人里にて人と交わること
春も終わり。若葉は色を濃くし、太陽は夏の気配を漂わせる。植物が元気すぎて人里との往復が少々難儀に感じる今日この頃。当然ながら最寄の人里にはよく足を運ぶ。食料の調達は自分でできても調味料は作れないし、ほかにも布類や筆記に必要なものは全て人里から入手している。俺にとって人里は幻想郷に住むほかの人々と同じように、なくてはならない生命線であるのだ。
そんなわけで、顔見知りなんてものもできてくるのであって。
「変なカッコー!」
向こうから十歳ばかりの少年が大声で言ってきた。
「お前も負けてねえぞ、圭介。」
そう返すと圭介は盛大に笑ったが、すぐに追ってきた圭介のお母さんに首根っこを掴まれて連れていかれた。どの世界に振袖を着る男がいるってんだよ。バカかあいつは。黒服に土気色の外套羽織った俺の方がどれだけましか。
しかし、こいつの裾もボロボロになってきたな。そろそろ直すか。
今日は目的もなく来てしまった。すぐに脳内で屋敷の不足品を洗い出してみるが、さほどない。
「よお誠。久しぶりだな。」
「あ、どうも。一ヶ月ぶりぐらいですね。」
今度は八百屋の若主人に声をかけられた。年の差は小さいから、あちらからすれば俺は弟分らしい。笑いながらもう少し頻繁に来いとか言われた。
「そんな訳にもいきません。研究が滞ってしまいますよ。」
「はは、聞き飽きたよその台詞。まあ、忘れない内に来いよな。」
「はいはい。」
八百屋の若主人に手を振って別れる。
忘れない内に、か。
幻想郷とは忘れられた者たちが集う土地。忘却の彼方に追いやられた者たちの最後の住処。妖怪や魔物、神や精霊と言った存在はもちろん、魔術師や半獣などの非科学的な力を持つ人間さえ外界では存在しないものとして扱われる。かくいう俺も忘れられた存在の一人なわけで。
「ま、味噌でも買っていこうかな。」
寂しい寂しいなんて言っても仕方がない。もしかしたら事故で来てしまっただけかもしれないし、なんにしろ、いつかはあいつらが帰って来るのだからそれまでのんびり待っていよう。
済んだ空を見上げ、異郷の旅路を思った。味噌屋はこっちだったけな、と通りを歩く。
時は巳の刻。外界と切り離されたのが江戸末期から明治初期にかけてと言うから一日三食は定着している。故にそこら辺の屋台やら飯物屋からいい匂いが流れてくる。それにつられてついつい目移りしてしまうのは若さゆえだ。昼飯は弁当ですませてしまったが、やはり二回の山越えは体にこたえるのか、腹は早くも空腹を訴えていた。
なんか食べようかなー、なんて周囲に意識を散らした。その時だ。
「ひゃ!」
「んぬ。」
はい、ぶつかりました。よそ見歩きは駄目だな。
俺は少しよろける程度ですんだが相手――二十歳ぐらいの女性――は転んでしまった。さらに彼女の抱えていた大量の布巻が周囲に散乱してしまった。
「すみません。大丈夫ですか?」
尻餅ついて周囲をきょろきょろと見回す少女に手を差し出す。
「あ、はい。大丈夫です。ごめんなさい。」
少女の手を握って引っ張り上げる。まあ、少女は大丈夫らしい。しかし荷物が大丈夫じゃないのは一目瞭然。
「いえ、こちらこそすみません。よそ見してしまいました。」
外套から手帳の魔術書を取り出して開き詠唱する。
黙唱。魔術師たる綾野誠の名の下に風精霊の召喚を願わん。
「風よ。彼の物らに纏え。我が独学から、第二章十五番『収束』」
全ての布に風を纏わせてほかの物と区別する。それから収束魔術で風を纏った物と指定して集める。部屋の片づけに便利な魔術だ。
慧音に人里内で魔術を使うなとは言われているが、まあこのくらい大丈夫だろう。
「これで全部ですか?」
布巻をずらりと並べる。少女は数瞬ばかり唖然としていたがすぐに我に返って数えはじめた。
それにしても、これほどの布を一体何に使うのだろうか。大体二十本はあるだろうか。布というのは当然の如く決して安くない。加えてこの布の質は中々に上等だ。これだけを売り捌いてしまえば……半年は過ごしていけるのではないだろうか。ごろつきに狙われたら終わりだ、これ。
