◆瑠璃色の蝶
翌朝、玄関をでると、すでに奏ちゃんは隣の庭で朝陽を浴びていた。
白く照りかえる柵のむこうに、すらりとした学ラン姿が麗しい。奏ちゃんは、すがすがしい秋の空気がよく似合う。
柵に駆けよって「おはよう」と挨拶すると、
「おはよ」
にこやかに小首をかしげた。
柵ごしに、そよ風みたいなキスを交わす。
「お寝坊だな」
奏ちゃんはすこし笑うと、わたしの肩先で勢いよく跳ねている髪の毛をつまんだ。
「寝ぐせ。可愛い」
「寒かったんだもん」
「ほんと寒がりだな」
どこからか、瑠璃色のちいさな蝶が飛んできた。柵の先端にとまり、羽をたたんで休息する。
「わあ、綺麗」
幻想的な色彩の羽が、わずかにひらいたり閉じたりしている。
「バランスとってるのかな?」
奏ちゃんの疑問に答えるように、ふと、ふたつの眼がこちらをむいた。
一瞬だけ、視線が合ったような気がした。
おもわず指をのばしてつかまえようとすると、ひらりと飛び立った。瑠璃色の流線を描きながら、しばらくその場にとどまっていたけれど。
やがて、秋空に溶けるように遠くへ消えた。
「幻みたいだったね」
きょとんとして奏ちゃんをみあげると、
「だったな」
不思議そうに見返してきた。
瑠璃色の残像は、いつまでも心に焼きついて離れなかった。
昼休み、屋上のベンチに奏ちゃんと一緒に腰かけて、膝にお弁当をひろげた。
「あ、奏ちゃん玉子焼き入ってる」
いいなあ、と箸をくわえて覗きこむと、
「あげる」
玉子焼きをわたしの弁当箱に移した。
「梅干しもらうよ」
わたしのごはんの真ん中に箸をのばし、かりかり梅をつまんで口に運んだ。
「じじむせぇ男だな。梅干しチョイスかよ」
葛西くんがあんパンを噛りながら横目で一瞥した。
奏ちゃんを中心に据えて、なぜか三人でベンチに座っている。奏ちゃんは顔をしかめながら、梅干しをかりかり噛み砕いた。
「なんでおまえがここにいるんだよ」
葛西くんは缶コーヒーをあおってあんパンを飲みこんだ。
「まぁいいじゃん、俺も混ぜろよ」
奏ちゃんは変な顔をしてまじまじと葛西くんをみた。
「なんなんだよ、あんパンに缶コーヒーって。刑事じゃあるまいし」
「そこツッこむのかよ」
「隠れてろよ。姿みせんな」
はん、と葛西くんは鼻で笑った。
「おまえなんだかんだ言って俺にかまうのな」
奏ちゃんはくちびるをとがらせて、梅干しの種を葛西くんにむけて飛ばした。
「変な攻撃すんなっ」
「はなちゃんの魅力に気づいた審美眼だけは認めてやるよ」
「……そりゃ光栄」
葛西くんはもうひとつ、手つかずのあんパンの袋をつまんでぶらさげた。
「食う?」
「いらない」
「栗が入ってるんだぜ?」
「……いる」
奇妙な三角関係ができあがってしまった。
わたしは内心で首をかしげながら、黙って玉子焼きを咀嚼する。奏ちゃんお手製のそれは、ほんのりと甘くておいしいのだ。
「秋は栗だよな」
高くぬける蒼天を眺めながら葛西くんが呟けば、
「おまえの頭も秋色だよな」
奏ちゃんが間髪いれずに反応する。
「なにが言いたいんだよ」
「なんで不良やってんの?」
奏ちゃんの直球をうけて、葛西くんはかえす言葉をなくしたふうに黙りこんだ。
「ていうか不良になりきれてないよな。おまえっていい子なの? 悪い子なの?」
葛西くんはいやそうに顔をゆがめた。
「俺はグレーな男なんだよ」
「曖昧なやつだな。どっちかにしとけよ、かっこ悪いから」
「おまえずばずば言いすぎなんだよ、舌ひっこぬいてやりてぇな」
奏ちゃんの眉がぴくりとうごいた。
なにかが癇に触ったらしい。すうっと冷たい顔をして、奏ちゃんはとんでもない台詞を吐いた。
「おれの舌技で泣かせてやろうか」
わたしはぎょっとして横をふりむいた。
おなじように唖然として固まった葛西くんの手から、あんパンが落ちた。
奏ちゃんはどこか満足そうに、凄みのある冷笑を顔にうかべた。
「なめんな」
短く言い放つと、ふっと柔和な表情にもどる。とたんにふんわりと色香が立ちのぼった。
