◆月虹の夜
砂浜に座りこみ、太陽が沈んでいくさまをみていた。
冬の日没は早い。炎のような残照が、海を幻想の色に染めている。
わたしは奏ちゃんの肩に、そっと頭をもたせかけた。
色彩のうつろいを眺めていると、水平線の彼方から、朱いひかりがほとばしった。
最後の生をまっとうするかのように、燃えつきて、消えていく。
こうしているあいだにも、この世のどこかで、だれかが死んでいるのだ。
奏ちゃんの体が、小刻みに震えていた。
「泣いてるの?」
奏ちゃんは海をみつめて、静かに涙を流していた。
顔をそむけて、ごめん、と謝ってくる。
「悲しいのは、はなちゃんのほうなのにな」
わたしのかわりに泣いてくれているのだ。不思議なほどに涙がでない、わたしのために、奏ちゃんは泣いている。
わたしは頭をおこすと、奏ちゃんの手をにぎって指をからませた。
悲しくなんかない。
この世に生きるすべての人に、等しく死は訪れるのだ。
それが悲しいだけのものなら、この世界は悲しみであふれてしまう。
「魂は生きてるの。生きて、また新しい旅をするの」
悲しくなんかない。
だけど、それでも、もう二度と会えないのだと思うと胸がつまる。
「生きてるの」
やさしくなまえを呼ばれることは、二度とないけれど。
「お父さんは生きてるの」
触れあうことは、もう二度と、ないけれど。
「どうして」
奏ちゃんがわたしを抱きよせた。震える声で、どうして、と繰りかえす。
「どうしてきみは、そんなに強くいられるの」
たまらなげに髪をつかんでくる。
わたしは奏ちゃんに体を預けたまま、穏やかな潮騒に聴きいった。
海から生まれてきたからだろうか。
癒されていく。
わたしたちは身を寄せあって、波の音を聴きつづけた。
視界が暗く閉ざされるにつれて、感覚が鋭くなってくる。昼間よりも、潮の香りをきつく感じた。
濃紺の夜。
水平線のきわどい場所に、赤い星がぼんやりとひかっている。
船を導く水先案内人に、迷える心を預けてみたくなる。
「寿命が伸びたな」
微笑みかけてきた奏ちゃんに、わたしは猫みたいに擦り寄った。
恋しい。
ひたすらに恋しくて。
魂は永遠だとわかっていても。隣にいる彼のぬくもりは、この世にずっとあってほしいと願う。
「雪が降りそうだな」
帰ろう、と奏ちゃんが立ちあがった。
差しのべられた手のうえに、わたしは自分の手をかさねた。
ぐい、と勢いよく引きあげられて、そのまま奏ちゃんの胸に飛びこんだ。
吐く息が凍る。
しんと冷える砂浜で、わたしたちはつよく抱きあった。繰りかえす波音と鼓動が、不思議に調和して聴こえた。
「地球表面の七十パーセントは海なんだよ」
冷気から守るように、奏ちゃんは全身でわたしをくるんでいた。
「うん、人間の体も七十パーセントが水分なんだよ」
「知ってたの?」
「わたし理科倶楽部だもん」
奏ちゃんがおかしそうに噴きだした。
「そうだったな」
わたしは得意になって鼻を鳴らした。
「体の水分はね、海とおなじ成分なんだよ」
「知ってる。おれ理科倶楽部だもん」
一緒に、声もなく笑った。
奇跡のようだ。
想い、想われて、時間と感情を共有できるいま。
奏ちゃんの引きしまった体を、わたしは力いっぱい抱きしめた。それに応えるように、奏ちゃんの腕にもいっそう力がこもる。
苦しい。
息もできないほどに、わたしは幸福だった。
もっと、もっと、つよく抱きしめたい。
瑠璃の惑星を、涙がでるほど守りたいと切望した。そのおなじ気持ちが、いま、わたしの体のなかを巡っている。
「地球とおなじなの?」
馬鹿だと笑われるかもしれない。
「人の体は、地球とおなじなの?」
頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
それでも、奏ちゃんの体を抱きしめるとき。わたしの胸を占拠するのは、あふれるばかりの愛情だけだった。