纏わせた風に吹かれて少女の髪がなびく。おっとりとしていそうな顔。とても荒事に向いているような感じではない。
「全部あります。ありがとうございました。」
「ん。」
布巻を操って少女の腕に納める。顔が隠れている。器用な人だ。
「すごいですね。こんなことできるなんて。」
「職業魔術師ですから。このくらいできないと話になりませんよ。」
むしろあなたの方がすごいよ。言わずに心の中で感嘆した。
「では。」
「お気をつけて。」
定例句でしめた俺たちだが、何事にも限度があるようで、少女がふらふらと数歩歩くと荷物は自壊してしまった。その拍子にまた尻餅をつく少女。想像に難くなかったその光景を見て、俺は仕舞わずにおいた我が独学をもう一度開いた。
「ごめんなさい……」
「いや、これだけ持つのは無理があると思うんですが。」
「慣れているんですけどね。」
少女はふわふわと笑った。苦笑いにすらなっていない。一度この少女には慣れている、の定義を論じなければならないだろう。
「手伝いましょう。一人は絶対に無理ですよ。」
半分ほどを少女の手に納め、残りを自分で持った。風を纏わせたまま持っていければいいが、生憎と俺の魔力はそれほど多くはない。
「すみません。」
「いえ、別に。」
味噌屋にはあとで行けばいいだろう。
***
歳が近いということもあり、少し世間話をするだけで少女とはすっかり打ち解けた。
少女の名前を詠と言い、二人の妹と共に縫い物屋を営んでいるらしい。両親は数年前の流行病で他界していると言うから、それからずっと姉妹だけで生活してきたらしい。大したものだ。安定した収入が入っているとは聞いたが、今に至るまでどのような苦労があったのだろうか。想像もできない。
「誠さんは何で魔術師になろうと思ったんですか?」
「え、ああ……」
少し、答えづらいことを突いて来たな。
「よくは覚えてないけど……親に売られたのかな、たぶん。」
「え、あ、ごめんなさい。」
やっぱり頭下げてきた。俺は慌てて補足を加えた。
「いや、売られたって言っても魔術師としての体質を見込まれて陣内家に連れていかれたんだ。俺の家は貧しい農家だったらしいから、その代償に金を払った感じだと思うし、さほど悪いものじゃないさ。結構楽しい生活してるし。」
「…………」
おおう、苦笑いしていやがる。ああもう、今度からこれ話すの止めよ。
「ああ、そう言えばさ――」
人里にまだ慣れていないことをダシにさらりと話題をすり替える。市場の仕組みやまだ行ったことのない場所、人里の治安など、さすがに店一つ営んでいるだけあって基本的な情報については結構詳しい。ただ、ほかの人里のことはあまり聞けなかった。
そうこうしている内に詠の家に着いた。二階建ての町屋だ。三人が住むには十分な広さだろう。詠が玄関戸をがらりと開ける。
「ただいま。」
答える声が奥から二つ聞こえ、次いでぱたぱたと音を立てて十に満たない少女がやってきた。
「お帰り詠お姉ちゃん!」
「ただいま悠。遥は奥かしら?」
「うん。丹田屋さんの暖簾縫ってる。」
そこまで言って少女――悠と言ったか――は俺に気付いたようで首をかしげて聞いてきた。
「お兄ちゃん誰?」
うん。正しい反応だな。正しいんだけど何でそんなにきらきらした目で聞いてくるのかが全く分からない。俺の返答に何を期待しているのか。
「この人は荷物持つのを手伝ってくれたの。」
「なーんだ。詠お姉ちゃんが彼氏を連れて――――」
その言葉に詠は慌てて悠の口を塞いだ。
「ご、ごめんなさい。」
「いえ、別段。」
なるほど、詠は彼氏がいないのか。ん? こう思われるのが嫌なのかな? なるほど。今日もまた一つ常識を身に付けた。しかし、詠は結構きれいなのに何で彼氏、ないしは嫁入りの話が来ないのだろう。器量も良さそうだし引く手数多でもおかしくないはず。――きっとこう考えるのが失礼なのだろう。止めておこう。
詠が板間にきれいに布巻を置いた。
「それじゃ、失礼する。」
「はい。ありがとうございました。」