わたしは――おそらく葛西くんも――心臓がどきどきしてなだめるのに必死だった。
葛西くんの頬がどことなく赤らんでみえるのは気のせいだろうか。
当の奏ちゃんは、ひかる黒髪を涼しげにそよがせてごはんをもぐもぐしている。
悪魔のような横顔だ。
「おまえその色気どうにかしろよ!」
葛西くんの悲痛な訴えは、虚しく空に吸いこまれた。
奏ちゃんはただ、おかしそうに肩を揺らすばかりだった。
だれを相手にしても、奏ちゃんのほうが一枚うわてだ。葛西くんに悪いと思いながらも、わたしはこっそりと笑いを噛み殺した。
予鈴が鳴った。三人で教室にもどると、
「葛西くん!」
栞ちゃんが机のあいだを縫うようにしてぱたぱたと駆けてきた。待ちうけていたかのようだ。
ふたつのちいさな三つ編みを肩のうえで揺らして、栞ちゃんはキッと葛西くんをみあげた。
「どこに行ってたのよ!?」
怒るそぶりで頬をふくらませる栞ちゃんの勢いに押されて、葛西くんはすこし後ずさった。
「や、ちょっと、野暮用?」
目をそらして空笑いする葛西くんを、栞ちゃんはひと睨み。
「何かあったの?」
きょとんとするわたしと奏ちゃんを、交互にみた栞ちゃんの頬に紅がさした。
「あっきれた! お邪魔虫しに行ってたの!?」
「虫じゃねぇよ!」
栞ちゃんの剣幕にたじたじとなりながらも、葛西くんは応戦する。栞ちゃんは信じられないと言いたげに頭をふるふると横にふった。
「あんたってほんとに野暮! 演劇部の練習さぼって何してるのかと思えば!」
「すきで演劇部員やってんじゃねぇよ!」
わたしは驚いて葛西くんを凝視した。
茶髪で制服を着崩したこの男の子が演劇部?
葛西くんが演技しているところなんて想像もつかない。
栞ちゃんが、両手をひろげてため息をついた。
「〝ガラスの仮面〟の世界に夢中になってたあんたはどこに行ったの?」
「漫画と現実をごっちゃにすんな!」
栞ちゃんは両手をひろげたまま、悲しそうな表情をした。
「王子はあんたしかいないのよ? 演劇部にはあんたが必要なの」
「なんでおまえの言動はいちいち演劇ちっくなんだよ!」
「細かいことにうるさいわね、女優になるのがあたしの夢なんだからいいじゃない!」
「その顔じゃ無理だって何回言わせんだよ!?」
「グレぞこないに言われたくないわ!」
「グレぞこない!?」
ふたりは睨みあって一歩もひかない。
ある意味、仲のいいお似合いのカップルにみえた。と言ったら、ふたりとも怒るかな……。
それまで黙って眺めていた奏ちゃんが、おもむろに口をひらいた。
「付き合っちゃえば?」
「はぁ!?」
ふたり同時に奏ちゃんをふりむいた。
奏ちゃんはその反応を無視して、葛西くんを上から下まで眺めまわすと「ふうん」と言った。
「おまえ演劇部だったの? 人ってみかけによらないな。おまえが王子ね……」
ふうん、と繰りかえして、奏ちゃんは葛西くんの肩に、ぽんっとてのひらを乗せた。
「せいぜい頑張って早くおれに追いつけよ、王子」
語尾にハートマークをつけてにっこり笑うと、葛西くんの耳にフッと息を吹きかけた。
みていた女子がちいさな奇声をあげた。
耳を押さえてよろけた葛西くんに、奏ちゃんは余裕の流し目をおくってにやりとした。
完全に葛西くんで遊んでいる。奏ちゃんの魔性はとどまるところを知らない。
「はなちゃん」
栞ちゃんがわたしの腕を両手でつかんだ。
「な、なあに?」
「やだ、どもらないで」
「だって」
おたがいに、瞳がうっとり溶けそうになっているのだ。
掃除用具入れにぶつかって茫然としたままの葛西くんを尻目に、栞ちゃんは熱っぽく言った。
「奏くん、演劇部に欲しいわ」
彼はまちがいなく演技派よ、と断言して、栞ちゃんはひとりでうなずいていた。
「あれはいい俳優になるわ」
席について教科書を準備する、奏ちゃんの麗しい姿をふたりでみつめた。
栞ちゃん。
奏ちゃんの夢は俳優じゃないよ。