「はなちゃん」
奏ちゃんが、ゆっくりと体を離した。
わたしの頬を、やさしく両手でつつみこんで。
「だいすきだよ」
満月のひかりに照らされた、奏ちゃんの微笑は、神聖なまでに綺麗だった。
「手、だして」
言われたとおりに、わたしは両手を差しだした。
奏ちゃんはポケットを探ると、ちいさな巾着袋を取りだしてみせた。
「お守り?」
「うん」
「みせてもいいの?」
「うん」
奏ちゃんは、わたしのてのひらのうえで、巾着袋を逆さにした。
「おれの宝物だよ」
手のなかに転がり落ちたそれをみて、わたしは目をみはった。
奏ちゃんをふりあおぐ。
信じられない。
「ずっと、持ってくれてたの……?」
視界がゆがんだ。
幼いころの想い出が、鮮明によみがえった。
あの日、病床に伏した奏ちゃんを元気づけるために、わたしがあげた。
――はなが、にじのいしをあげるね。
虹色のビー玉……
「どうして……?」
あのときのまま、ビー玉は七色に透きとおっている。
「貴重な石だから」
奏ちゃんは、あのときのわたしの想いごと、大切にしてくれていたのだ。
涙があふれた。
とめどもなく、あとから、あとから、涙はあふれた。
「はなちゃんのことを想わない日は、一日だって無かったよ」
砂のうえに、宝石と見紛う月の涙がこぼれ落ちていく。
奏ちゃん。
わたしだけを、想っていてくれた。
「あのころから、ずっとみてるんだよ」
奏ちゃんは、まっすぐにわたしを見据えて、ふわりと笑った。
「おれはいつだって、きみのなかに、神さまをみてる」
――そうちゃんは、いろんなこと、できているよ。
「希望をおしえてくれたのは、きみだから」
――はなの、たからものだよ。そうちゃんにあげる。
「いままでも、この先も。おれはね、きみがいないと生きていけないんだ」
かっこ悪いだろ、と肩をすくめる。
「いつまでも、虹の石に頼ってちゃいけないよな」
「もう、いらないの?」
「返すよ。十年間おれが祈祷したからな。守ってくれるよ」
冗談めかしてそう言って、奏ちゃんはわたしの手をとった。
波うちぎわを、満月にむかって歩きだす。
「強くなるよ」
背中ごしに奏ちゃんが、決意に満ちた声を投げかけてくる。
「強くなるから」
きみと共にあるために。
「うん……」
銀の波頭に、蜜色のひかりがうつろう。わたしはビー玉を、満月にかざした。
――月虹。
ステンドグラスのような、聖なるきらめきだった。
かさなりあう、月の円と、虹の円。ふたつでひとつの完成を、わたしは海のうえにみた。
ふりかえる。
砂浜に、並んだ足跡がつづく。
軌跡はやがて、風に消されてしまうのだろう。
だけど、心には残る。
わたしたちはそうやって、風化しない、歴史を刻んでいくのだ。
石段をあがった。
点々と街灯に照らされた道路を、黒い影が横切った。
「月子!?」
奏ちゃんがうれしそうに声をあげた。
「嘘、こんなところに?」
わたしは影を目で追った。
バス停の寂れた長椅子の下に、金色にひかるふたつの眼があった。
「月子だよ!」
駆けだそうとした奏ちゃんを、わたしは慌てて制止した。
夜のなかではみえにくいけれど。黒猫の月子の脚もとに、三匹の子猫がまとわりついていたのだ。
「月子……」
奏ちゃんの感慨深いため息が、海辺の冷気に溶けた。
「驚かしたら駄目だよ」
わたしのたしなめに、奏ちゃんはしぶしぶ従った。
名残り惜しそうに、月子を何度もふりかえりながら、帰途につく。
夜の海は、月子とおなじ色をしていた。
死にゆく者があれば、生まれくる者もある。季節が巡るように、生命もまた巡る。
この世界は七色だ。
悲しみの裏側には、喜びや、幸福がある。
「はなちゃん、鼻が真っ赤」
奏ちゃんがおもしろそうに、わたしの鼻の頭をつついた。
あかるい街灯の下で、「トナカイみたい」と笑う。