玄関を出た。後ろから悠のもがき声が聞こえる。何か言おうとして詠に止められているのが手に取るようにわかる。玄関戸を閉めると聞こえなくなった。
しばらくぶらぶらと歩き、そういえば味噌を買わねばと思い至った。いつもの味噌屋はここからほど近いはずだ。あの姉妹とは以前もどこかですれ違っていたのかもしれないと思った。
「今度、外套直してもらおう。」
こういうのって受け付けてくれるのだろうか。
***
別に研究に行き詰っている訳ではない。ただ単に必要な薬草が育っていないだけなのだ。決して理論が途中崩壊して演算をしなければならなくなり自棄になって研究を放り出してきたわけではない、決して。
「よお誠! 久しぶりだな。」
「一昨日に来たんですけどね……」
八百屋の若主人にすれば二日で久しいのか。なるほど、ひと月も来なければ注意されるは当然というわけだ。
時は巳の刻。今日は日の出前に屋敷を出て開門と同時には人里に入ったのだが、その後ぶらぶらとしているところを慧音に捕まったのだ。曰く、昨日魔術を使わなかったかと。
これを聞いた瞬間、俺は全身全霊をかけて魔術を使った経緯、魔術の種類、消費魔力、魔術式の構造までをも懇切丁寧に説明した。そして慧音が学者顔になった時、俺は勝利を確信した。段々と話題を反らせて行き、結果としてお咎めなしに収まった。
しかし、俺は慧音の知識欲を刺激してしまい、運の悪いことに寺子屋が休みだったのも合わせて午前中すべてをこれに費やしてしまった。あほらしいやらなんやら。神経をすり減らす作業によって俺は非常に疲れた。
慧音に告げ口をしたのは近くにいたおばちゃんだと言う。告げ口と言うか井戸端会議的なものだったらしいが、いやはや井戸端情報網を侮ってはいけないな。肝冷えましたぜ。
今は昼飯を求めて右にふらふら、左にふらふらと彷徨っている。特に激しい運動をした覚えはないのにすごく腹が減っている。何に体力使ったかな、はあ。
「うー、やっぱり親父の茶屋にするかな。」
行きつけの茶屋である。親父と奥さん、一人息子の三人で営んでいるこぢんまりとした茶屋で、人里のちょっとした騒ぎをきっかけに懇意になった、自称人里一団子のうまい店である。人里一うまいかは脇に置いといて、言うだけの味は提供してくれる。ただ親父がうるさいのが玉に瑕か。
「う……」
まずい。空腹具合が限界に近づいて来た。本当は跳躍魔術を用いて距離移動で茶屋に行きたいが、ここで誰かに魔術使っていたのを見られてみろ。すぐに慧音に伝達されて今度会ったらお小言を頂くに違いない。まったく。少しぐらい使ってもいいだろうに。何であんなに厳しいんだか。
いやまあ、あの事件が原因だとは分かっているけどさ。それでも厳しいぜこれは。
思考して気を紛らわせている内に茶屋が見えた。ふ、視界に入れば気力が湧くというもの。力を取り戻した足取りで茶屋との間合いを一気に詰めていく。
「親父飯く、れ……」
「…………」
「ぐおーぐおー」
十七かそのくらいの少女が先客としていた。こっちを怯えるように見つめてくる。肝心の親父は番台で寝ていた。熊か、あんたは。
少女は親父に向かって何か言おうとしているが、直前で躊躇ってしまっている。大方、団子を買いに来たけど親父が寝ていて起こすのも申し訳無いとか思っているんだろう。度の過ぎた慎みを害とみなす俺は少女の行動を無視してずかずかと番台に近づく。この空腹で極限状態の俺に対してこのような行動をとるとは何とも肝の太い親父である。
銭袋から十一枚を取り出して掌に載せ、詠唱する。
黙唱。魔術師たる綾野誠の名の下に風精霊の召喚を願わん。
「風よ。此の物らに纏いて我が願うところと為せ。」
十一枚が浮かぶ。少女が息を飲み、事の推移を興味深そうに見つめる。
「食らえ。十一文日替わり定食の打撃。」
それらは風を切って過たず親父の額へ吸い込まれて行く。
「いったああああ!」
親父の額に十一の打撃痕を残して番台に落ちた。しかしうるさい。大声を上げた親父に、少女は静かだが思いっきり驚いている。大声ばかり出していたらこの店の評判が落ちかねんぞ。
