◆祈りの指輪
談話室で、数学の宿題をはじめた。
おつむの弱いわたしは、つい奏ちゃんのノートを覗きこんでしまう。幼いころからの習性なのだ。
几帳面な奏ちゃんのノートは、どの科目も丁寧でわかりやすい。
「ねえねえ、応用問題の答」
「駄目」
みせて、の言葉をつめたく遮られて、わたしは憤慨した。
「けち! もうやだ、やりたくない、頭が痛い」
わたしにとって、数学は天敵なのだ。
「そんなに頭を使ってるふうにはみえないけど?」
「ひどい、頑張ってますよ」
「えー?」
奏ちゃんはくすくす笑いながら、わたしの教科書に公式を書きこんだ。
「あとは自分でやりな」
奏ちゃんは厳しかった。
わたしはノートのうえに頬を乗せて、ため息をついた。
「ほんとにわたしのことすきなの?」
「なに言ってるの、だいすきだよ」
普通にかえってきた言葉に、ぽうっとしてしまう。
「なに赤くなってるの」
「なってないもん」
わたしは姿勢を正した。
「なってるよ」
ふふっ、と微笑まれて、なおさら頬が火照る。
間がもたなくて、わたしは意味もなく消しゴムを転がした。
「石ころみたいだな」
奏ちゃんが、なにげなしに消しゴムをつまんだ。
「はなちゃんの消しゴム、こんなんだったっけ?」
不穏な空気にたじろいで、わたしはしらじらしく嘘をついた。
「うん、そんなのだったよ?」
違います、ほんとうは葛西くんの消しゴムです。
「嘘です、って顔に書いてありますよ?」
奏ちゃんは意地悪に笑いながら、消しゴムを鼻の下にあてた。
「はなちゃん? 苺の匂いがしませんよ?」
わたしは内心うろたえながら、奏ちゃんの瞳をみかえした。
「な、長年の使用によって、き、消えたんだと思……」
黒い瞳。
透きとおる。
夜の海のような。
「ごめんなさい……」
なにを履き違えていたのだろう。
近すぎてみえなくなっていたの?
わたしがちいさな嘘を重ねるたびに、奏ちゃんはがっかりしているのだ。そうしてわたしはすこしずつ、信用を失っていく。
「ごめんなさい……」
雑音が遠ざかる。
おおきな窓のむこう。にじむような水平線がみえる。
寂しいキスの味がした。
――嘘つき。
非難の声を、心で聴いた。
鼻腔をくすぐる甘い香りが、恋しさを誘ってやまない。
離れていくのを追いかけた。
歯と歯がぶつかった。
奏ちゃんはわたしの両肩をつかむと、そっと引き剥がした。
「大胆だな」
からかうように微笑されて、恥ずかしさがこみあげた。
奏ちゃんといると、わたしはおかしくなる。ふとしたきっかけで、気持ちが暴走してしまう。
わたしは上目づかいで奏ちゃんを窺った。
「怒ってないの?」
「怒ってないよ?」
奏ちゃんは穏やかに答えると、葛西くんの消しゴムを自分のそれと交換した。
「これはおれが使う」
宣言するなり、消しゴムに鉛筆の芯をぐさりと突き刺した。
「そ、奏一朗さん、怒ってますよね?」
「……葛藤だな」
奏ちゃんは、ぽつりと呟くと、消しゴムで教科書をこすった。
「おまじないかけてやる。この消しゴムを使いきるころには……」
「駄目!」
わたしは青くなった。呪いの言葉がつづく予感がしたのだ。
わたしは奏ちゃんの手を押さえて、ふるふるとかぶりをふった。
「駄目よ、駄目」
「大袈裟だな」
奏ちゃんは呆れたように吐息をついた。
「おまじないぐらいかけさせてよ。使いきるころには」
「奏ちゃん!」
「あいつは幸せになってる」
奏ちゃんは憮然としてそっぽを向いた。
「これでいい?」
投げやりなそぶりで、しかめた横顔がそれでも愛おしくみえる。
「こんな彼氏いないよな?」
拗ねたようにくちびるをとがらせる、そんなところはわたしとそっくりだ。
他人のようで、他人じゃない。
「奏ちゃん」
「なんだよ」
「だいすき」
「……うん」
やきもち焼きの恋人は、とうとう諦めたように頬をゆるめた。
本格的に冬がはじまっても、お父さんの具合いはよくならなかった。
病室に季節は関係ない。暖房のきいたあたたかい部屋で、わたしはお父さんと色々な話をした。
といっても、喋るのはわたしだけだ。
学校であったことや、仲のいい友達のことや、宿題が難しくて困ること。それからたまに、奏ちゃんのことなんかを。
お父さんは、穏やかに相槌をうちながら聴いているのだった。
いまだかつて、お父さんとこんなに話をしたことがあっただろうか。
傍からみれば滑稽かもしれない。けれどそこには、たしかに会話が成立していた。
いままでの空白を取りもどすかのような、濃密な時間だった。
たくさん喋りすぎると、お父さんは疲れてしまう。わたしは椅子に座って、ただ、時の流れゆくのを感じた。
逆らえないものがある。
〝いま〟はもう、一瞬後には〝過去〟になるのだ。過ぎた時間は、想い出となって心に積もっていく。
