◆うつくしい世界
雪の降る音がする。
凍りつくような、クリスマスの朝だった。
暖房をつけてずいぶん経つのに、なかなか部屋があたたまらない。
毛糸の肩かけを羽織って、白く曇った窓硝子をてのひらでこする。町が白銀に染まっていた。
奏ちゃんの部屋の窓にはまだ、空色のカーテンがかかっている。
特別な朝。
わたしに羽があったなら、飛んでいってノックするのに。
カーテンがひらいた。伝わったのだろうか。
窓をあけたとたん、刺すような冷気が流れこんできた。
喉が凍えて声がでない。
金魚みたいに口をぱくぱくさせていると、奏ちゃんが窓から顔をだした。
「はなちゃん」
奏ちゃんはわたしをみて、すこし驚いたような表情をした。冬のつめたい朝に、わたしが早起きしているのは奇跡に近いのだ。
「おはよ、もう起きてたの?」
花ひらくような、この笑顔に会いたかった。
降りしきるぼたん雪が、視界を白く遮るけれど。わたしの目には、奏ちゃんしか映っていない。
ゆうべ、生まれて初めてラブレターを書いた。
うつくしい水晶ペンで、純粋ないまの気持ちをしたためた。
ポストに忍ばせておいたそれを、奏ちゃんは読んでくれたのだろうか。
みつめる漆黒の瞳から、喜びがつたわってきた。
読んでくれている。
奏ちゃんは、わたしの気持ちをすべて受けいれた。
窓辺を離れて部屋をでる。階段を駆けおりて靴を履く。扉をあけて、まぶしく輝く銀色の世界に飛びだした。
遮るものはなにもない。
白い柵ごしに、わたしたちはもういちど巡り逢う。
「やっと、おれのものになった」
清らかな微笑をたたえて、奏ちゃんはわたしを抱きしめた。
「やっと叶った、やっと……」
歓喜を抑えたような声音だった。
どこか懐かしい、雪の匂いと奏ちゃんの匂い。
「はな」
わたしは伏せていたまつげをあげた。
初めて逢ったときとおなじ、はにかんだ笑顔がそこにあった。
「……って、呼んでもいい?」
わたしの頬を、愛おしそうに両手でなでまわす。
「いいよ」
わたしは奏ちゃんの胸に、ひたいをよせた。
何度でも。
永遠になまえを呼んで。
「はな……」
心が震える。
涙が熱いのは生きているから。
感動するのは生きているから。
悲しみも憎しみも怒りも、痛みもすべて、生きているから。
「はな……」
奏ちゃんは、何度も、何度も、わたしのなまえを囁いた。
「可愛いなまえだな。この音だけで、世界を変えられる気がする」
力がわく。
希望がわく。
あなたを想うだけで、わたしはつよくいられる。
人はなぜ生まれてくるのだろう。わからない、だけど、ひとつだけわかることがある。
人は、不幸になるために生まれてくるわけじゃない。
――幸せになるために、生まれてくるのだ。
「奏ちゃん」
心のなかにもう一度、あの幻の情景をみる。黒い海面にのびる、澄んだ蜜色の道。
満月が示してくれた、それは希望の道だった。
「わたし、看護婦になる」
奏ちゃんが、やさしい面差しでわたしをみおろしてきた。
「奏ちゃんのお嫁さんになるんじゃなかったの?」
「看護婦になったわたしをお嫁さんにして」
たちまち奏ちゃんは噴きだした。
「わかった。勉強頑張りな」
笑いながら奏ちゃんは、わたしの頭に積もった雪をはらった。
さりげない。
奏ちゃんは、いつだってさりげない。
なにも言わずに雪をはらってくれる。そのやさしさを、わたしはどれほど多く見逃してきたことだろう。
「はな」
なまえを呼ばれるだけで、幸せになる。
「すきだよ」
言葉ひとつ、想いひとつで、わたしの住む世界は虹色に変わる。
「きみに出逢えてよかった」
愛しい人と、みつめあえる幸せ。
寒さも忘れて。どちらからともなく、くちびるを触れあわせた。
すき。
あなたがすき。
ときに激しく、ときに切なく、ときに甘く、ときに苦しく。
子どもだったわたしに、恋をおしえてくれた人。
幸福の意味。
生きる意味さえも、わたしはあなたで知っていく。
――生まれてきてよかった。
頬に落ちた雪が、体温で溶けていく。
熱い吐息と囁きで、世界は純白に変わっていく。
雪の庭。
ひかり輝くこの庭で、わたしたちは出逢った――……