「怠けるな親父。」
未だに悶絶しながら額を抱えている親父。少女もまだ事態が飲み込めていないのか、おどおどしている。何でもいいから早く食いたい。
「仕事放棄して寝ているからこうなるんだよ。ほら、早く注文すればいいですよ。」
「…………」
少女はこくんと頷くだけで一言も発しない。何となく性格が推し量られる。
「……団子。」
「ん?」
と、親父。
「……団子を三本ください。」
何とも小さくて遠慮がちな声は少女のものだった。どこかで聞いたことがあるが、どこだったか。記憶の網を辿っていくと……
「分かった! 団子が三本で六文だ。」
親父の怒声に近い声に邪魔されました。こんにゃろ。
「寝ていたんだから半額にすればいいんじゃないかなー」
親父に対する単なる腹いせである。
「お前はだまっとれ!」
親父がこちらにクワッと向いて言った。
「この子、だいぶ待っていたんじゃないか?」
少女のほうを見ると小さく首を縦に振っていた。
「ほら。」
「うむううう……」
早くしてくれ。こっちとりゃ空腹で気が立っているんだよ。
「わかった。 団子三本で三文だ! そら娘さん。団子だ。待たせて悪かったな。」
「…………」
少女が無言で受け取った。
「あの、お金です……」
少女が親父に六文差し出した。
「代金は三文。これはおつりだ。」
親父は躊躇う少女に笑顔で三文返した。少女は返された三文と茶屋の親父と俺を代わる代わる見ていた。親父の笑顔を見ても損しかないぞ。
「団子が固くなる前に帰ったらいいんじゃないかな。」
そう言っても未だに動かない少女は、少ししてからやっと口を開いた。
「えっと……」
本音を言うと途中で切らないでほしい。これ以上空腹を我慢していると顔が酷いことになりそうだ……とまあ、こんな要求するのも少女には辛いもんかな。
「ありがとうございます。」
ただそれだけ言って少女は茶屋を出て行った。
「……可愛かったなあ。」
「へえ、いい歳してあんな娘に欲情するのか?」
「違うわ。 第一お前は何でここにいるんだ。」
「飯食いに来た。」
茶屋に来たらそういうもんしかないだろうが。あーやっと飯が食えると座敷の座布団に座った時、厨房の方から声が聞こえてきた。
「あーなーたー」
その声は地獄から這いずって来たかのようで、俺も親父も硬直してしまう。
「あたし以外の女に色目使ったわねー」
親父の冷汗が尋常でない。俺はゆっくりと壁の方に避難した。これから何が起こるかなんて想像に難くない。その被害、なるべく避けなければいかん。
親父がその体躯からは想像できないほど素早く番台を越えて逃亡を図る。しかし、番台のさらに奥。厨房のほうから飛んできた棍棒に後頭部を打たれ、その場に倒れ伏す。諦めのつかない親父は必死の形相で戸口に這いずるが、遅かった。
「ちょあ!」
威勢のいい掛け声と共に厨房から飛び出してきたのは親父の奥さん。余談だが、この人すごく綺麗なんだ。余談終わり。
「覚悟しなさい!」
会計台を空中前回りで越えた奥さんは、そのまま空中で態勢を変えて背中に蹴りを一発決めた。うん。一本。
攻撃はこれに終わらない。初撃なんて小手調べだといわんばかりに親父を締め上げていく。
「すみませんでえぇぇぇぇぇ!」
親父の断末魔。哀れなり。恐ろしくて直視できない。
「助け……」
「ごめん無理。」
「裏切りいぃぃぃぃぃ!」
いやね、約束とか契約とかそういうのを反故にするのを裏切りと呼ぶのであって、俺は親父を奥さんから助けるなんて約束はしてないわけよ。団子は上手いけどさ、それとこれは別問題ね。
第一、こんなのの間に入りたくなんて無いよ。
その後は特筆すべき展開にもならず、息子さんが申し訳無さそうに運んできてくれた日替わり定食に舌鼓を打ち、邪魔にならない程度に茶々を入れて帰った。
「まだまだー!」
そういや、親父と奥さんって家柄の壁を越えた壮絶な恋愛結婚を遂げたって聞いたけど、本当なのかなあ。親父と奥さん、あんまりにも不釣合いだと思うんだけどなあ。
