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続*虹を架ける人  作者: 城 マリカ
22/24

◆月虹の夜

 砂浜に座りこみ、太陽が沈んでいくさまをみていた。

 冬の日没は早い。炎のような残照が、海を幻想の色に染めている。

 わたしは奏ちゃんの肩に、そっと頭をもたせかけた。

 色彩のうつろいを眺めていると、水平線の彼方から、朱いひかりがほとばしった。

 最後の生をまっとうするかのように、燃えつきて、消えていく。

 こうしているあいだにも、この世のどこかで、だれかが死んでいるのだ。

 奏ちゃんの体が、小刻みに震えていた。

「泣いてるの?」

 奏ちゃんは海をみつめて、静かに涙を流していた。

 顔をそむけて、ごめん、と謝ってくる。

「悲しいのは、はなちゃんのほうなのにな」

 わたしのかわりに泣いてくれているのだ。不思議なほどに涙がでない、わたしのために、奏ちゃんは泣いている。

 わたしは頭をおこすと、奏ちゃんの手をにぎって指をからませた。

 悲しくなんかない。

 この世に生きるすべての人に、等しく死は訪れるのだ。

 それが悲しいだけのものなら、この世界は悲しみであふれてしまう。

「魂は生きてるの。生きて、また新しい旅をするの」

 悲しくなんかない。

 だけど、それでも、もう二度と会えないのだと思うと胸がつまる。

「生きてるの」

 やさしくなまえを呼ばれることは、二度とないけれど。

「お父さんは生きてるの」

 触れあうことは、もう二度と、ないけれど。

「どうして」

 奏ちゃんがわたしを抱きよせた。震える声で、どうして、と繰りかえす。

「どうしてきみは、そんなに強くいられるの」

 たまらなげに髪をつかんでくる。

 わたしは奏ちゃんに体を預けたまま、穏やかな潮騒に聴きいった。

 海から生まれてきたからだろうか。

 癒されていく。

 わたしたちは身を寄せあって、波の音を聴きつづけた。

 視界が暗く閉ざされるにつれて、感覚が鋭くなってくる。昼間よりも、潮の香りをきつく感じた。

 濃紺の夜。

 水平線のきわどい場所に、赤い星がぼんやりとひかっている。

 船を導く水先案内人に、迷える心を預けてみたくなる。

「寿命が伸びたな」

 微笑みかけてきた奏ちゃんに、わたしは猫みたいに擦り寄った。

 恋しい。

 ひたすらに恋しくて。

 魂は永遠だとわかっていても。隣にいる彼のぬくもりは、この世にずっとあってほしいと願う。

「雪が降りそうだな」

 帰ろう、と奏ちゃんが立ちあがった。

 差しのべられた手のうえに、わたしは自分の手をかさねた。

 ぐい、と勢いよく引きあげられて、そのまま奏ちゃんの胸に飛びこんだ。

 吐く息が凍る。

 しんと冷える砂浜で、わたしたちはつよく抱きあった。繰りかえす波音と鼓動が、不思議に調和して聴こえた。

「地球表面の七十パーセントは海なんだよ」

 冷気から守るように、奏ちゃんは全身でわたしをくるんでいた。

「うん、人間の体も七十パーセントが水分なんだよ」

「知ってたの?」

「わたし理科倶楽部だもん」

 奏ちゃんがおかしそうに噴きだした。

「そうだったな」

 わたしは得意になって鼻を鳴らした。

「体の水分はね、海とおなじ成分なんだよ」

「知ってる。おれ理科倶楽部だもん」

 一緒に、声もなく笑った。

 奇跡のようだ。

 想い、想われて、時間と感情を共有できるいま。

 奏ちゃんの引きしまった体を、わたしは力いっぱい抱きしめた。それに応えるように、奏ちゃんの腕にもいっそう力がこもる。

 苦しい。

 息もできないほどに、わたしは幸福だった。

 もっと、もっと、つよく抱きしめたい。

 瑠璃の惑星を、涙がでるほど守りたいと切望した。そのおなじ気持ちが、いま、わたしの体のなかを巡っている。

「地球とおなじなの?」

 馬鹿だと笑われるかもしれない。

「人の体は、地球とおなじなの?」

 頭がおかしくなったと思われるかもしれない。

 それでも、奏ちゃんの体を抱きしめるとき。わたしの胸を占拠するのは、あふれるばかりの愛情だけだった。