「奏ちゃんもトナカイになってるよ」
それでもかっこいいけれど。
心のなかで呟いて、わたしはマフラーを耳たぶまで引きあげた。
「クリスマス、なにが欲しい?」
わたしの手をひいて歩きながら、奏ちゃんがたずねてきた。
堤防のむこう、黒い海面に、澄んだ月の雫が降りそそいでいる。
蜜色の道。
癒しのひかりが、心に染みわたる。
「もうもらったよ」
「え?」
「虹の石、もらったから」
奏ちゃんが隣にいてくれたら、それでじゅうぶん満たされる。
「奏ちゃんは?」
「なにかくれるの?」
「うん、なにが欲しい?」
物も、心も。
いつもわたしは、もらってばかりいる。
「そうだなあ……」
奏ちゃんは、しばらく黙って考えこんでいた。絹のような髪が、さらさらと海風になびく。
奏ちゃん。
気づいていますか。
あなたの髪がなびくたびに、わたしの心もあなたになびくということを。
触れたくて。
あなたでなくてはいけないと、心が叫んでいることを。
受けとめてください。
こんなにも、わたしがあなたに惹かれているいまを。
「ラブレター」
奏ちゃんが肩ごしにふりむいた。
「おれにラブレター書いてよ」
「そんなのでいいの?」
「そんなのがいいの」
幼なじみから、恋人になって、初めて迎えるクリスマス。胸の高鳴りをおぼえながら、わたしはうなずいた。
「水晶ペンで書くね」
とたんに奏ちゃんは、華やかな笑みをひろげた。
「最高」
無邪気な笑顔がすき。
落ちついた声がすき。
意地悪なところも、正直すぎるところも、やきもち焼きなところも。変態なところも、怖がりなところも、じつは、涙もろいところも。
「奏ちゃん」
「ん?」
「耳かして」
「なに?」
身をかがめてきた奏ちゃんの頬に、わたしはちいさなキスをした。
「騙された……」
奏ちゃんはうれしそうに呟きをこぼすと、
「キスしてほしいなら言えばいいのに」
恥ずかしくてそむけたわたしの顔を、両手で挟んで上向かせた。奏ちゃんは強引なくせに、どこまでもやさしい。
綿菓子みたいなくちづけを、何度も交わした。
「離したくない……」
やさしく背中をさすられて、わたしは目を閉じた。
安心する。
波の音みたいに、永遠に、ふたりで共鳴できたらいいのに。
海辺の道路にかさなる影を、月のひかりがそっと、照らしていた。
生命の誕生は、潮の満ち干きに関係があるという。
今宵は満月。
毛布にくるまって、ひとつになった幸福感に酔いしれる。
「はな……」
月あかりのなかに、男らしい肩の曲線がくっきりと浮かびあがる。みおろしてくる奏ちゃんの、色香ただようまなざしにくらくらする。
「かっこいい……」
たまらなくて目を伏せた。
心臓が壊れてしまいそう。
「怖くなってくるな……」
吐息まじりの囁きに、わたしは目をあけた。
奏ちゃんの、思いつめたような表情にまで魅入ってしまう。
「おれ、大変なことしてる」
奏ちゃんは、わたしの視線をからめ取ると、くちびるだけで微笑した。
「避妊してるけど、それでも、もし……」
奏ちゃんは口をつぐむと、守るようにわたしを抱きしめた。
月子をみたからだ。
母親になった月子と、新しい生命をみたから。
「奏ちゃん……」
なまえを呼べることがうれしい。
わたしは指をのばして、奏ちゃんの、ほんのり上気した頬に触れた。
なめらかな輪郭を、そろそろとなぞっていく。
心を通わせるあなたと。体を結びたいと、望むわたしは愚かでしょうか。
「神聖だね……」
わたしは奏ちゃんの背中に腕をまわして、ぬくもりをたしかめた。
自然に吐息が漏れる。
「体って、神聖だね……」
大切なの。
だれよりもあなたが。
「綺麗になっていくの」
奏ちゃんと抱きあうたびに、満たされて、透明になっていく気がする。
「……けなげだな」
奏ちゃんは愛おしそうに、わたしの髪をなでた。
「いつも想うよ。おれを受けいれてくれるたびに、けなげだなって」