***
食後の昼寝を堪能した後、腰に野鳥をぶら下げて夕日を眺めながら人里の南門を出て道なりに山へ入り、途中から道を逸れて獣道……否、道なき道へと分け入った。人里に通い始めて三月ほど。まだまだ道はできそうにない。かと言って舗装するわけにもいかないし、何と言うジレンマだろうか。
「あ、こいつ食えるんじゃね。」
足元に映った山菜をひょいと抜き取る。うん。確か食える奴だ。群生しているはずだから今度このあたりを探してみよう。鳥も獲ったし今日は大量だな、とか思って山菜を片手でいじくってみる。ふと霊夢のことを思い出した。
「ぶっ倒れてないかな。あいつ。」
最近まったく行ってないし、たまには顔出さないと怒るだろうな――前行ったのが一ヶ月前か。絶対に怒られる気がする。どうしよう。やっぱり手土産でご機嫌とるしかないのかな。
「くそ、憂鬱だ。」
茶屋で団子でも買っていこう。新しい茶葉も持っていってやろう。詠の所で髪留めの一つでも作ってもらおうかな。
***
もう何も言うまい。二日連続で人里に来るなんて初めてだ。
「よお誠。今日も来たのか。最近はよく来るなあ。」
「ははは……」
八百屋の若主人の挨拶を適当に受け、ふらふらと人里を行く。
まずい。理論は正しいのに演算が崩壊している。何故だ。何処を間違えているんだ。
「演算によって導き出された十ト千分ノ六百七十三は世界構造の基礎部を成す精神体の魔力耐久度であるから、おおよそ十の魔力ならば影響はない。そこでここから八の魔力を用いて核を作り、二の魔力を用いて核と精神体を切り離す隔壁を生成する。これを精神体の第一上層に埋め込み……」
「あ、誠いいところに。ちょっと話を聞きたいんだが。」
「物質体は精神体の上に存在し、その魔力耐久度は一地点につき六兆一ト一万分ノ八十七であり、これは過去の研究内で数度証明されている。そこで……」
「おい誠、誠?」
「物質体第三下層に埋め込んだ核と以前に埋め込まれた物質体第一下層の核を接続する。核同士の魔力差が七兆に納まればよいからこれは成功すると断定できる。次に物質第三下層に埋め込んだ核と精神体第一上層に埋め込んだ核を接続する。このときも魔力差は七兆を越えなければいいはずなのだが、簡易的な実験では三を越えた時点で接続体の崩壊が始まり……」
「誠!」
「ふが!」
思考を強制的に遮断させられる、茶屋の親父のいびきにも劣らぬ衝撃。額に直接打ち込まれたそれは脳を揺らし軽度の脳震盪を起こす。一時的に血の巡りが乱され、脳の活動が急激に制限される。
ふ、お休み……
「ぬん!」
「ぐへ!」
衝撃再来。今度は急激に闇から引き上げられた。
「な、何が起こったし。」
「大丈夫か誠。うわ言を呟いていたようだが。」
確かに意識が浮ついていた感覚が残っている。しかし、そんなことよりも眼前に迫る慧音の顔に、俺の思考回路は一瞬で分解されて瞬時に再構築された。
昨日使った魔術のことである。
「逃げる!」
「は?」
俺は腕を振り解き唐突に走り出した。
昨日、茶屋を出たあとで心地よく昼寝をしたのだが、日当たりのいい場所をと思いついつい三階建て倉庫の屋上に飛び乗ってしまったのだ。
無論、魔術を用いてである。
さらに、昼寝の後にちょうど頭上を飛んでいた野鳥を打ち落としたのだ。
無論、魔術で。
親父のところで使ったものを入れて三回。使い方も回数も、これは言い逃れできそうにない。なんとか撒かねば。さすれば、ほとぼり冷めるまで人里に近づかないようにすればいい。
「おい待て……みんな! そいつを捕まえてくれ!」
みんなって、本当に周りの人全員がこっちに向かって走ってきやがった! ありえん。慧音の掛け声ってどんだけ力持ってるんだよ。この量、能力持ちも混ざっているだろうから圧倒的にこっち不利じゃん。
ふ、しょうがない。今更罪を一つ二つ重ねようと関係なかろう。
「発動。」
身体諸々の強化魔術なら常に待機状態になっているものね。一声かければ動くのさ。
余裕綽々で華麗に屋根に飛び乗り人垣を避ける。
「中央放て!」
遠隔攻撃系の能力者が郎党組みやがった。指示は慧音か!