「はなちゃん」

 奏ちゃんが、ゆっくりと体を離した。

 わたしの頬を、やさしく両手でつつみこんで。

「だいすきだよ」

 満月のひかりに照らされた、奏ちゃんの微笑は、神聖なまでに綺麗だった。

「手、だして」

 言われたとおりに、わたしは両手を差しだした。

 奏ちゃんはポケットを探ると、ちいさな巾着袋を取りだしてみせた。

「お守り?」

「うん」

「みせてもいいの?」

「うん」

 奏ちゃんは、わたしのてのひらのうえで、巾着袋を逆さにした。

「おれの宝物だよ」

 手のなかに転がり落ちたそれをみて、わたしは目をみはった。

 奏ちゃんをふりあおぐ。

 信じられない。

「ずっと、持ってくれてたの……?」

 視界がゆがんだ。

 幼いころの想い出が、鮮明によみがえった。

 あの日、病床に伏した奏ちゃんを元気づけるために、わたしがあげた。


 ――はなが、にじのいしをあげるね。


 虹色のビー玉……


「どうして……?」

 あのときのまま、ビー玉は七色に透きとおっている。

「貴重な石だから」

 奏ちゃんは、あのときのわたしの想いごと、大切にしてくれていたのだ。

 涙があふれた。

 とめどもなく、あとから、あとから、涙はあふれた。

「はなちゃんのことを想わない日は、一日だって無かったよ」

 砂のうえに、宝石と見紛う月の涙がこぼれ落ちていく。

 奏ちゃん。

 わたしだけを、想っていてくれた。

「あのころから、ずっとみてるんだよ」

 奏ちゃんは、まっすぐにわたしを見据えて、ふわりと笑った。

「おれはいつだって、きみのなかに、神さまをみてる」


 ――そうちゃんは、いろんなこと、できているよ。


「希望をおしえてくれたのは、きみだから」


 ――はなの、たからものだよ。そうちゃんにあげる。


「いままでも、この先も。おれはね、きみがいないと生きていけないんだ」

 かっこ悪いだろ、と肩をすくめる。

「いつまでも、虹の石に頼ってちゃいけないよな」

「もう、いらないの?」

「返すよ。十年間おれが祈祷したからな。守ってくれるよ」

 冗談めかしてそう言って、奏ちゃんはわたしの手をとった。

 波うちぎわを、満月にむかって歩きだす。

「強くなるよ」

 背中ごしに奏ちゃんが、決意に満ちた声を投げかけてくる。

「強くなるから」

 きみと共にあるために。

「うん……」

 銀の波頭に、蜜色のひかりがうつろう。わたしはビー玉を、満月にかざした。


 ――月虹げっこう


 ステンドグラスのような、聖なるきらめきだった。

 かさなりあう、月の円と、虹の円。ふたつでひとつの完成を、わたしは海のうえにみた。

 ふりかえる。

 砂浜に、並んだ足跡がつづく。

 軌跡はやがて、風に消されてしまうのだろう。

 だけど、心には残る。

 わたしたちはそうやって、風化しない、歴史を刻んでいくのだ。

 石段をあがった。

 点々と街灯に照らされた道路を、黒い影が横切った。

「月子!?」

 奏ちゃんがうれしそうに声をあげた。

「嘘、こんなところに?」

 わたしは影を目で追った。

 バス停の寂れた長椅子の下に、金色にひかるふたつの眼があった。

「月子だよ!」

 駆けだそうとした奏ちゃんを、わたしは慌てて制止した。

 夜のなかではみえにくいけれど。黒猫の月子の脚もとに、三匹の子猫がまとわりついていたのだ。

「月子……」

 奏ちゃんの感慨深いため息が、海辺の冷気に溶けた。

「驚かしたら駄目だよ」

 わたしのたしなめに、奏ちゃんはしぶしぶ従った。

 名残り惜しそうに、月子を何度もふりかえりながら、帰途につく。

 夜の海は、月子とおなじ色をしていた。

 死にゆく者があれば、生まれくる者もある。季節が巡るように、生命いのちもまた巡る。

 この世界は七色だ。

 悲しみの裏側には、喜びや、幸福がある。

「はなちゃん、鼻が真っ赤」

 奏ちゃんがおもしろそうに、わたしの鼻の頭をつついた。

 あかるい街灯の下で、「トナカイみたい」と笑う。

