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続*虹を架ける人  作者: 城 マリカ
16/24

◆月子

 奏ちゃんが囁いたなまえを、わたしは頭のなかで繰りかえしていた。

 月子。

 初めて聴くなまえ。

 だれ?

 胸のなかに、黒いものが渦巻いていく。わたしは奏ちゃんを叩き起こさずにいられなかった。

「奏ちゃん」

 抱きこんでくる腕をほどいて起きあがる。

「ねえ、奏ちゃん」

 肩をつかんで揺さぶると、

「え? 地震?」

 奏ちゃんはとぼけた反応とともに目を醒ました。

 どうしたの、と呑気にきかれて悲しくなる。わたしはすすり泣いた。

「え、ちょっと、なにがあった?」

 目をこすっていた奏ちゃんが、ぎょっとした顔で詰めよってきた。

 わたしは枕をつかんだ。

「女たらし」

 非難して、力まかせに投げつけた。

 奏ちゃんはそれを両手に受けとめると、ぽかんとしてわたしをみた。

「何の話?」

 ひどい、とわたしは泣きながら奏ちゃんを責めた。

「月子って呼んだ」

「え!?」

「わたしのこと、月子って呼んだ」

「ちょっと待って」

「わたし月子じゃないよ、はなだよ」

 奏ちゃんが慌てたように枕を放った。

「はなちゃん」

 腕をつかんでくるのをふりはらう。

「いやよ触らないで」

「きいて」

「いや」

「きけって」

「いや!」

「きけよ!」

 体がすくんだ。

 ぽたぽたと涙をこぼすわたしに、奏ちゃんは即座に謝った。

「ごめん」

「月子は、胸がおおきいの?」

「……待て。なんでそうなる」

 みたこともない月子に、わたしは嫉妬していた。

 よほど魅力的な女の子なのに違いないのだ。奏ちゃんが、寝言でなまえを呼んでしまうほどなのだから。

「わたしの胸がちいさいから月子に走ったの?」

 それとも、とわたしは泣きつづけた。

「月子は、忘れられない初恋の人なの?」

 奏ちゃんが噴きだした。

「はなちゃん、月子は人間じゃないから」

 わたしは顔をあげた。

「え?」

「猫だよ」

 照れたように苦笑して、奏ちゃんは月子の正体をあかした。

「林に黒猫がいただろ」

 暗闇のなか、金色にひかる眼を思いだした。まるで月の欠片みたいな。

 月子。

 奏ちゃんは野良猫に、ひそかになまえをつけていたのだ。

 嫉妬が消えていく。

 ゆるゆると、胸に安堵がひろがっていく。

「安心した?」

 わたしはうなずいて、すん、と鼻をすすりあげた。

「あぁもう、世話の焼ける」

 奏ちゃんはわたしを抱きよせると、背中をぽんぽんと叩いた。

「なに言いだすのかと思ったら」

 くすくす笑う。

「胸のおおきさ気にしてたの?」

 奏ちゃんは、わたしの胸を片手でつつみこんだ。

「おれにとっては完璧だよ?」

「ほんとう?」

 緊張がとけてほっとしたせいか、頭がくらくらする。わたしは奏ちゃんの体に腕を巻きつけた。

 月子が人間じゃなくてよかった。

 奏ちゃんがわたし以外の女の子を抱くなんて、考えただけで苦しくなってくる。

「うたぐり深いな、はなちゃんは」

 奏ちゃんは、やんわりとわたしを咎めた。

「胸なんて、ぺちゃんこでもいいぐらいだよ」

 両手でわたしの頬を挟んで、ちいさなキスをする。

「あれ?」

 つと、奏ちゃんは怪訝そうに首をかしげた。片方のてのひらを、わたしのおでこにあてがう。

「はなちゃん」

 もう片方のてのひらを自分のおでこにあてて、厳しい顔をした。

「熱がある……」


 そこから先のことは、おぼろげにしか覚えていない。

 気づけば頭の下には氷枕があって、パジャマも新しいものに替わっていた。

 夜明けまえの、ほの暗い部屋。

 奏ちゃんがベッド脇の床に座って、心配そうにわたしをのぞきこんでいた。

「大丈夫?」

「ずっと、そこにいてくれたの?」

 奏ちゃんは、あたりまえのように微笑んだ。

「ごめんね」

「はなちゃん、ごめんねじゃないだろ」

「……ありがとう」

 かすれた声しかでてこない。

 心労かな、と言って、奏ちゃんはわたしの頭をなでた。みつめてくる瞳に、愛情がにじんでみえる。

 もぞもぞと寝返りをうった。

 頭が重たくて、吐く息まで熱い。

 氷枕に頬を押しあてると、ひんやりして気持ちがいい。

「寝顔みてたよ」

 奏ちゃんが、静かに話しかけてきた。

「可愛かった」

 甘やかに微笑をたたえた。

 わたしは申し訳なくて、目をそらしてしまった。こんなに一途に想われているのに。

「女たらしって、言っちゃって、ごめんなさい」

「うれしかったよ」

 奏ちゃんは、表情を変えもせずにさらりと言った。

「あんなに妬いてくれて、うれしかった」

 わたしの頬に、つめたい手の甲をあてがった。

「さっきより下がったかな」

「奏ちゃん、冷えてるんじゃないの?」

 わたしは奏ちゃんの手を両手でつつみこんだ。

 冷えきっている。

 もう十一月だ。深夜から朝にかけて、パジャマだけでは寒いに決まっている。

「おれのことはいいから」

「でも」

「思いだすよな」

 唐突に、奏ちゃんは昔を懐かしむような顔をした。

「はなちゃん、おれが寝こんだら毎日でもお見舞いに来てくれてたもんな」

 喋りながら奏ちゃんは、わたしの両手を布団のなかに納めた。

「いつのまに立場が逆転したんだろうな」

 ふふっ、と笑って、わたしの前髪を指でもてあそぶ。

「寝てもいいよ。おれがついててあげるから安心しな」

 おでこをかすめる、つめたい指が心地いい。

 目を閉じた。

 暗闇と幻想。さっきみた、瑠璃の惑星がおおきく迫ってくる。

「どした?」

 眠れそうになくて。

 鮮やかなあの光景を、ふたりで分かちあいたく思った。

「夢をみたの」

 訥々(とつとつ)と、わたしは話した。

 宇宙の闇に浮かんでいたこと。

 地球をみおろしていたこと。

 愛おしくて、抱きしめたくなったこと。

 涙がでるほどに、守りたいと思ったこと。

「夢なんて思えないくらい、綺麗だったの」

 わたしの話をきいて奏ちゃんは、なんでもないことのように眉をあげた。

「神さまの視点なんじゃないの?」

 理解できなくてまばたきをするわたしに、奏ちゃんは説明した。

「はなちゃんは、神さまとおなじ目で地球をみたんだよ」

 不可思議だった。

 ほんとうに?

 神さまは、あんなふうに地球をみているのだろうか。

 そこに生きるわたしたちのことも、ただ愛おしく想って?

