◆カノープス
「振った男にプレゼントしたの!?」
奏ちゃんは、吃驚するなり咳きこんだ。おおきな匙を、満月オムライスに突きたてて涙ぐむ。
〝印象の森〟の窓辺で、奏ちゃんは心身ともに悶えていた。
「米、よそ、入った」
日本語がままならない外国の人みたいだ。
こんなに派手に反応されるとは思わなかった。わたしは太陽モンブランをつつきながら、上目づかいで「大丈夫?」ときいた。
奏ちゃんはひとしきり咳きこむと、
「こっちのせりふだよ、あたま大丈夫!?」
涙をうかべてわたしをみた。
「ひ、ひどい」
「なにが!?」
わたしが言葉をつまらせると、奏ちゃんは呆れたように嘆息した。
「どこまでお人好しなのかな、葛西に情なんか移して」
あーあ、と奏ちゃんは、片肘をたてて頬杖をついた。
「引きずるな、あいつ」
「だって」
わたしは深くうつむいた。
「だって?」
「わたし、奏ちゃんみたいに振り慣れてないもん」
もて慣れてもいない。
「そうきたか」
奏ちゃんは、黙りこくってオムライスを口に運んだ。
「底なしだね。晩ごはんも食べるんでしょ?」
「うん」
「おなか痛くならないの?」
「はなちゃんが心配でおなか痛くなる」
しん、と静けさにつつまれた。
いたたまれなくて、わたしはそわそわと視線をうごかした。
テーブルの端に、手づくり風の小冊子が立てかけてある。麻紐で留められただけの簡素なものだ。
わたしはそれをなにげなく手にとると、ぱらぱらとめくった。
「BGM解説集だって」
「へえ」
奏ちゃんが身を乗りだしてきた。急に距離が近くなると、それだけでどきどきする。
おりしも店内には、ドビュッシーの前奏曲集が流れていた。
悲しげな和音が、淡々と紡がれていく。
「暗いな」
奏ちゃんが顔をしかめた。
なんていう曲だよ、と呟くのをきいて、わたしは勝った気分になった。
「〝カノープス〟だよ」
奏ちゃんが、気持ち悪そうに体をひいてわたしをみた。
「よく覚えてるな」
「奏ちゃん、記憶力が衰えたんじゃないの?」
にやにやしながらからかうと、奏ちゃんはつんと横をむいた。
「数学の宿題、もう手伝ってやらないからな」
「ひどい!」
奏ちゃんがくすくす笑いだした。
「ひどいのはどっちだよ。おれの肌に印象派があわないだけなのに」
「すきじゃないの?」
「あんまり。ロマン派のほうがすきだな」
「奏ちゃんどろどろしてるもんね」
「……情感あふれる、って言ってよ」
わたしは無視して小冊子をめくった。
「はなちゃん? いまの話は終わったのかな?」
「カノープスって、なんの星座の星だったかしら?」
奏ちゃんは、白い目でわたしをみてきた。
「理科倶楽部のくせに」
「しかたないじゃない、奏ちゃんみたいに頭よくないんだもん」
「竜骨座のα星」
もちあげたのが効いたのか、奏ちゃんはすんなりとおしえてくれた。
竜骨座は冬の星座だ。この町では、南の低空にしかみることができない。
「カノープスをみたら寿命が伸びるらしいよ」
「なあに、それ」
「伝説。あの星って、ここらでは高度が低すぎてみるのが難しいから」
「ふうん。都合のいい伝説だね」
否定的な気分になるのは、音楽のせいだろうか。
暗い響き。まるで厳かな、行進のような。
「星の曲とは思えないな。貸して」
小冊子を奪われた。
奏ちゃんは該当する箇所をみつけると、すらすらと読みはじめた。