「奏ちゃんもトナカイになってるよ」

 それでもかっこいいけれど。

 心のなかで呟いて、わたしはマフラーを耳たぶまで引きあげた。

「クリスマス、なにが欲しい?」

 わたしの手をひいて歩きながら、奏ちゃんがたずねてきた。

 堤防のむこう、黒い海面に、澄んだ月の雫が降りそそいでいる。

 蜜色の道。

 癒しのひかりが、心に染みわたる。

「もうもらったよ」

「え?」

「虹の石、もらったから」

 奏ちゃんが隣にいてくれたら、それでじゅうぶん満たされる。

「奏ちゃんは?」

「なにかくれるの?」

「うん、なにが欲しい?」

 物も、心も。

 いつもわたしは、もらってばかりいる。

「そうだなあ……」

 奏ちゃんは、しばらく黙って考えこんでいた。絹のような髪が、さらさらと海風になびく。

 奏ちゃん。

 気づいていますか。

 あなたの髪がなびくたびに、わたしの心もあなたになびくということを。

 触れたくて。

 あなたでなくてはいけないと、心が叫んでいることを。

 受けとめてください。

 こんなにも、わたしがあなたに惹かれているいまを。

「ラブレター」

 奏ちゃんが肩ごしにふりむいた。

「おれにラブレター書いてよ」

「そんなのでいいの?」

「そんなのがいいの」

 幼なじみから、恋人になって、初めて迎えるクリスマス。胸の高鳴りをおぼえながら、わたしはうなずいた。

「水晶ペンで書くね」

 とたんに奏ちゃんは、華やかな笑みをひろげた。

「最高」

 無邪気な笑顔がすき。

 落ちついた声がすき。

 意地悪なところも、正直すぎるところも、やきもち焼きなところも。変態なところも、怖がりなところも、じつは、涙もろいところも。

「奏ちゃん」

「ん?」

「耳かして」

「なに?」

 身をかがめてきた奏ちゃんの頬に、わたしはちいさなキスをした。

「騙された……」

 奏ちゃんはうれしそうに呟きをこぼすと、

「キスしてほしいなら言えばいいのに」

 恥ずかしくてそむけたわたしの顔を、両手で挟んで上向かせた。奏ちゃんは強引なくせに、どこまでもやさしい。

 綿菓子みたいなくちづけを、何度も交わした。

「離したくない……」

 やさしく背中をさすられて、わたしは目を閉じた。

 安心する。

 波の音みたいに、永遠に、ふたりで共鳴できたらいいのに。

 海辺の道路にかさなる影を、月のひかりがそっと、照らしていた。


 生命の誕生は、潮の満ち干きに関係があるという。

 今宵は満月。

 毛布にくるまって、ひとつになった幸福感に酔いしれる。

「はな……」

 月あかりのなかに、男らしい肩の曲線がくっきりと浮かびあがる。みおろしてくる奏ちゃんの、色香ただようまなざしにくらくらする。

「かっこいい……」

 たまらなくて目を伏せた。

 心臓が壊れてしまいそう。

「怖くなってくるな……」

 吐息まじりの囁きに、わたしは目をあけた。

 奏ちゃんの、思いつめたような表情にまで魅入ってしまう。

「おれ、大変なことしてる」

 奏ちゃんは、わたしの視線をからめ取ると、くちびるだけで微笑した。

「避妊してるけど、それでも、もし……」

 奏ちゃんは口をつぐむと、守るようにわたしを抱きしめた。

 月子をみたからだ。

 母親になった月子と、新しい生命をみたから。

「奏ちゃん……」

 なまえを呼べることがうれしい。

 わたしは指をのばして、奏ちゃんの、ほんのり上気した頬に触れた。

 なめらかな輪郭を、そろそろとなぞっていく。

 心を通わせるあなたと。体を結びたいと、望むわたしは愚かでしょうか。

「神聖だね……」

 わたしは奏ちゃんの背中に腕をまわして、ぬくもりをたしかめた。

 自然に吐息が漏れる。

「体って、神聖だね……」

 大切なの。

 だれよりもあなたが。

「綺麗になっていくの」

 奏ちゃんと抱きあうたびに、満たされて、透明になっていく気がする。

「……けなげだな」

 奏ちゃんは愛おしそうに、わたしの髪をなでた。

「いつも想うよ。おれを受けいれてくれるたびに、けなげだなって」