「けっこう壮大だよな、おれの思想」

 自分が言ったことに感心したのか、奏ちゃんは得意げに口端をあげた。

「思想……」

 礼拝堂でのひとときを思いかえした。

 精神は宇宙と一緒だと、奏ちゃんはおしえてくれた。だから神さまは、心のなかにいるのだと。

 それが真実なら、ほんとうは、だれもが神さまと一体なのだ。

 わたしは想像した。

 ハロウィンの夜の神聖な儀式。

 町じゅうのかまどの火が、ひとつの燃えさしから生まれるように。

 すべての人々は、神さまの子どもなのかもしれない。


 ――神さまは、罰なんかあたえない。


 礼拝堂で導きだした答に、いまさら確信がもてた。

 神さまにとって、わたしたちは最愛の我が子なのだから。

 正しいとか、間違っているとかではなかった。真実とか偽りとか、そんなこともどうでもよかった。

 ただ、信じたいことを信じたかった。

「理屈は邪魔になるだけだよ」

 奏ちゃんが、ベッドの端に頬杖をついた。柔和な輪郭を、てのひらにつつみこんで微笑した。

「心が満たされるほうを選べばいい、それだけの話だよ」

 黒目がちの瞳がきらきらしている。

 十六歳なのだ、と思った。

 大人びているようでも、まだ完全ではない。ときどき垣間みえるあどけなさに、わたしはどこか安心している。

 すき。

 わたしはそろりと指をのばして、奏ちゃんの前髪に触れた。

「追いかけたくなるの」

 手の届く場所に、恋しい人がいてくれる、奇跡と幸福を想う。

 奏ちゃんは両手で頬杖をついたまま、わたしをみていた。子鹿みたいに、純粋なまなざしで。

「可愛い、って、言ってもいい?」

 いいよ、と奏ちゃんは顔をほころばせた。

「追っかけてよ。微妙に逃げてあげるから」

「ひどい」

「なんだよ、いつまでおれに追っかけさせる気?」

 ちょん、とわたしの鼻をつまんだ。

「ひ、ひどい」

「可愛さ余って憎さ百倍なんだよ」

 だいすき、と言って無邪気に笑った。

 わけがわからない。

「やだもう、ついていけない」

「ついてきてよ」

 あたたかな笑い声が満ちた。

 いつしかカーテンの隙間から、霞のような白いひかりが漏れはじめていた。

 奏ちゃんは甘えたくなるような、やさしい面差しでわたしをみつめた。

「なにか食べる?」

 見惚れて頭がぼんやりしてしまう。うっとりしたまま、わたしはうなずいた。

「きのうのかぼちゃスープとミルク粥、どっちがいい?」

「ミルク粥……」

「わかった」

 奏ちゃんは晴れやかな顔をして立ちあがると、

「作ってきたげるから待ってな」

 朝から覇気をみなぎらせて、嬉々と部屋をでていった。


 ほのかなミルクの匂いで目が醒めた。

 ぼやけた視界に、長身の影が揺らいでみえる。

「起きられる?」

 お盆をもった奏ちゃんが、心配そうにみおろしていた。

 また会えてうれしい。

 微笑みながらうなずいて、わたしはそろそろと起きあがった。

 あくびがでる。

 涙のにじんだ目をこすっているうちに、意識がはっきりしてきた。

 薄手のセーターに着替えた奏ちゃんは、朝から麗しかった。あまり寝ていないはずなのに、肌も髪もつやつやと潤いがある。

 奏ちゃんは、優雅な仕草でベッドの端に腰かけると、

「おはよ、姫」

 本気とも冗談ともとれないような挨拶をして、お盆をわたしの膝のうえに乗せた。

 朝のつめたい空気がふわりと香った。