「この程度避けられないで、魔術師やってられるか!」
外套の防壁を発動させ、かつ弾道を見極めてするすると避ける。逃げ足だけは自信があるんだ。第一波抜けきったぜ。
「逃げるのうまいな。」
ぐさりと刺さる言葉。
誰だと声のほうを向いたら、当然ながら見てしまった。
硬直。沈黙。諦念。
「正面から言われると堪えるんだけど。」
「別に情けないとか思ってないさ。生きるためには必要な技術だものな。」
そう言ってくれる妹紅は優しいのだが、その背後に浮かぶ火の玉、常に非ず情の非ず。今日に限って妹紅が人里にいること。これを俺は恨まずにいられないのである。つまりはこの状況を覆すだけの力が俺にはないということ。
妹紅はそう承知の上で、それでもなお鋭い眼光を俺に飛ばして言ってきた。
「今なら無傷で下に降りられるけど。」
それでも。
「降参する気は?」
俺にも。
「もちろんない!」
誇りがあるのだ。
男、一度進んでは戻ってはいけない。師匠の教えである。
***
時は逃亡戦の直後。妹紅の炎球を避けた拍子に足を滑らせて屋根から落下し、辛くも体勢を立て直しいざ逃げんと思ったところを追いついた人々に捕らえられ、事情は知らないがととりあえず、と頭突きを慧音から受けた、その後である。とりあえず頭突きなんて理不尽である。
「なるほど。つまり誠は昨日魔術を使ったと私に知られたと勘違いして逃げ出したわけだな。」
「そうそう、そういう……勘違い?」
「勘違いだ。」
最寄りの茶屋でお茶を飲みつつ事情を話し終えた俺は、あまりに非情な事実を突きつけられた。
「勘違いって……じゃあ俺のしたことは。」
「骨折り損の草臥れ儲け。いや、墓穴を掘っただけか?」
おう。冷静な分析ありがとう妹紅。ものすごく気分が落ちるから。
「誠、そう気を落とすな。私の顔を見て逃げたということはお前も少なからず後ろめたさを持っているということだ。後ろめたさとは自制心から生まれる。つまり、お前にも少なからず自制心が働いているということだ。あとは、それでもしてしまう心の弱さを克服すればいいんだ。私は嬉しいぞ、誠。ようやくお前に成長が見えたんだからな。」
慧音がすごいエッヘン顔で説教してきた。説教というよりも諭しと言うほうが正しいだろうが、何にしろ的外れには違いない。俺は慧音の説教から逃れたかっただけであり、慧音にばれていないと知っていれば素知らぬ顔で応対していたに違いない。
慧音は少々理想を見る質だ。仮にも人里の為政者であるならば、少々理想を捨てることも必要だろうに。
「でだ、ここからが本題なんだが。」
ようやく始まった。
内容に関わるのか、慧音は姿勢を正した。隣の妹紅は崩したままだから知らないのか、それとも知っていて別にいいやと思っているのか。別段、深刻な話では無さそうだな。
「最近、西の山に厄介な妖怪が棲みついてな、その退治をお願いしたいんだ。今は人を驚かせて様子を窺っているようだが、その内に襲ってくるだろうと見ている。」
「へえ。」
西の山は里人がよく山菜取りに行く山だ。標高の低い山で丘と言っても違和感なく、住んでいる妖怪も好戦的でなくて人身被害はないと聞いている。
「そいつは限界域の中に?」
人里の防壁から限界線――人間の領域と妖怪の領域との境界線――の間の土地をそう言う。
「いや、入ってはいないが限界線の外にある畑に大穴を空けられた。その畑はすぐに放棄させたが、少々危ないかもしれん。」
「ふうん。」
畑に穴を。西の山の妖怪じゃ考えられないことをする。その内に限界線を越えてくる可能性もあるな。人里の西側は防備が手薄だからそれも見越しているのか。
「目撃情報と過去の記録を照らし合わせた結果がこれだ。」
紐綴りの半紙数枚を渡された。一枚目には蚯蚓の絵が描かれていた。
「ただでなどとは言わん。報酬は、そうだな、豆銀貨をこれだけでどうだ。」
