◆苺のキス
文具専門店〝ねむの木〟の目玉商品、水晶ペンは、奏ちゃんからの贈り物だ。
その書き味はとても滑らか。わたしはさらさらとペンを走らせ、日誌に絹糸みたいな文字を綴っていく。
「綺麗な字を書くね」
放課後の教室で、窓辺に寄りかかってわたしをみていた奏ちゃんが、囁くように言った。
このごろ、奏ちゃんの声はすこし低くなった気がする。
わたしは日誌から顔をあげて、奏ちゃんをみた。
十月下旬の夕陽をうしろから浴びた奏ちゃんの、端正な顔にはくっきりと陰影がさしていた。身にまとう静かな雰囲気は独特で、それはほかの男の子たちにはない、凜とした大人っぽさだった。
あの夏を境に、奏ちゃんはますます女の子たちにもてるようになった。
「奏ちゃん」
「うん?」
首をかしげる仕草ひとつにも、妙な色気がある。艶めいた黒髪が横に流れるだけで、その場の空気が香りたつようだった。
わたしはどきどきしながら、澄んだ黒曜石の瞳をみつめてたずねた。
「今日も、だれかに告白されたの?」
奏ちゃんは、いたずらな微笑をうかべた。
「知ってどうするの?」
肯定の返事だ。
「どうもしない、けど」
わたしは日誌に視線を落とした。
最近の奏ちゃんは、近寄りがたいぐらいにかっこいい。
「やきもち?」
奏ちゃんは、微笑をうかべたままで言った。
「心配しなくて大丈夫だよ。おれ一途にはなちゃんがすきだから」
わたしは素直にうなずいてみせた。
「わかってる」
「なんだよ、言わせるなよ」
奏ちゃんはまつげを伏せて、ふふっと笑った。
「はやく、日誌」
軽く顎でしゃくってわたしを急かす。
「はやく帰ってエッチしよ」
文字が乱れた。
「やだもう、なに言ってるの、こんなところで……」
「男にはこんなところもあんなところも関係ないんだよ。ほら、はやくしないとキスするよ」
奏ちゃんがくすくす笑うのをききながら、わたしは慌てて日誌に文字を書きつらねた。
奏ちゃんに抱かれたあとは、いつも、蜂蜜バターが溶けていくみたいに眠りに入ってしまう。淡い夢のなかで蝶と戯れていたら、ふと、頬に冷たさを感じた。
目をひらくと、奏ちゃんが気だるげな表情をしてわたしをのぞきこんでいた。
「なあに……?」
まだ頭に、ぼんやりと霞がかかっている。
奏ちゃんは、意味深な笑みをつくって、冷えた赤透明の瓶に口をつけた。
苺ソーダをふくむと、まどろむわたしを抱きおこして、濡れたくちびるをそっと、わたしのくちびるに重ねた。ぴりぴりした甘酸っぱい炭酸水が、細く流れこんでくる。
こくん、と、喉が鳴った。
奏ちゃんはくちびるを離すと、熱っぽい瞳をして、焦がすようにわたしをみつめてきた。
「可愛いかった」
囁いて、頬をなでまわす。
わたしは顔を熱くして、奏ちゃんの裸の胸にひたいを押しつけた。
「だって、激しくするんだもん……」
「激しいの、いや?」
「……」
「ゆっくりなのと、どっちがすき?」
消えいりそうな声で、ゆっくりがすき、と打ちあけた。
「わかった」
奏ちゃんは静かに、わたしをふたたびベッドに押し倒した。
「奏ちゃ……?」
言いかけたくちびるを、深くふさがれた。
くちびるが触れあう距離で、奏ちゃんは自嘲ぎみに微笑んだ。薔薇の吐息まじりに「ごめん」と謝ると、
「おれ、淫乱なんだ」
全身から色香をまき散らしながら、もう一回しよ、と甘く囁いた。
町が青く染まりはじめる、幻想的なこの刻がすき。
うっすらとあかるい部屋にはまだ、官能の名残りがほのかに漂っている。
甘い空気のなかで、奏ちゃんが白いシャツを羽織った。
胸の素肌をさらけだしたまま、床に散らかしたわたしのセーラー服を拾う。丁寧にかたちを整えると、わたしの頭のうえからふわりとかぶせてきた。
「ばんざい」
やさしく命令されて、両手をあげた。
そでに腕を通して顔をだすと、いたわるような目をして、乱れたわたしの髪を指でとかしはじめた。
青く透きとおる部屋のなかは、まるで綺麗な水槽を想わせた。静かで、やさしくて、水に抱かれているような安心感がある。
ゆっくりと髪をすいてくれる、指の感触が心地いい。
愛おしさが募っていく。
わたしは奏ちゃんのはだけた胸に、そっと指先を触れた。熱い素肌……。
「だめだよ」
奏ちゃんがちいさく言って、わたしの手首をつかんだ。
「いまは触るな」
きっぱりと拒んで、伏せたまつげをかすかに震わせた。
「どうして?」
奏ちゃんはわたしの手首をつかんだまま、うすく苦笑いしてわたしをみた。
「おれいま、全身性感帯だから」
瞳の奥に、ちらりと炎がかすめた気がした。
わたしがそろそろと手を降ろすと、奏ちゃんは安堵したように吐息をついた。
わたしの胸もとにほどけた露草色のリボンを、器用に結んでくれながら話しかけてくる。
「はなちゃんは、このリボンがよく似合う」
ぬくもりに満ちた言葉が素直にうれしくて、顔がほころんだ。
「ほんとう?」
奏ちゃんは愛おしいものをみるような表情をして、
「はなちゃんは花だから、花の色が似合うんだ」
と言った。
――はなちゃんは花だから。
胸のなかが、やさしいときめきでいっぱいになった。
「わたし、花?」
そうだよ、と笑って、奏ちゃんはわたしの髪をなでた。
「世界でいちばん可愛い花だ」
「じゃあ、奏ちゃんは蜜蜂だね」
奏ちゃんが吹きだした。
「おれ、そんな可愛い印象?」
くすくす笑いながら、わたしの頬にくちづけた。
水槽のなかで戯れる金魚みたいに、おたがいの頬に、ちいさなキスを繰りかえす。
「おれ、はなちゃんを抱けば抱くほどすきになっていく」
どうしたらいい? と困ったようにきかれて、わたしも困ってしまった。わたしだって、奏ちゃんに抱かれるたびにすきになっていくのだ。
「あしたはもっとすきになってるよ」
綺麗な瞳にみつめられると、いつも頬が熱くなる。
わたしは奏ちゃんのシャツをつかんで、くいくいと引っぱった。
「ん?」
「奏ちゃん、あのね」
「うん?」
「……わたしも」
か細い声でつたえると、奏ちゃんは穏やかに「ありがとう」と返して、顔を近づけてきた。わたしのくちびるに、やんわりとくちびるを押しあて、熱い舌を割りこませてくる。
甘くておいしい、果実のようなキス。
名残り惜しそうにくちびるを離すと、
「宇宙と一緒だな」
奏ちゃんは無邪気に笑った。
「この気持ちに果てなんかないんだ」
だいすきだよ、と囁いて、もう一度、とろけるようなキスをした。