじゃなくて葛西に怒ってたんだよ」
「こわかった」
「泣くほど?」
「うん」
「泣かせたの、おれか」
ばつが悪そうな顔をして、わたしの頭を腕にくるむと「ごめん」と囁いた。
流水の音に、心が洗われるようだった。
「何回された?」
「……一回」
「ときめいた?」
「ううん」
「事故だな」
「事故?」
「そういうのはキスとは言わない」
奏ちゃんは腕を離すと、わたしの頬を愛おしそうになでた。
「目、つむって」
閉じたまぶたのうえに、キスが落ちてきた。流星みたいなきらめきをみた気がした。
「ときめいた?」
「うん」
「これは?」
おでこにキスをした。
胸の奥に星屑が積もっていく。
「ときめいた?」
「うん」
ふわりと笑って、頬にキス。
「しょっぱいな」
鼻にキスをして。
「だいすきだ」
くちびるを重ねた。
あたたかく潤った、幸せなキスだった。
「あと十回してやる」
楽しそうな囁きに安堵して、ふたたび涙がこみあげた。
「百回して」
奏ちゃんの顔に、せつなくなるほどのやさしい笑みがひろがった。
「千回してやる」
子どもみたいに手をひかれて、橋を渡る。
たもとで枯れ葉が渦を巻いていた。もうすぐ冬が来る。
季節がいくつ巡っても、奏ちゃんの隣にいるのは自分でありたい。
「奏ちゃん」
「ん?」
「すき」
「知ってる。泣くなよ、目が溶けるだろ」
「うん」
残照がまぶしかった。
女の子に生まれてよかった。奏ちゃんをすきになってよかった。
一生に一度だけだから。
わたしの恋は、これが最初で最後だから。
「すきよ」
「……めちゃくちゃに抱きたい」
「うん」
「いい?」
「……うん」
つないだ手は、磁石みたいにくっついて離れなかった。
無言の帰り道は、この後の嵐を予感させた。つないだ手の熱さが、言葉よりも多くを語っていた。
住宅地にさしかかると、どこからか金木犀の香りがした。
すでに抱かれているような気分になって、わたしはひとりで恥ずかしくなった。
白い柵が夕陽に染まり、庭にうっすらと影をのばしていた。
なまえも知らない雑草が、花をつけていることに初めて気がついた。
碧い小花の群れを祝福するように、不思議な色の蝶がひらひらと舞う。瑠璃の羽が朱を弾いてきらめく様は、網膜に染みいるほどにうつくしかった。
なぜか懐かしさがこみあげた。この光景をわたしは知っている。
どこに刻まれた記憶なのだろう。
――帰りたい。
不意に、そんなことを思った。どこに? と、自問した。
わからなかった。
玄関の扉を閉めてふりむくと、奏ちゃんがやわらかにくちづけてきた。
焦らすようなキスに、さっきの疑問もかき消されてたまらない気持ちになる。
離れたくちびるが、体が、もっと欲しくて。
手をひかれるまま、わたしは奏ちゃんの後についていった。
めちゃくちゃに抱きたい。
そう言ったのに。
制服を着たまま奏ちゃんは、わたしのくちびるをやさしく吸ってばかりいる。
ベッドのうえに背中をあずけて、どのくらいの時間が経ったのだろう。もっと激しく奪ってほしい。
くちびるが触れあうたびに、胸が締めつけられて苦しくなった。
奏ちゃん、と、なまえを呼んだ。かすれて声にならなかった。
みおろしてきた瞳が、潤んで透きとおっていた。
「初めてのときみたいな気分」
奏ちゃんはそう言って、記憶をたどるようにまつげを伏せた。
「限界まで我慢したい感じ」
微笑んで、わたしの頬をなでた。
「可愛いな」
指先を、露草色のリボンに触れて、ぽつりと呟いた。
「女の子だな」
いつか似合うと褒めてくれた、それを、大切そうにほどくと。
「めちゃくちゃになんて、できるわけない」
鎖骨にそっと、くちづけた。
青い刻。
昼でも夜でもない。
幻の刻。
「どうして?」
心が震えた。
視界がにじんでいく。
水のなかにいるみたい。
海に棲む生き物の目にも、世界はこんなふうに映るのだろうか。
奏ちゃんは顔をあげると、もう一度、わたしの頬をてのひらでつつんだ。
「はなちゃんは、おれの宝物だから」
時間がとまればいいのに。一瞬が永遠になればいいのに。
こめかみを涙が伝った。
宝石ならいいのに。奏ちゃんにみせるなら、涙じゃなくて宝石がいい。
「すきだよ」
何度も囁かれてきた言葉なのに、胸が高鳴ってしかたがない。
「だいすきだよ」
せつなくて、頬をつつむ奏ちゃんの手の指を、ぎゅっと握りしめた。
「我慢できない?」
微笑して、すこし意地悪にたずねてくる。
「……できない」
わたしは震える指を、学ランの釦にかけた。
「めちゃくちゃにして」
「痛くするかもしれない」