十二月の、あかるい日曜日。
窓硝子の水滴が、ビーズのようにきらきらしていた。
「罰だね」
唐突な呟きだった。
わたしは驚いてお父さんをみつめた。
「これは罰なんだね」
お父さんは、力なく微笑をうかべて繰りかえした。
わたしは戦慄した。うつくしく晴れた日曜日に、およそ似つかわしくない陰鬱さだった。
責めている。
おそらくもう、ずっと長いこと。お父さんは、自分自身を責めつづけているのだ。
目のまえで衰弱していく、この人を、わたしは憎んだことがある。
胸が痛い。
涙をこらえて、揺れる常緑樹をじっと見据えた。
寒空の下で、樹木はつよく生きている。すべての葉っぱに等しく陽射しがあたる、この世の仕組みに気づいてほしい。
「神さまは、罰なんか与えないんだよ」
わかってほしい。安心してほしい。
すべての人のうえに、音もなく、ひかりは降りそそいでいる。
罪も罰も。
そんな概念をつくったのは神さまじゃない。
人間のほうだ。
わたしは指輪を外した。
不死の象徴なんて彫られていない、ただのビーズの指輪だけれど。
お父さんのおおきな手をとって、太い小指にそれを嵌めた。
孤独を感じないように。寂しくならないように。
お父さんは抵抗もみせず、されるがままになっていた。おとなしく小指を眺めたのち、わたしに視線をうつすと。
愛してるよ、と、微笑んだ。
礼拝堂の絵画をみつめながら、わたしは左手の薬指をなでていた。
失くしたわけじゃない。
凍えるような空気が素肌に痛くて、両手をこすりあわせた。
奏ちゃんは、動物病院の雑用が終わってからこちらに来てくれる。
はやく会いたい。奏ちゃんがそばにいないと、わたしは安定して立つことができない。
「絵をみているの?」
突然、背後から話しかけられてわたしはちいさな悲鳴をあげた。
「あら、驚かせちゃった?」
ごめんなさいね? と看護婦さんは瓢々(ひょうひょう)と謝った。
蝋の匂いがする。彼女が捧げもった銀の燭台で、蝋燭の炎が煌々と揺れているのだ。
冬の風のなかを、どうやって火を消さずに来たのだろう。
びっくりして、まだ心臓がどきどきしていた。扉がひらく音も足音もしなかった。
おもわず、まじまじと眺めてしまう。
白い帽子に桃色のラインが二本。
婦長さんだろうか。卵形の綺麗な顔を、どこかでみたことがある気がする。
婦長さんは、にこりと笑ってわたしの視線にこたえると、燭台をうえに掲げた。
天使の油絵が、蝋燭の炎に照らされてぼうっとひかる。
「いい絵よね、アズラエル」
「アズラエル?」
「死を扱う天使よ」
婦長さんの横顔は、崇高なほどにうつくしかった。
絵をみつめたまま、婦長さんは言葉を紡いでいく。
「肉体と魂を切り離し、迷わないように導くのが仕事よ」
安心しなさい、と婦長さんはわたしをみた。曇りのない瞳に吸いこまれそうになる。
「悲しみはアズラエルに預けなさい。遺族を癒すのも彼の仕事だから」
凜と断言して、婦長さんはくるんと向きを変えた。
風のようにすれ違う。
「それは……」
乾いた呟きが落ちた。
それは、お父さんの死を覚悟しろということなの?
悲しみなのか怒りなのか、よくわからない感情が胸のなかに湧きおこった。やり場のない想いを抱えてふりかえる。
そこには、だれもいなかった。
壊れかけた扉の隙間から、木枯らしが吹きこんでくる。
わたしは茫然とするほかなかった。だれと話していたのだろう。
気がぬけて、ふらふらと床にへたりこんだ。
どのくらいの時間そうしていたのか、軋んだ音が聴こえて我にかえった。扉がひらいていくのを、わたしは救われた想いでみていた。
「やっぱりここだったか」
やわらかな陽射しのなかに、脳天気な笑顔をみた瞬間。
わたしは泣きながら駆けだしていた。
抱きついて泣きつづけるわたしを、奏ちゃんは無言であやしていた。
背中をさすってくれる心地よさに、すこしずつ落ちついてくる。やがて涙がとまるころになると、
「寒がりのくせに無防備だな」
紺色のマフラーを外して、わたしの首にぐるぐると巻いた。
奏ちゃんの匂いがする。
「女の子は体を冷やすもんじゃないよ」
奏ちゃんはそう言いながら、わたしの両手をとってくちびるに近づけた。冷気にさらされて赤らんだ指に、白い息をかけてあたためてくれる。
足もとを、木枯らしがつめたく通りすぎた。
奏ちゃんは毛糸の手袋を外すと、わたしの両手に嵌めて「可愛い」と笑った。
奏ちゃんの手袋はおおきくて、指の先がすこし余る。
あったかい。
両手をみつめてにぎにぎしていると、いたわるように頭をぽんぽんされた。
「おれ色に染まったな」
冗談めかした笑顔につられて、気持ちが軽くなる。
みあげた奏ちゃんの先には、まぶしい快晴の空があった。磨きぬかれたような碧さのなかで、冬鳥の群れがゆったりと、螺旋を描いていた。