◆みえないもの
それから二日ほど、学校を休んだ。
ハロウィンを境に、町の空気はすこしずつ冬の香りをおびはじめていた。
放課後の清掃。
木造校舎のまわりに積もった枯れ葉を、熊手でかき集めていく。
掃除がはじまってからずっと、葛西くんがわたしの後についていた。
さりげないつもりだろうけれど、全然さりげなくない。熊手で地面をかきながら、物言いたげにわたしをちらちらと窺ってくる。
「あのさ……」
ようやく真面目に話しかけられて、わたしは顔をあげた。
「なあに?」
葛西くんは、いつになく困惑したような表情をしていた。言いにくそうに間をおくと、ぼそっと切りだした。
「気にすんなよ、俺が言ったこと」
きょとん、とわたしは葛西くんをみつめた。
「なんのこと?」
「蝶がどうとかいうあれ……」
葛西くんは、ばつが悪そうに言いよどんだ。
――秋に瑠璃色の蝶をみたら、年内に家族のだれかが死ぬって言うよな。
忘れていた、蝶の飛行が目にうかんだ。
瑠璃色の軌跡。
ただの偶然だったらいい。だけど。
意味のない出来事なんて、この世にあるの?
「や、ごめん、よけいなこと言ったっぽい?」
わたしはどんな顔をしていたのだろう。
葛西くんが慌てたように謝ってきた。わたしが休んでいるあいだに、お父さんのことを耳にしたのに違いない。
葛西くんは目をそらすと、わしゃわしゃと頭を掻いた。
「俺、気がきかねぇな……」
茶髪が絡まって、寝起きみたいに乱れた頭になった。
もともとは何色なのだろう。
細くて、まっすぐな髪の毛。なにもしなくても綺麗なはずなのに、どうして染めたりするのだろう。
「葛西くん」
「え?」
「どうして茶髪なの?」
掃除を再開しながらわたしがたずねると、葛西くんは渋い顔をした。
「変なこときくなよ」
「変じゃないよ。ねえ、どうして?」
葛西くんは、考えこむように黙ってしまった。
焼きいもができそうな、枯れた小山をふたりで築いた。
葛西くんがうすく笑った。
「自己主張ってとこ?」
俺って空気だから、と付けくわえた。
「空気? 透明なの?」
「まぁ、そんな感じ?」
葛西くんは自虐的だった。
「家でも学校でも、俺って空気な存在なんだよ」
気配がなくて、いるのかいないのかわからない。だれにも目をとめてもらえない。
「寂しいから?」
だから不良ぶって目立とうとしているの?
「俺に興味があるわけ?」
期待しちゃうじゃん、と葛西くんはにやけた。
「あんまり踏みこんでくんなよ。あいつに怒られるんじゃね?」
無神経。
暗にそう言われたような気がした。
「ごめんなさい……」
うつむいた足もとに、緑色のカマキリをみてわたしは悲鳴をあげた。
「虫!」
飛びのいた勢いで足がもつれた。危うく転びかけたところを、葛西くんに抱きとめられた。
「驚かすなよ!」
びっくりして状況がきちんと判断できない。
わたしは葛西くんに支えられたまま、カマキリをふりかえった。
気持ち悪い。
おおきな鎌をぶらさげて、まるで死に神みたいだ。
「なんだよ、拝み虫じゃん」
頭のうえから、ほっとしたような声が降ってきた。
「拝み虫?」
初めて聞くなまえ。
葛西くんの落ちつきが伝染して、わたしはひと息ついた。
「死んだ婆ちゃんが言ってたんだよ」
葛西くんは簡単に、由来を説明してくれた。
カマキリは、胸のまえで鎌をこすりあわせるようにして立つ。その姿が拝んでいるようにみえるから、昔の人は拝み虫と呼んだ。
「なにを拝んでんだか。神さまなんているわけねぇのに」
馬鹿だよな、と葛西くんは笑った。
かき集めた枯れ葉が散っていく。
抱きとめられていることに、いまさらどきどきしてきた。
「葛西くん、あの、ありがとう」
離して、の意味をこめて言ってみた。けれど葛西くんは、腕をゆるめてくれない。
「だれかにみられたら噂になるな」
そんなことを、冗談まじりに囁いてくる。
