◆月子
奏ちゃんが囁いたなまえを、わたしは頭のなかで繰りかえしていた。
月子。
初めて聴くなまえ。
だれ?
胸のなかに、黒いものが渦巻いていく。わたしは奏ちゃんを叩き起こさずにいられなかった。
「奏ちゃん」
抱きこんでくる腕をほどいて起きあがる。
「ねえ、奏ちゃん」
肩をつかんで揺さぶると、
「え? 地震?」
奏ちゃんはとぼけた反応とともに目を醒ました。
どうしたの、と呑気にきかれて悲しくなる。わたしはすすり泣いた。
「え、ちょっと、なにがあった?」
目をこすっていた奏ちゃんが、ぎょっとした顔で詰めよってきた。
わたしは枕をつかんだ。
「女たらし」
非難して、力まかせに投げつけた。
奏ちゃんはそれを両手に受けとめると、ぽかんとしてわたしをみた。
「何の話?」
ひどい、とわたしは泣きながら奏ちゃんを責めた。
「月子って呼んだ」
「え!?」
「わたしのこと、月子って呼んだ」
「ちょっと待って」
「わたし月子じゃないよ、はなだよ」
奏ちゃんが慌てたように枕を放った。
「はなちゃん」
腕をつかんでくるのをふりはらう。
「いやよ触らないで」
「きいて」
「いや」
「きけって」
「いや!」
「きけよ!」
体がすくんだ。
ぽたぽたと涙をこぼすわたしに、奏ちゃんは即座に謝った。
「ごめん」
「月子は、胸がおおきいの?」
「……待て。なんでそうなる」
みたこともない月子に、わたしは嫉妬していた。
よほど魅力的な女の子なのに違いないのだ。奏ちゃんが、寝言でなまえを呼んでしまうほどなのだから。
「わたしの胸がちいさいから月子に走ったの?」
それとも、とわたしは泣きつづけた。
「月子は、忘れられない初恋の人なの?」
奏ちゃんが噴きだした。
「はなちゃん、月子は人間じゃないから」
わたしは顔をあげた。
「え?」
「猫だよ」
照れたように苦笑して、奏ちゃんは月子の正体をあかした。
「林に黒猫がいただろ」
暗闇のなか、金色にひかる眼を思いだした。まるで月の欠片みたいな。
月子。
奏ちゃんは野良猫に、ひそかになまえをつけていたのだ。
嫉妬が消えていく。
ゆるゆると、胸に安堵がひろがっていく。
「安心した?」
わたしはうなずいて、すん、と鼻をすすりあげた。
「あぁもう、世話の焼ける」
奏ちゃんはわたしを抱きよせると、背中をぽんぽんと叩いた。
「なに言いだすのかと思ったら」
くすくす笑う。
「胸のおおきさ気にしてたの?」
奏ちゃんは、わたしの胸を片手でつつみこんだ。
「おれにとっては完璧だよ?」
「ほんとう?」
緊張がとけてほっとしたせいか、頭がくらくらする。わたしは奏ちゃんの体に腕を巻きつけた。
月子が人間じゃなくてよかった。
奏ちゃんがわたし以外の女の子を抱くなんて、考えただけで苦しくなってくる。
「うたぐり深いな、はなちゃんは」
奏ちゃんは、やんわりとわたしを咎めた。
「胸なんて、ぺちゃんこでもいいぐらいだよ」
両手でわたしの頬を挟んで、ちいさなキスをする。
「あれ?」
つと、奏ちゃんは怪訝そうに首をかしげた。片方のてのひらを、わたしのおでこにあてがう。
「はなちゃん」
もう片方のてのひらを自分のおでこにあてて、厳しい顔をした。
「熱がある……」
そこから先のことは、おぼろげにしか覚えていない。
気づけば頭の下には氷枕があって、パジャマも新しいものに替わっていた。
夜明けまえの、ほの暗い部屋。
奏ちゃんがベッド脇の床に座って、心配そうにわたしをのぞきこんでいた。
「大丈夫?」
「ずっと、そこにいてくれたの?」
奏ちゃんは、あたりまえのように微笑んだ。
「ごめんね」
「はなちゃん、ごめんねじゃないだろ」
「……ありがとう」
かすれた声しかでてこない。
心労かな、と言って、奏ちゃんはわたしの頭をなでた。みつめてくる瞳に、愛情がにじんでみえる。
もぞもぞと寝返りをうった。
頭が重たくて、吐く息まで熱い。
氷枕に頬を押しあてると、ひんやりして気持ちがいい。
「寝顔みてたよ」
奏ちゃんが、静かに話しかけてきた。
「可愛かった」
甘やかに微笑をたたえた。
わたしは申し訳なくて、目をそらしてしまった。こんなに一途に想われているのに。
