◆満ちる時
扉をあけて廊下にでると、霞のような淡いひかりが目に染みた。
黒の世界から白の世界へ。
奏ちゃんがわたしをみおろして、
「ん」
微笑みながら手を差しだした。
わたしは砂漠の薔薇と百円玉をポケットに突っこむと、その手をぎゅっと握りしめた。
学校内であっても、奏ちゃんはあたりまえのように手をつないでくれる。さらさらした肌の感触がなじんで、わたしはそれだけでときめいてしまう。
「顔、赤いな」
からかうように指摘されて、おもわず「だって」とみあげた。
「だって?」
手をひいて歩きながら、奏ちゃんはいたずらな瞳をむけて先を促す。
いつもの奏ちゃんだ。
いつもの穏やかな奏ちゃんだ。
うれしくなってつないだ手を揺らすと、
「子どもみたいだな」
くすりと笑われた。
綺麗な横顔にうっとりする。
「みるなよ」
「だって」
「だって?」
「かっこいいんだもん」
「いまさらだね」
「今日は告白されたの?」
奏ちゃんは階段の踊り場にさしかかると、足をとめてふりかえった。
「不安?」
やさしくたずねられて、わたしは言葉につまってしまった。
不安とは違う気がする。
よくわからない。
もてる恋人を誇らしく思う気持ちがある一方で。ほかの女の子と関わらないでほしい、そんなわがままな気持ちもあった。
奏ちゃんに抱くやきもちは、自分でも説明のできない複雑なものだった。
「そんな顔するなよ」
奏ちゃんが指先で、わたしの輪郭をなぞった。
「すきだから」
わたしは学ランのそで口をつまんで揺らした。
「どのくらい?」
奏ちゃんは艶っぽい笑みをうかべると、わたしの耳にくちびるを寄せてきた。
「はなちゃんじゃないと勃たないくらい」
一瞬でわたしを恥ずかしくさせて、楽しそうに笑った。
「ひどい、からかってるの?」
顔をそむけて抗議すると、「まさか」と否定してふんわりと抱いた。
遠くで生徒たちの声がする。
この場所だけ、だれにも入りこめない異空間みたいだった。
踊り場での抱擁。
鮮やかな既視感。
「もし、あのとき……」
奏ちゃんが、ぽつりと呟いた。
「こうしてなかったら、まだ片想いしてたのかな、おれ」
胸がちくりと痛んだ。
奏ちゃんの気持ちに露ほども気づいていなかった、あのころのわたし。
――おれを好きになれ。
青く染まった踊り場で、もし、あの強引な告白がなかったら。
わたしの気持ちは奏ちゃんにむかっていただろうか?
「な? わかっただろ?」
奏ちゃんはわたしをそっと離すと、
「惚れたほうが負けなんだよ」
ひらき直ったような口調で言った。
「おれに求めるものがあるなら言いな。できることならなんでもしてやるから」
愛おしそうにわたしの頭をなでる。
奏ちゃんは、あっという間にわたしの心を満たしてしまう。そうなると不思議なことに、奏ちゃんの顔にも満足がひろがるのだ。
「はなちゃんは可愛すぎるな」
奏ちゃんは目を細めて宙をみつめると、ひとり納得したようにうなずいた。
「一刻もはやく〝魔よけ〟がいる」
毎年ハロウィンの時期になると、この町の通りにはかぼちゃ売りの露店が現れる。太陽みたいなオレンジ色が、いつもの見慣れた町並みにあかるい花を添える。
わたしと奏ちゃんは〝金星通り〟で、ごろごろと積みあげられたかぼちゃを吟味していた。
すでにハロウィンは三日後に迫っている。
形のいいかぼちゃは売れてしまったのだろう、選別には骨が折れた。
露店の主にも手伝ってもらい、ようやくこれだと思えるものをみつけた。いくぶん小ぶりではあるものの、丸々と綺麗な形をしたかぼちゃを購入した。
肝心のかぼちゃが手に入った。つぎに求めるのは蝋燭だ。
奏ちゃんの足どりはうれしそうに弾んでいた。
「いいのがあってよかったね」
わたしが言うと、奏ちゃんはなにやら意味ありげに含み笑いをした。
「やだあ、へんな笑い方」
奏ちゃんは相変わらずおかしな笑い方をしながら、ちらりと流し目をよこした。
色っぽい視線に、おもわず心臓が跳ねる。
「かぼちゃの曲線って、なんかやらしいよな」
爽やかな秋空のしたで、奏ちゃんはいきなり変態な発言をした。絶句するわたしの腰を軽くひと撫でして、楽しそうに笑い声をたてる。
「やだもう、変態」
恥ずかしくて顔があげられない。
「男が変態じゃなかったら人類滅亡だろ」
白い地面に伸びたふたりの影が、途中からぴたりと重なりあっている。
ふたりでひとり。
新しい影。
「子どもが欲しいな」
「えっ?」
驚いて振り仰いだわたしを、奏ちゃんはきょとんとした顔でみおろした。
「いまじゃないよ?」
胸をおさえてうなずくわたしをみて、おかしそうに笑う。
「びっくりした顔も可愛いな」
わたしは影が離れていかないように、学ランの裾をきゅっと握った。
「はなちゃん、おれ、その仕草に弱いんだけど」
裾をつかむわたしの手をぽんぽんとはたく。
重なりあった影は、真夏にできるそれのように濃い。影はこんなにも簡単にひとつに溶けるのに。
「奏ちゃん」
「ん?」
「体って、ときどき邪魔だね」
どうして体なんてものがあるのかな?