 動くよ? と、甘く囁かれた。それだけで痺れてしまう。

 奏ちゃんは緩やかに動きながら、熱っぽく瞳を潤ませて微笑した。

「すごく濡れてる」

「言わないで……」

 恥ずかしくて顔をそむけると、追いかけて、くちびるを捕らえられる。

 やわらかな舌を割りこませて奏ちゃんは、いつになく官能的なキスをわたしに施した。

「不思議だな。こうしてると、嫉妬とか、怒りとか、消えていくんだ」

 奏ちゃんは囁きながら、快楽に耐えるように眉根をよせた。

 揺れる黒髪の下で、汗ばんだ顔が艶々ひかっている。紅いくちびるを薄くひらき、まつげを伏せて、奏ちゃんは吐息を零しつづける。

 色っぽいその表情に見惚れていたら、気づいた奏ちゃんが、照れくさそうにはにかんだ。

「おればっかり気持ちいいの?」

 深く腰を入れられるたびに、ちいさな嬌声が漏れてしまう。

 もっと声きかせて、と頬をなでられて、わたしは恋しさに震えながら目を閉じた。

 すきな人に抱かれている。

 だいすきな奏ちゃんが、わたしを全身で愛してくれている。

 幸福感がこみあげて、まつげが涙に濡れた。

 自然なことなのだ。

 ひとつになりたい欲求も。綺麗なものに近づきたい、切望も。

「幸せだな……」

 くちびるを幾度も触れあわせて、つのる想いを交歓する。

 わたしたちはまだ、十六歳で、なにも知らない。

 生きていくことは、楽しいことばかりじゃないかもしれない。

 未来には、つらいことや、悲しいことが待ちうけているかもしれない。

 黒く汚れた感情に、支配されるときだってあるかもしれない。

 それでも、諦めたくはない。

 純粋な自分を求める心を、諦めたくはないの。

 硝子のむこうに、いつのまにか、白いものがふわふわと浮遊していた。

「雪……?」

 月光を浴びて、粉雪は蒼白く、不思議な蛍のようにひかっていた。

 それはいつかみた神秘。

 深海の情景、そのものだった。

「マリンスノー……」

 奏ちゃんが、ふと顔をあげた。雪をみつめるわたしの目を、じっと覗きこんでくる。

「マリンスノー、こんなふうだったよ」

 奏ちゃんは、窓の外には興味を示さない。

「ねえ……」

 みて、と視線をむけたわたしを、奏ちゃんはくすりと笑った。

「みてるよ。目に映ってる」

 わたしの瞳を食い入るようにみつめたまま、綺麗だ、と囁いた。

 海の底のような、静寂だった。

 首すじにキスをうけながら、わたしは窓を見やった。宇宙とおなじように、そこには闇がひろがっている。

「深海魚って、寂しくないのかな」

 ひかりの届かない深海で、魚たちは、なにを想って泳ぐのだろう。

「寂しくないんじゃないの?」

「真っ暗なのに?」

「おれが魚なら……」

 奏ちゃんは、そこでいったん言葉を切ると、

「自分の体を発光させるね」

 いたずらそうに断言した。

 わたしは奏ちゃんに、羨望と、敬意のまなざしをおくった。

 周りに闇しかないのなら、自分が灯火になればいい。

 そうだった。

 奏ちゃんは、そういう人だった。

「ねえ……」

「もう黙って」

 花びらのようにふんわりと、くちびるをふさがれた。想いが流れこんでくるような、熱いくちづけだった。

「おれのことだけ考えて」

 甘やかに命令されて、ぞくりと肌が粟立った。

 逆らえるはずもない。

 わたしは目を閉じて、粉雪の残像を追いかけた。奏ちゃんとおなじ気持ちでみた、初めての雪。

 うれしい。

 まぶたの裏に、よみがえる白い渦もよう。

 まぶしい真夏の雪が、深海の闇を追いはらってくれる。

「奏ちゃん……」

「ん?」

「やっぱり魚は、寂しくないね」

 奏ちゃんが、とがめるように目を細めた。

「お喋りやまないな。激しくしようか?」

 わたしの返事も待たずに、きつく抱きしめて攻めたてる。

 奏ちゃんしかみえなくなる。

 奏ちゃんのことしか考えられなくなる。

 たぎるような情熱の海に、わたしは、あっけなく溺れてしまった。


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