「いいの」
積極的になってみたけれど、指の震えはごまかせない。釦がうまく外せない。
不器用なその手をつかまれた。
奏ちゃんはわたしの両手をベッドのうえに押しつけると。匂いたつような、色っぽい表情をしてみつめてきた。
「奏ちゃんの顔、エッチだね……」
うっとりと囁いた。
「やらしいことで頭がいっぱいだから」
噛みつくようにくちびるをふさがれた。熱い舌で蹂躙されて、なにも考えられなくなる。
荒々しい愛撫に溺れながら、わたしは奏ちゃんの体にしがみついた。
激しくベッドを軋ませながら、夢中でもつれあう。わたしのうえで奏ちゃんが、黒髪を揺らして快楽の吐息を漏らす。
情熱的に何度も貫かれて、肌が粟立っていく。
嬌声をとめられないわたしのくちびるを、奏ちゃんがやわらかくふさいだ。
熱い両腕で、掬うようにわたしの体を抱きしめて、奥深くまで刺激してくる。
つまさきが痺れた。おもわず背中に爪をたてると、
「痛くない……?」
耳のそばで、熱い吐息まじりに囁かれた。
たまらない。
もっと欲しくなる。
言葉で応える余裕なんてなくて、奏ちゃんの汗ばんだ肩をやんわりと噛んだ。
「食べるな」
奏ちゃんが笑う気配がした。動きをゆるめて、わたしの耳たぶを舌で転がしてくる。
くすぐったさに身をよじりながら、わたしはもう一度、奏ちゃんの肩を噛んだ。
しょっぱい。奏ちゃんの体。
海とおなじ味がする。
「おいしい……」
奏ちゃんは体を離すと、からかうような瞳をしてわたしをみおろした。
「変態め」
急に激しく揺さぶられて、自分でも驚くほどの甘い声がでた。
奏ちゃんが動きを止めた。
「なんて声だすんだよ……」
たまらなげに、頬を薔薇色に染めてくちびるを噛む。わたしは我慢しているときの、色っぽい奏ちゃんがだいすきだ。
「ねえ……」
「あ、ばか、喋るな」
「奏ちゃん……」
「なにも言うな」
わたしがすこし身じろぎしただけで、奏ちゃんは焦りはじめた。
「動くなってば」
わたしの腰をてのひらで掴む。
「いいよ……?」
潤んだ双眸をみつめてわたしが言うと、奏ちゃんは情けない顔をして頭を垂れた。
「もうだめ……」
ごめん、とかすかに体を震わせて、あっけなく果ててしまった。
自分の失態が恥ずかしいのか、そのまま沈黙する。隠れたいと言わんばかりに、わたしの首すじに顔を埋めると。
「悪魔……っ」
責めるように囁いて、わたしの肩を噛んだ。
夜の静寂のなかで、裸の胸に耳をよせる。規則ただしい心音に聴きいっていると、幸せな気持ちでいっぱいになる。
首に腕を絡ませて、猫みたいにひたいをこすりつけた。
「甘えたいの?」
やさしいばかりの囁きに、胸がきゅんとした。
もぞもぞと下に移動する。
ちいさな突起をみつけると、そっと、口にふくんだ。
「こら……」
身じろぎして奏ちゃんが、甘い吐息まじりに言った。
「食べるな。カマキリじゃないんだから」
「カマキリ?」
首をかしげるわたしをみて、奏ちゃんは得意げに口端をあげた。
「知らないの? カマキリは交尾の後でメスがオスを食べちゃうんだよ」
想像した光景は、衝撃的なものだった。
「どうして食べちゃうの?」
「カマキリは動くものがみんな餌にみえるんだよ。しかも、メスはオスを仲間として認識できないから」
奏ちゃんはそこでいったん言葉を区切って、にやりとした。
「だからオスはメスのうしろから飛びかかって事に励むんだよ。何時間もやりまくり」
奏ちゃんは無邪気に「いいなあ」と瞳をきらめかせた。
「おれもやりまくりたい」
素直すぎる発言に、わたしは赤面した。
「やだあ……」
「自分だってすきなくせに」
見透かすようなまなざしでみつめられて、顔が火照った。
恥ずかしくて目をそらしてしまう。たしかにわたしは、奏ちゃんとするのがすきなのだ。
「図星だった?」
「意地悪……」
「なんで? おれの体で気持ちよくなるのがすきってことだろ? 最高じゃないか」
奏ちゃんはうれしそうに、わたしを抱きよせて頬ずりした。
「可愛い、だいすき、はなちゃんになら食われてもいいや」
部屋のなかを、温かなくすくす笑いが満たしていく。
「カマキリじゃなくてよかったね」
「なにが?」
「した後もいちゃいちゃできるから」
「うん、よかった」
戯れるように抱きしめあって、触れるだけのキスを交わした。
「楽しいな」
「うん」
「幸せだな」
「うん」
抱きあうだけで気持ちがいい。
ぬくもりに溶けてしまいたい。溶けたらそこには、なにが残るの?
奏ちゃん。
永遠の魂がほんとうにあるのなら。わたしはそれを、この目でみてみたい。