獣医だよ。
じゃんけんで負けたので、重たいごみ箱を抱えて教室をでた。
部活動にむかう生徒たちにぶつからないよう、廊下の端を歩いていると、
「運が悪いな、おまえ」
不意に両手が軽くなった。
わたしの隣で葛西くんが、ごみ箱を抱えてからかうように笑っていた。
「薄情な男子どもだよな。こんなもん女子に持たすなっつの」
葛西くんはじゃんけんに勝ったほうなのに。
「ありがとう」
「気にすんな」
葛西くんはすたすたと歩いていく。
このまま自分だけ教室にもどるのも気がひけて、わたしは小走りで後についていった。
葛西くんが、すこしふりかえって意外そうな顔をした。
「なに、一緒に来てくれんの?」
「……うん」
ためらいがちにうなずくと、葛西くんは歩をゆるめてわたしの速度にあわせた。
なにを話せばいいのかわからない。
無言で階段をおりていたら、葛西くんが口火を切った。
「あいつのどこがいいの?」
このまえの授業中とおなじことをあらためてきかれて、わたしはうつむいた。
奏ちゃんのどこがすきか、なんて。
「ぜんぶ」
に、決まっている。
ちっ、と舌打ちして、葛西くんは黙りこんだ。沈黙が気まずくて、今度はわたしから話しかけた。
「どうしてわたしなの?」
あきらかにわたしは平凡な部類だ。容姿も性格も地味で目立たない。
奏ちゃんに想われているのは奇跡なのだ。
葛西くんはちらりとわたしに視線をよこすと、
「雰囲気」
と言った。
「夏休みが明けてからかな。なんか雰囲気がほかの女子と違うんだよな。透明感っての? 白さに惹かれるっつうか。自分が黒いからかもしんねぇけど」
よくわかんね、と苦笑した。
「葛西くん、黒いの?」
「お、食いついてくれた?」
葛西くんは、そのまま口をつぐんでしまった。
木造校舎の裏手にまわり、焼却炉のふたをあける。
熱気が顔をおしつつんだ。煙たくて息苦しい。
ごうごうと揺れる赤い炎にむけて、葛西くんがごみ箱を逆さまにひっくりかえした。ごみは炎に飲みこまれ、みるみるうちに原形をなくしてゆく。
「浄化だな」
琥珀色の瞳に火影を映して、葛西くんは満足そうに呟いた。
パチパチと爆ぜる音がする。
炉のなかから熱風が吹きあげ、長めの茶髪がふわりと舞った。
赤と茶と陽光。
秋の色が混ざりあい、細い髪の毛がきらりと金色を弾いた。
わたしには奏ちゃんしかみえていなかったから。だから、気づかなかった。
葛西くんは、綺麗な表情をする。
「俺も灰になりてぇな」
葛西くんは、横顔に憂いをうかべてそんなことを言った。
ふたを閉めて、乱れた髪の毛をそのままに煙突をみやる。
ゆらゆらと白煙がのぼってゆく。さ迷うように、儚く、淡く。
「なんか魂みたいじゃね?」
葛西くんはふりかえると、あどけなさの残る笑みをみせた。
木造校舎のなかから、艶のあるピアノの音色が聴こえてきた。
「あ、俺この曲しってる」
「わたしも」
「なんだ、おまえも?」
けっこうマニアだな、と言って肩をすくめた。
空になったごみ箱を持って、来た道をもどる。校舎の横にはちいさな池があった。
「おまえってあんな感じ」
葛西くんが、一匹の鯉を指さした。
池の奥まったところで悠々と泳ぐ、金色の鯉。
紅や黒や斑もようがひしめくなか、金にきらめく鯉はそれ一匹だけだった。
「わたし、あんなに綺麗じゃないよ?」
「俺の目にはひかってみえるんだよ」
胸が痛くなった。
ひかりを求めているのだろうか。
〝ヒースの茂る荒野〟を、葛西くんはどんな気持ちで聴いているのだろう。
葛西くんは……
「孤独なの?」
口をついてでた言葉に、自分で驚いた。
鯉が跳ねて、やわらかな水音がした。潤った、豊かな響きだった。
ふっ、と影がさした。
顔をあげると、葛西くんが真顔でわたしをみつめていた。
ふたつの瞳。
深淵に吸いこまれそうな気がした。
影が近づいた。
うごけなかった。
葛西くんのくちびるは、つめたく渇いてかさかさしていた。
寂しい荒野みたいだった。