「カノープスは竜骨座のα星。天体ファンならだれでも知っている、シリウスの次にあかるい星だ。ギリシャ神話の世界に起きた、トロイア戦争で、船を率いた水先案内人を表している」
「きいたことある」
わたしの相槌に、奏ちゃんは笑みをかえした。
文面に視線を落としてつづける。
「しかしこの曲は、星を表現したものではない……?」
奏ちゃんは、訝しそうに首をかしげた。口をつぐんで、文章をすばやく目で追っている。
「なんて書いてあるの?」
奏ちゃんは、めずらしく戸惑いを露にした。
よけいに気になる。
「ねえ」
「知りたい?」
「もったいぶらないでよう」
「ただの解説だからな?」
「はやく読んで」
奏ちゃんは、やれやれといった表情をして、ふたたび冊子に視線をもどした。
「カノープス壺というものがある。これは古代エジプトで使われていた、ミイラ用の壺のことである」
「ミイラ……?」
奏ちゃんは、わたしの顔色をうかがいながら、読みあげていく。
「ミイラをつくる際、魂が宿るとされる心臓以外の臓器を、この壺に保存して埋葬するのだ。ドビュッシーが表現しているのは、この壺から呼び起こされる印象である。すなわち、葬儀の悲しみ、厳かな行進、墓場の静けさ……、大丈夫?」
片手で頬をつつまれた。
心配そうな瞳がみつめてくる。奏ちゃんは親指で、わたしの涙をそっとぬぐった。
「お父さん、元気になるよね?」
「なるよ。お見舞い行こうな」
病院にいる、お父さんのことを想うと胸がつまった。
ついこのまえ、ここで一緒に過ごしたのに。
奏ちゃんに頼ってばかりいたのだ。
溝を埋める努力をしていなかった。逃げてばかりいた。
もっと、ちゃんと向きあえばよかった。
おたがいに近づいていけるように、橋を架けてあげればよかった。
「どうしたの?」
唐突に、女の人が声をかけてきた。
いつから横に立っていたのだろう、足音にも気がつかなかった。
「泣かないで?」
綺麗な卵型の顔だった。
女の人は、長い髪をうしろでまとめて、天使みたいに微笑んでいた。
この店の白いエプロンを、腰に巻いている。初めてみる店員さんだった。
「ビーズの指輪を配ってるの。みてみて?」
店員さんはそう言って、星型の銀の容器をテーブルに置いた。色とりどりの指輪が、あふれそうなほど詰めこまれている。
「手づくりなの。彼氏、彼女に選んであげて?」
虚をつかれて固まっていた奏ちゃんは、急に話しかけられて狼狽をみせた。
「あ、じゃあ、これ……」
不思議そうな表情をしながらも、露草色の指輪をひとつ選んだ。
いいわよ、と店員さんはうれしそうに微笑むと、
「彼女に嵌めてあげてね」
笑顔で言い残して、すっとその場を離れた。
「あんな人いたっけ?」
「新しい店員さんじゃないの?」
わたしと奏ちゃんは、頭のうえに「?」をうかべて顔をみあわせた。
「どこから現れた?」
「わかんない。びっくりした」
なんとなく、気になってふりかえった。
現れたときとおなじように、店員さんは、忽然と姿を消していた。
左手の薬指に、ビーズの指輪を嵌めてもらった。露草色が照明に反射して、きらきらひかっている。
「ありがとう」
「うれしい?」
「うん」
「よかったな」
店内の音楽は、すでにあかるいものに変わっていた。
けれど、奏ちゃんの雰囲気がおかしい。艶のあるちいさな玉の連なりを、複雑な表情をしてなでつづけている。
「奏ちゃん」
「ん?」
もしかして、薬指の意味が重いの?
ほんとうは、指輪なんて嵌めたくなかった?