困ってしまう。
「葛西くん」
「わかってるよ」
葛西くんは、ぐっ、と腕に力をいれると、
「あいつがうらやましいな」
ちいさな呟きを漏らして、わたしを離した。
顔がほかほかする。
腕をふりはらえない、自分がいやになる。
奏ちゃんのそばに行きたい。
風に吹かれて小山が崩れていく。いくら枯れ葉を集めても、これでは意味がない。
わたしはため息をついた。
清掃をあきらめて、砂の地面に熊手でもようを描く。
「葛西くんは、神さまを信じてないの?」
いつのまにか、カマキリはいなくなっていた。
「そんなもん、信じられるかよ」
葛西くんが呆れたようにかえした。
「どうして?」
「みたことねぇもん」
いたって単純な理屈だった。
「みえたら信じるの?」
「まあな」
神さまは、どんな姿をしているのか。
目でたしかめてみないことには信じられない、と彼は言う。
ピアノの音色が聴こえてきた。しっとりと艶のある旋律が、風に運ばれてくる。
「またあの曲か」
葛西くんの髪が、さらりとなびいた。
瞬間、ざあっ、と音をたてて枯れ葉が舞いあがった。
旋律がかき消えて、スカートがはたはたと翻る。枯れ葉が地面をすべりながら、池のほうまでさらわれていく。
風の力。
透明な、目にはみえないものの姿。
ゆらゆらと、砂煙が漂う。
「すげぇ風だな」
葛西くんが、目を細めながら言った。
風がやってくる方角へ、自然に顔がむくのはどうしてだろう。
「風も、目にはみえないよ?」
言葉が口をついた。
「え?」
葛西くんが、怪訝そうな顔をした。
どこか頼りない琥珀色の瞳を、わたしはまっすぐにみつめかえした。
「風だって透明でみえないよ? なのに、どうしてそれがあることは信じられるの?」
葛西くんの目が、わずかにみひらかれた。視線をあわせたまま、わたしは問いかけた。
「ねえ、何色にみえる?」
みえないものが、たしかに存在するならば。
わたしたちはきっと、その姿を捉えられるはずなのだ。
「葛西くんは、何色にみえるの?」
赤い枯れ葉が渦を巻く。
瞬間の芸術。
透明な風のなかに、生きた絵画がある。
「わたしはね、赤にみえるの。葛西くんは?」
ふりむいたときには、つよく抱きしめられていた。
「すきだ……」
初めての、告白だった。
「すきだ、すきなんだ……」
絞りだすような、声、だった。
わたしの髪を、葛西くんはつかむようにしてなでてくる。
「だめ、離して」
声が震えた。
迫ってくる気持ちがあまりにも熱くて、怖くなってくる。
「葛西くん」
「俺をすきになる可能性は、すこしもない?」
せつなくきかれて胸がつまった。
わたしをすきになってくれた男の子。たったいま、はっきりとした告白をもらった。
だけどわたしは、その気持ちに応えられない。
「わたしは、奏ちゃんがすきだから」
「俺、大事にするよ、それでも?」
「うん」
「一ミリも、期待したら駄目?」
「……うん」
涙がうかんだ。
生まれて初めて、〝振る〟ことの痛みを知った。
「そっか。そうだよな」
葛西くんは寂しげに呟くと、そっと腕を離した。おたがいに、赤く染まった顔をそむけた。
「ごめんな、俺、抑えがきかなくて」
わたしはうつむいた。
「葛西くんには、わたしじゃないと思うの」
言葉を選びながら、つづける。
「葛西くんにぴったりな女の子、ほかにいるから」
そうだな、と葛西くんは肩をすくめた。
「俺みたいなの、おまえには不釣合いだもんな」
「そういう意味じゃなくて……」
わたしは栞ちゃんの笑顔を思いうかべた。
「葛西くんのこと、想ってる女の子がちゃんといるから」
「慰めなんかいらねぇよ」
「慰めじゃないよ」
「いるわけねぇだろ、そんな酔狂な女」
葛西くんは、苦笑しながら全否定した。
「俺みたいな男、だれもみてねぇよ」
自分自身を鼻で笑う。
葛西くんは、自分の存在価値を信じていない。