奏ちゃんは一瞬わたしをじっとみて、なにかを考える風にまえに向きなおった。
水彩のような蒼空に、おいしそうな鰯雲が漂っている。
奏ちゃんは艶つやした黒髪をなびかせながら、優美な微笑をうかべてふりむいた。
「おしえてあげようか?」
手首をひかれ、あっという間に道端の隙間に連れこまれた。
建物と建物の狭間、壁が造るほんのわずかな空間で、いやおうなく体が密着する。
「奏ちゃ……?」
「ばか、声だすな」
静かに命令して、やわらかにくちびるを重ねてきた。
通り過ぎる人はだれひとり、こんな隙間を気にとめはしない。
賑やかな世界から隔絶された場所で、とろけるようなキスを施されて恍惚とする。
腰が砕けそう。
わたしは背中に腕をまわして、一生懸命しがみついた。
「体がないと、こんなことできないだろ」
紅く濡れてひかる、魅惑的なくちびるがふたたび降りてきた。
うつむいていたくても、キスをうけると自然に顔がうえをむく。
頬を滑る、奏ちゃんのやわらかな髪がくすぐったい。
甘い吐息をからませあいながら、うすく目をあけた。屋根に切りとられた狭い蒼空は、こわくなるほど高く突きぬけていた。
――吸いこまれそう。
言いしれない怖れが膨らんできて、わたしはきつく目をつぶった。
まぶたの裏に、いくつもの金色の幾何学もようがちらついた。おもわずちいさな声を漏らすと、するりとスカートのなかに手が滑りこんできた。
わたしは慌てて強引なその腕をつかんでいやいやした。
けれど奏ちゃんはあっけなく下着のなかに指を忍ばせてしまった。
瞬間、純粋に驚いたような呟きが降ってきた。
「すごい……」
羞恥にめまいがした。
逃げたいのに、縛りつけられたようにうごけない。
体をかたくして深くうつむくと、奏ちゃんは指を離してわたしの顔を覗きこんだ。
「はなちゃん」
意地悪に微笑して、甘く囁いた。
「エッチ」
消えたくなるほど恥ずかしくて、わたしは思いきり顔をそむけて涙ぐんだ。
「ばか、ばか、きらい……」
足もとの雑草が青くにじんでみえる。
だけど奏ちゃんは、そんなわたしにはおかまいなしだった。
「帰って続きしようか」
ぞくっとするような色っぽい表情をして、誘うように、わたしの耳たぶをやさしく噛んだ。
十月も終わりに近づくと、哀しいほどに日暮れがはやくなる。
ベッドのなかで、抱きあって眠るひとときは泡のように儚くて。暗い部屋で奏ちゃんの寝息を聴いていると、なぜか泣きたくなってくる。
恋しい。
こんなにそばにいるのに。
ただただ恋しい。
なまえを呼ぶと、ふと目をさまして微笑んだ。あたたかな胸にわたしを抱きしめて、
「もっと呼んで」
と、かすれた声でねだる。
「奏ちゃん」
「うん」
「寝ぼけてるの?」
「うん」
抱きしめる腕に力がこもった。やさしい花の匂いがする。
「はやく明日になってほしいな」
わたしの髪をなでながら、子どもみたいなことを呟いた。
どうして? とたずねると、
「はなちゃんに会えるから」
無邪気に言って、前髪にキスをした。
恋しい。
「いまも会ってるよ?」
恋しい。
「足りないよ」
恋しい……
「夢のなかに会いに行くね」
「抱くけどいい?」
「そんなにしたいの?」
「したいよ、二十四時間してたい」
「わたし壊れちゃうよ」
「壊れてよ」
まどろみから醒めきらない目で、わたしをじっとみつめる。
「気持ちよかった?」
いたわるように問いかけられて、恥じらいながらも素直にうなずいた。奏ちゃんはうれしそうに、わたしの鼻に鼻先をこすりつけた。
「おれも」