「女たらしって、言っちゃって、ごめんなさい」
「うれしかったよ」
奏ちゃんは、表情を変えもせずにさらりと言った。
「あんなに妬いてくれて、うれしかった」
わたしの頬に、つめたい手の甲をあてがった。
「さっきより下がったかな」
「奏ちゃん、冷えてるんじゃないの?」
わたしは奏ちゃんの手を両手でつつみこんだ。
冷えきっている。
もう十一月だ。深夜から朝にかけて、パジャマだけでは寒いに決まっている。
「おれのことはいいから」
「でも」
「思いだすよな」
唐突に、奏ちゃんは昔を懐かしむような顔をした。
「はなちゃん、おれが寝こんだら毎日でもお見舞いに来てくれてたもんな」
喋りながら奏ちゃんは、わたしの両手を布団のなかに納めた。
「いつのまに立場が逆転したんだろうな」
ふふっ、と笑って、わたしの前髪を指でもてあそぶ。
「寝てもいいよ。おれがついててあげるから安心しな」
おでこをかすめる、つめたい指が心地いい。
目を閉じた。
暗闇と幻想。さっきみた、瑠璃の惑星がおおきく迫ってくる。
「どした?」
眠れそうになくて。
鮮やかなあの光景を、ふたりで分かちあいたく思った。
「夢をみたの」
訥々(とつとつ)と、わたしは話した。
宇宙の闇に浮かんでいたこと。
地球をみおろしていたこと。
愛おしくて、抱きしめたくなったこと。
涙がでるほどに、守りたいと思ったこと。
「夢なんて思えないくらい、綺麗だったの」
わたしの話をきいて奏ちゃんは、なんでもないことのように眉をあげた。
「神さまの視点なんじゃないの?」
理解できなくてまばたきをするわたしに、奏ちゃんは説明した。
「はなちゃんは、神さまとおなじ目で地球をみたんだよ」
不可思議だった。
ほんとうに?
神さまは、あんなふうに地球をみているのだろうか。
そこに生きるわたしたちのことも、ただ愛おしく想って?
「けっこう壮大だよな、おれの思想」
自分が言ったことに感心したのか、奏ちゃんは得意げに口端をあげた。
「思想……」
礼拝堂でのひとときを思いかえした。
精神は宇宙と一緒だと、奏ちゃんはおしえてくれた。だから神さまは、心のなかにいるのだと。
それが真実なら、ほんとうは、だれもが神さまと一体なのだ。
わたしは想像した。
ハロウィンの夜の神聖な儀式。
町じゅうのかまどの火が、ひとつの燃えさしから生まれるように。
すべての人々は、神さまの子どもなのかもしれない。
――神さまは、罰なんかあたえない。
礼拝堂で導きだした答に、いまさら確信がもてた。
神さまにとって、わたしたちは最愛の我が子なのだから。
正しいとか、間違っているとかではなかった。真実とか偽りとか、そんなこともどうでもよかった。
ただ、信じたいことを信じたかった。
「理屈は邪魔になるだけだよ」
奏ちゃんが、ベッドの端に頬杖をついた。柔和な輪郭を、てのひらにつつみこんで微笑した。
「心が満たされるほうを選べばいい、それだけの話だよ」
黒目がちの瞳がきらきらしている。
十六歳なのだ、と思った。
大人びているようでも、まだ完全ではない。ときどき垣間みえるあどけなさに、わたしはどこか安心している。
すき。
わたしはそろりと指をのばして、奏ちゃんの前髪に触れた。
「追いかけたくなるの」
手の届く場所に、恋しい人がいてくれる、奇跡と幸福を想う。
奏ちゃんは両手で頬杖をついたまま、わたしをみていた。子鹿みたいに、純粋なまなざしで。
「可愛い、って、言ってもいい?」
いいよ、と奏ちゃんは顔をほころばせた。
「追っかけてよ。微妙に逃げてあげるから」
「ひどい」
「なんだよ、いつまでおれに追っかけさせる気?」
ちょん、とわたしの鼻をつまんだ。
「ひ、ひどい」
「可愛さ余って憎さ百倍なんだよ」
だいすき、と言って無邪気に笑った。
わけがわからない。
「やだもう、ついていけない」
「ついてきてよ」
あたたかな笑い声が満ちた。
いつしかカーテンの隙間から、霞のような白いひかりが漏れはじめていた。
奏ちゃんは甘えたくなるような、やさしい面差しでわたしをみつめた。