悲しくなってくる。
渇いた心。まるで砂漠みたいな。
唐突に思いだして、わたしはポケットに手をつっこんだ。
砂漠のバラを取りだすと、
「あげる」
葛西くんのまえに突きだした。
「なんだそれ?」
葛西くんは石をうけとると、不思議そうに観察した。
「砂漠のバラ?」
「知ってるの?」
「いちおう。図鑑でみたことあるし」
てのひらのうえで、石をころころと転がす。
「砂漠のバラってね、持ち主を幸せにしてくれるんだって」
わたしは得意になって言った。
「だから葛西くんにあげる」
「おまえは? いらねぇの?」
遠慮がちにきかれて、わたしはうなずいた。
「いらないの。わたしは幸せだから」
葛西くんの顔が、つらそうに歪んだ。
「やっぱり釣り合わねぇな」
自嘲ぎみにひとりごちると、石を握りしめた。
さっきのつよい風が嘘みたいだった。いまは空気が凪いで、池の水音さえ聴こえる。
不意に、木造校舎の角からクラスメートが顔をだした。
「草野さん、清掃おわりにするわよ」
クラスメートは、わたしと葛西くんを交互にみとめると微苦笑した。
「いらない噂がたっても知らないわよ」
軽い忠告をして、「じゃあね」と踵をかえした。
葛西くんが、わたしから熊手を取りあげた。
「俺が片づけといてやるよ」
自分のそれと一緒に、楽々と片手で柄をつかんで背中をむけた。
「早くあいつのとこに行けよ」
「葛西くん」
ごめんね、と言いかけたのを遮るように、葛西くんは肩越しにふりかえった。
「石、ありがとな」
照れくさそうに笑って、けれどすぐに視線をはずした。
うしろ姿が遠ざかる。
葛西くんは、もう、ふりかえらなかった。
昇降口に奏ちゃんの姿をみつけて、わたしはたまらず駆け寄った。
「奏ちゃん!」
呼びかけると、笑顔で応えてくれる。
抱きつきたい衝動をぐっとこらえて、かわりに学ランの裾をつまんだ。
「待ってたの?」
息を弾ませてたずねると、
「待ってたよ。清掃ずいぶん頑張ってたんだな」
お疲れさま、と鞄を手渡された。
「宮内先生、会議だってさ」
「倶楽部は?」
「なし。あの人ほんと適当だよな」
言い終わるなり奏ちゃんは、わたしの頭を片腕にくるんだ。
「デートしようか」
甘い声なのに、なんとなく強制的な響きがある。
「デ、デート?」
気圧されて、おもわずどもってしまった。
もしや、葛西くんとのあいだにあったことを見抜かれているのだろうか。
わたしは内心うろたえた。
知られたくない。だって奏ちゃん、なにするかわからないんだもの。
「はなちゃん」
意味深な流し目に、どきっとした。
「なんかあったろ?」
「なにも?」
わたしは平静を装って、かぶりをふった。我ながらしらじらしい。
「ふうん」
探るようにみつめてくる瞳を、わたしは頑張ってみつめかえした。
緊張する。逃げたい……。
「あったな?」
「ないよ」
「信じてもいいの?」
「いいよ?」
声がうわずった。
とたん、奏ちゃんが噴きだした。
「わかりやすいな」
呆れ半分、おもしろ半分。そんな笑いかたをしながら、わたしのひたいに軽くデコピンした。
「ひ、ひどい」
「おれの勝ち。隠すならもっとうまくやりな?」
おかしそうに笑いつづけながら、奏ちゃんは強引にわたしの手をひいていく。
「どうしてわかったの?」
「さあ? どうしてだと思う?」
余裕ぶりが悔しくて、わたしはくちびるをとがらせた。
「わかんない」
「拗ねるなよ」
「意地悪なんだもん」
奏ちゃんは、さすがにわたしの扱いをよく知っている。ちら、と横目でわたしを一瞥して、歯の浮くようなせりふを言った。
「拗ねた顔も可愛いからすきだよ」
甘い言葉。
これが聴きたくて、わたしは拗ねてしまうのかもしれない。
愛されたいばっかりの子ども。
つきあいが深まれば深まるほど、わたしは、わがままになっていく気がする。