秋の夜は、わけもなく感傷的になる。
紺色の天蓋に、いびつな形の月。未完成の十六夜がさ迷っている。
「奏ちゃんとひとつになると、完成された気がするの」
奏ちゃんはすこし驚いたように、まばたきをした。
その目をみつめて、伝える。
「満たされるの」
いびつな十六夜から、満ちる月になる。
奏ちゃんは、大切なものを愛でるような瞳をして、ありがとう、と言った。
「夢みたいだな」
熱をおびた、わたしの頬をなでながら囁く。
「子どものころから、きみが欲しくてたまらなかったんだ」
葉ずれの音が聴こえる。
潮が満ちていくときのような、やさしい音に似ている。
「きみも、おれを欲しいと思ってくれてるの?」
清らかな微笑。
どうして涙がうかんでくるのだろう。
まるで満ち潮だ。欲しいと望むだけで涙がでる。
その想いだけで、生きていけるような気がするのはどうして。
「抑えるなよ」
夜の海みたい。
深い、黒色のきらめき。
「ぜんぶ受けとめてやるから」
すべてを見透かしたような、瞳。
「いいの?」
「なにが心配?」
「わたし重いの」
「望むところだよ」
迷いなく言って、親指で涙をぬぐってくれる。
「すきなの」
「おれもだよ」
「だいすきなの」
「まだ抑えてるだろ」
奏ちゃんは枕もとのティッシュをとると、わたしの鼻にあてた。
「とりあえず鼻かもうか。はい、ちんして」
言われるがまま、ちん、と鼻をかんだ。
「可愛いな」
愛おしそうに目を細めると、鼻紙を丸めてごみ箱に投げた。
シャツを拾い、素肌のうえに羽織る。
横たわったままのわたしをみおろして。ゆっくりと、わたしの髪を指にからめてもてあそんだ。
やがて。
後をひくような仕草で指を離すと、わたしのセーラー服を拾いあげた。
いつものように、起きあがったわたしにそれを着せる。
長い指が、丁寧にリボンを結んでくれる。
その愛おしい指を、わたしは衝動的に握りしめた。
奏ちゃんのまなざしに戸惑いはなかった。こうなることを予測していたかのようだ。
無言でみつめあう長い時間。
耳の奥に鼓動がこだましていた。
どうすればいいのかわからなくて、指を握りしめたまま視線を泳がせた。
「おれが欲しいだろ」
有無を言わさない堂々とした台詞だった。
一瞬で魔法をかけられてしまった。
釘づけになったわたしの頬を、おおきな両手がつつみこんだ。
微笑を形づくる、やわらかそうなくちびるがうごいた。
「いいよ」
火照った顔をそむけることもできない。
胸がつまる思いで視線を瞳にうつした。それは挑戦的なひかりをたたえて、射るようにわたしを見据えていた。
「来な」
なにかが弾けた。
抑えていたものがあふれだし、わたしは奏ちゃんの首に腕をまわして抱きついた。
「すき」
不思議な魔力に操られるように、わたしはそっとくちびるに吸いついた。
自分からの初めてのキスだった。
甘くやわらかいくちびるが、わずかにひらいた。おずおずと舌を差しこむと、きゅ、と吸ってからめとる。
「初めてだな」
恥ずかしい顔をみられたくなくて、もう一度くちびるを押しつけた。つたないわたしのキスを、奏ちゃんはぜんぶ受けとめてくれた。
肩に顔を埋めたわたしの背中を、なだめるようにたたく。
「頑張ったな」
声が笑みをふくんでいる。
「なんで頑張ったの?」
「すきだから」
「もっと言っていいよ」
「すき」
「うん、幸せ」
「だいすき」
「生きててよかった」
秋の夜長に、くすくす笑いながら抱きしめあう。
未完成の月が、あかるくわたしたちを照らしていた。ゆく先をおしえる、道しるべのように……