動くよ? と、甘く囁かれた。それだけで痺れてしまう。
奏ちゃんは緩やかに動きながら、熱っぽく瞳を潤ませて微笑した。
「すごく濡れてる」
「言わないで……」
恥ずかしくて顔をそむけると、追いかけて、くちびるを捕らえられる。
やわらかな舌を割りこませて奏ちゃんは、いつになく官能的なキスをわたしに施した。
「不思議だな。こうしてると、嫉妬とか、怒りとか、消えていくんだ」
奏ちゃんは囁きながら、快楽に耐えるように眉根をよせた。
揺れる黒髪の下で、汗ばんだ顔が艶々ひかっている。紅いくちびるを薄くひらき、まつげを伏せて、奏ちゃんは吐息を零しつづける。
色っぽいその表情に見惚れていたら、気づいた奏ちゃんが、照れくさそうにはにかんだ。
「おればっかり気持ちいいの?」
深く腰を入れられるたびに、ちいさな嬌声が漏れてしまう。
もっと声きかせて、と頬をなでられて、わたしは恋しさに震えながら目を閉じた。
すきな人に抱かれている。
だいすきな奏ちゃんが、わたしを全身で愛してくれている。
幸福感がこみあげて、まつげが涙に濡れた。
自然なことなのだ。
ひとつになりたい欲求も。綺麗なものに近づきたい、切望も。
「幸せだな……」
くちびるを幾度も触れあわせて、つのる想いを交歓する。
わたしたちはまだ、十六歳で、なにも知らない。
生きていくことは、楽しいことばかりじゃないかもしれない。
未来には、つらいことや、悲しいことが待ちうけているかもしれない。
黒く汚れた感情に、支配されるときだってあるかもしれない。
それでも、諦めたくはない。
純粋な自分を求める心を、諦めたくはないの。
硝子のむこうに、いつのまにか、白いものがふわふわと浮遊していた。
「雪……?」
月光を浴びて、粉雪は蒼白く、不思議な蛍のようにひかっていた。
それはいつかみた神秘。
深海の情景、そのものだった。
「マリンスノー……」
奏ちゃんが、ふと顔をあげた。雪をみつめるわたしの目を、じっと覗きこんでくる。
「マリンスノー、こんなふうだったよ」
奏ちゃんは、窓の外には興味を示さない。
「ねえ……」
みて、と視線をむけたわたしを、奏ちゃんはくすりと笑った。
「みてるよ。目に映ってる」
わたしの瞳を食い入るようにみつめたまま、綺麗だ、と囁いた。
海の底のような、静寂だった。
首すじにキスをうけながら、わたしは窓を見やった。宇宙とおなじように、そこには闇がひろがっている。
「深海魚って、寂しくないのかな」
ひかりの届かない深海で、魚たちは、なにを想って泳ぐのだろう。
「寂しくないんじゃないの?」
「真っ暗なのに?」
「おれが魚なら……」
奏ちゃんは、そこでいったん言葉を切ると、
「自分の体を発光させるね」
いたずらそうに断言した。
わたしは奏ちゃんに、羨望と、敬意のまなざしをおくった。
周りに闇しかないのなら、自分が灯火になればいい。
そうだった。
奏ちゃんは、そういう人だった。
「ねえ……」
「もう黙って」
花びらのようにふんわりと、くちびるをふさがれた。想いが流れこんでくるような、熱いくちづけだった。
「おれのことだけ考えて」
甘やかに命令されて、ぞくりと肌が粟立った。
逆らえるはずもない。
わたしは目を閉じて、粉雪の残像を追いかけた。奏ちゃんとおなじ気持ちでみた、初めての雪。
うれしい。
まぶたの裏に、よみがえる白い渦もよう。
まぶしい真夏の雪が、深海の闇を追いはらってくれる。
「奏ちゃん……」
「ん?」
「やっぱり魚は、寂しくないね」
奏ちゃんが、とがめるように目を細めた。
「お喋りやまないな。激しくしようか?」
わたしの返事も待たずに、きつく抱きしめて攻めたてる。
奏ちゃんしかみえなくなる。
奏ちゃんのことしか考えられなくなる。
たぎるような情熱の海に、わたしは、あっけなく溺れてしまった。