「いい匂い」

 ちいさな土鍋から、ゆらゆらと湯気が立ちのぼっている。純白のお粥のうえに、いくつかの赤い飾りがうつくしい。

「クコの実?」

「そう。おれの家から持ってきた」

 奏ちゃんはいたずらそうに答えると、さじを手にしてにっこりした。

「冷ましたげる」

 どういうわけか楽しそうに、お粥をすくいあげた。

 繊細そうなまつげを伏せると、

「こういうの憧れてたんだよな」

 紅色のくちびるをとがらせて、ふうふう息を吹きかけはじめた。

「薬膳粥みたいだね」

「そうかも」

 奏ちゃんはまつげをあげて、匙をわたしの口にいれた。

 なにを想って煮つめてくれたのだろう。奏ちゃんの手づくりのお粥は、とろりと滑らかで甘みがあった。

「おいし?」

「おいしい」

「よかったな」

 大人びた笑みをうかべながら、奏ちゃんは新しくお粥をすくった。ふうふうしては、匙をわたしの口に運んでくれる。

 鳥の雛になったような気分だった。

 クコの実の味がよくわからなくて、わたしは首をかしげた。

 ふにふにする生薬だ。

 特別おいしくはないけれど、まずくもない。

 わたしのちょっとした変化を、奏ちゃんは見逃さなかった。

「クコの実きらい?」

 気遣わしげにきかれて、わたしは慌ててかぶりをふった。

「体にいいんでしょう?」

 お粥を匙でかき集めながら、奏ちゃんは豆知識を披露した。

「美肌と精神の強壮に効果的。でも妊娠中は食べないほうがいいらしいよ」

「どうして?」

「人工妊娠中絶剤とおなじ成分が含まれてるから」

 奏ちゃんは事もなげに恐ろしいことを言って、最後のひとくちをわたしに与えた。

「はなちゃんって、よく食べる子だよな」

 あらためて感嘆されると、なんだか恥ずかしくなってくる。

「おかしい?」

「全然。みてて気持ちがいいよ」

 ぶくぶく太りなさい、と寛容な笑顔をみせた。

「のんびりしてな。おれ洗濯してくるから」

 奏ちゃんは溌剌はつらつとしていた。

 お盆を取りあげようとする、男らしい手をわたしは衝動的につかんだ。

「ん?」

 なにがしたくてそうしたのか、自分でもよくわからない。たぶん、とぼけた顔をしていたと思う。

 おおきな手をてのひらでつつみこんで、とりあえず揉みもみしてみた。

「なになに、ねぎらってくれてるの?」

 奏ちゃんがくすくす笑いだした。

 カーテン越しに、すずめの可愛らしい鳴き声が聴こえてくる。

 幸せだと思う。

 朝陽の射しこむ部屋に、だいすきな恋人の姿がある。

「初めてだね」

 初めて、一緒に朝を迎えた。

「すきよ……」

 穏やかな沈黙につつまれた。

 わたしは頬を火照らせて、奏ちゃんの手をつよく握った。

「すき」

 甘い香りが漂う。

「もうすこし、一緒にいようか」

 奏ちゃんはベッドの端に座りなおすと。細い腰をひねって、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 冬のはじまりの朝。

 目を閉じて、待ちわびたくちびるを受けとめる。

「だいすきだ」

 吐息まじりに囁きながら、奏ちゃんは何度もくちづけてくる。

 やさしくて、あたたかくて。

 それは心にあかりを点すような、いたわりのキスだった。


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