「なにか食べる?」
見惚れて頭がぼんやりしてしまう。うっとりしたまま、わたしはうなずいた。
「きのうのかぼちゃスープとミルク粥、どっちがいい?」
「ミルク粥……」
「わかった」
奏ちゃんは晴れやかな顔をして立ちあがると、
「作ってきたげるから待ってな」
朝から覇気をみなぎらせて、嬉々と部屋をでていった。
ほのかなミルクの匂いで目が醒めた。
ぼやけた視界に、長身の影が揺らいでみえる。
「起きられる?」
お盆をもった奏ちゃんが、心配そうにみおろしていた。
また会えてうれしい。
微笑みながらうなずいて、わたしはそろそろと起きあがった。
あくびがでる。
涙のにじんだ目をこすっているうちに、意識がはっきりしてきた。
薄手のセーターに着替えた奏ちゃんは、朝から麗しかった。あまり寝ていないはずなのに、肌も髪もつやつやと潤いがある。
奏ちゃんは、優雅な仕草でベッドの端に腰かけると、
「おはよ、姫」
本気とも冗談ともとれないような挨拶をして、お盆をわたしの膝のうえに乗せた。
朝のつめたい空気がふわりと香った。
「いい匂い」
ちいさな土鍋から、ゆらゆらと湯気が立ちのぼっている。純白のお粥のうえに、いくつかの赤い飾りがうつくしい。
「クコの実?」
「そう。おれの家から持ってきた」
奏ちゃんはいたずらそうに答えると、匙を手にしてにっこりした。
「冷ましたげる」
どういうわけか楽しそうに、お粥をすくいあげた。
繊細そうなまつげを伏せると、
「こういうの憧れてたんだよな」
紅色のくちびるをとがらせて、ふうふう息を吹きかけはじめた。
「薬膳粥みたいだね」
「そうかも」
奏ちゃんはまつげをあげて、匙をわたしの口にいれた。
なにを想って煮つめてくれたのだろう。奏ちゃんの手づくりのお粥は、とろりと滑らかで甘みがあった。
「おいし?」
「おいしい」
「よかったな」
大人びた笑みをうかべながら、奏ちゃんは新しくお粥をすくった。ふうふうしては、匙をわたしの口に運んでくれる。
鳥の雛になったような気分だった。
クコの実の味がよくわからなくて、わたしは首をかしげた。
ふにふにする生薬だ。
特別おいしくはないけれど、まずくもない。
わたしのちょっとした変化を、奏ちゃんは見逃さなかった。
「クコの実きらい?」
気遣わしげにきかれて、わたしは慌ててかぶりをふった。
「体にいいんでしょう?」
お粥を匙でかき集めながら、奏ちゃんは豆知識を披露した。
「美肌と精神の強壮に効果的。でも妊娠中は食べないほうがいいらしいよ」
「どうして?」
「人工妊娠中絶剤とおなじ成分が含まれてるから」
奏ちゃんは事もなげに恐ろしいことを言って、最後のひとくちをわたしに与えた。
「はなちゃんって、よく食べる子だよな」
あらためて感嘆されると、なんだか恥ずかしくなってくる。
「おかしい?」
「全然。みてて気持ちがいいよ」
ぶくぶく太りなさい、と寛容な笑顔をみせた。
「のんびりしてな。おれ洗濯してくるから」
奏ちゃんは溌剌としていた。
お盆を取りあげようとする、男らしい手をわたしは衝動的につかんだ。
「ん?」
なにがしたくてそうしたのか、自分でもよくわからない。たぶん、とぼけた顔をしていたと思う。
おおきな手をてのひらでつつみこんで、とりあえず揉みもみしてみた。
「なになに、労ってくれてるの?」
奏ちゃんがくすくす笑いだした。
カーテン越しに、雀の可愛らしい鳴き声が聴こえてくる。
幸せだと思う。
朝陽の射しこむ部屋に、だいすきな恋人の姿がある。
「初めてだね」
初めて、一緒に朝を迎えた。
「すきよ……」
穏やかな沈黙につつまれた。
わたしは頬を火照らせて、奏ちゃんの手をつよく握った。
「すき」
甘い香りが漂う。
「もうすこし、一緒にいようか」
奏ちゃんはベッドの端に座りなおすと。細い腰をひねって、ゆっくりと顔を近づけてきた。
冬のはじまりの朝。
目を閉じて、待ちわびたくちびるを受けとめる。
「だいすきだ」
吐息まじりに囁きながら、奏ちゃんは何度もくちづけてくる。
やさしくて、あたたかくて。
それは心にあかりを点すような、いたわりのキスだった。