「あのね、ほかの指でもいいの、わたしは全然……」
うつむいて、「はずしてもいい」と消え入りそうな声で言った。
奏ちゃんが、はっと我にかえった。
「ごめん、違う、そうじゃない」
わたしの手の甲にてのひらをかぶせて、切羽つまったように言いつのった。
「すきだよ、だいすき、そんな顔するな」
「でも……」
「考えてたんだ」
わたしは顔をあげた。
奏ちゃんはテーブルに視線を落として、瞳を揺らしていた。
「偶然なのかな……」
いつになく心もとない声音で、ぽつぽつと言葉を継いだ。
「現存するいちばん古い指輪って、古代エジプトの墓で発見されてるんだよ。指輪にね、スカラベを彫ってた時代もあったんだ」
「スカラベ?」
「糞ころがし。不死の象徴の虫だよ」
それに、と奏ちゃんは、言葉を濁した。
ぎゅっとわたしの手を握ってくる、その手のうえに、わたしは自分の手をかさねた。
「なあに?」
奏ちゃんは、言いにくそうにまつげを伏せた。
「ビーズって、祈祷に使われてたものだから」
綺麗な顔が、不安そうに翳った。
「さすがに、気持ち悪いよ……」
暗示なのだろうか。
重なりすぎる偶然をまえにして、わたしは怯えていた。
薬品の匂い。
お父さんは眠っている。土気色の顔をして。
奏ちゃんが、無言でわたしの肩を抱いた。
――ごめん。
言葉にしなくてもわかる。
――不安にさせて、ごめん。
わたしは静かにかぶりをふった。
奏ちゃんだって、わたしとおなじ十六歳なのだ。
それに。
奏ちゃんは昔から、だれよりも怖がりだった。
つよさだけを求めてはいけない。奏ちゃんだって、脆さをみせたいときもある。
未完成の月。
十六夜のような、わたしたち。
奏ちゃんが、片手をポケットに差しこんでいた。
無意識なのかもしれない。お父さんの顔をじっとみながら、ポケットのなかを触っている。
「どうしたの?」
「あぁ、うん……」
奏ちゃんは恥ずかしそうに、ポケットから手をだした。
「お守り、つい触っちゃうんだよな」
「お守りを持ち歩いてるの?」
初耳だった。
十年も一緒にいるのに。わたしはまだ、奏ちゃんのすべてを知らないのだ。
「お守り、っていうか、石なんだけど」
歯切れ悪く、奏ちゃんはかえした。
「鉱石? みたい」
「だめ」
「どうして?」
「貴重な石だから」
真剣に拒まれて、わたしはしぶしぶ引きさがった。
黄昏時の病室は、泣きたくなるほど赤かった。
射しこむ夕陽が胸に迫る。
炎の色。
人はみな、みえない蝋燭をもって生まれるのだろうか。
長さが違うのか。
燃える勢いが違うのか。
――寿命。
それすらも、わたしたちは選んで生まれてくるのだろうか。
「カノープス……」
水平線のすれすれに、現れる伝説の星。
冬になっても、きっと、ここからではみえない。樹木が邪魔をして、ここからではみえないのだ。
拝みたくなる。
カマキリみたいに。
みたことのない神さまに、拝みたくなる。
扉があいた。
お母さんが、一輪挿しの花瓶をもって病室に入ってきた。ちいさな白い花を挿してある。
「みて、可愛いでしょう。婦長さんにいただいたのよ」
お母さんはうれしそうに、花瓶をテーブルに置いた。
花びらの一枚一枚に、黄色い斑点がふたつ。初めてみる、星の形の花だった。
「めずらしい。野花?」
「曙草ですって」
「秋の湿地に咲くんだよ」
奏ちゃんが補足した。
「花びらを夜明けまえの空に、班点を星に見立ててるんだよ」
「ふうん」
病室に、夜明けまえの星が咲いた。すこしだけ気が凪いだ。
お父さんは眠りつづけている。
夢をみているのだろうか。渇いたくちびるが、ときおりかすかにうごく。
大丈夫。
もうすぐ夜がくるけれど。ここには星がある。
大丈夫。
わたしはもう一度、自分にそう言いきかせた。