提示された金額は思ったよりも高く、情報から推測される妖怪の退治と考えても割りのいい仕事であった。
「了解了解。ありがたく受けさせてもらうよ。」
途端に慧音はほっとしたような顔を見せて湯飲みを傾けた。意外と面倒な案件だったのか、重荷を下ろしたような顔だ。
不思議そうに見つめる俺の視線に気がついたのか、慧音は苦笑して話してくれた。
「里の陰陽師にも行動制限があってだな、里の外では基本的に里人の護衛と実害をなした妖怪の退治しか認められていないんだ。あとは情報収集。こういう案件はどうしても外部委託になってしまう。」
「そのための博麗の巫女じゃないのか?」
「忙しいと一蹴された。」
忙しい? あの霊夢が忙しいとはいかなる現象か、検証せねばなるまい。
「と言うわけで、ちょうどよく居合わせてくれた誠にお鉢を回したのだ。」
「あたしは人里に関わりすぎると良くないし、ね。」
妹紅が言った。こいつも微妙な立場にあるんだってな、詳しくは知らんが。
そこで話は途切れ、自然にお開きと相成った。別れ際に慧音から釘を一本刺され、妹紅にはけらけらと笑われた。何が面白いんだか。
「実戦ねえ。久しいな。」
鈍っていなければいいけれど。
***
腹が鳴った。立ち読みしていた本屋から出て親父の茶屋へと向かった。
「最初の目撃情報は今月の頭ごろ。ひふみよ……二週間ぐらい前か。それから段々と限界線に近づいている。記録によれば土と水を操る巨大蚯蚓の妖怪。地下に潜って移動すると。元々西の山のさらに奥に生息。何で出てきたんやら。」
愚痴りつつ読み終わった資料を外套にしまう。地下に潜むというのが厄介だが、あっちから出てきてくれれば問題ないか。
茶屋に着くといつもどおり日替わり定食を食べた。ほかの客から昨日の夫婦喧嘩を笑われたりしていたが、親父は昨日の名残を全く思わせることなく動いていた。化け物のような回復力を見せてくれる。
昼食後は本屋へ足を向けた。
意外なことに、幻想郷で紙はさして高価ではない。量産体制が整っているために、ある程度の生産量は確保されているらしい。故に決して安いとは言わないが、紙を多量に使う本ならば、しばらくの節制生活をすれば誰でも手に入れられる程度の代物である。
「これ……危ないなあ」
そして、外の世界から流れてくる本も店頭に並んでいる。ただ、日本語以外で書かれた本は題名からも内容の判別がつかず、子供が間違えて十八歳未満閲覧禁止の本を読んで鼻血を垂らしたこともあるそうな。俺が体験した限りでは、封印指定並の魔術書が三冊ほどずらりと並んでいて驚いた。すぐに買い取ったが、あんな物、一般人なら目を通しただけで発狂してしまう。
「たく、また霖之助の奴、少しは魔術の勉強もすべきだな」
今手に取った魔術書も危険物だ。中身は大したことないが、本体に軽い呪いがかけられている。何も知らずに読んだら悪夢にうなされるだろう。
それを小脇に抱えてさらに立ち読みしはじめた。
――――
――――
――――
――――
――――どれぐらい読んでいただろうか。十冊以上を読み耽り、その内二冊ほどを手に持って魔術書と共に会計を済ませ、持っていた紐で縛りなめし皮の袋に入れた。
日は傾き夕暮れの体をなしていた。そろそろ出なければ閉門に間に合わない。
「一番近いのは東門かな」
走れば南門にも間に合うか。
人里には東西南北合計四箇所に門があり、日没と同時に閉じられてしまう。閉門後はよほどの急用でもない限り内外の行き来はできない。不可能なのだ。ようするに、閉門までに出なければ俺は屋敷に帰れない。人里には需要がないため宿屋はなく、人里に住でいない者はどうしてでも閉門に間に合わなければならない。
であるのに。
「さあ、お兄さんちょっと急いでいるから離れてくれないかな。」
「嫌だ!」
「お兄さん魔法も使えないから離れてくれる?」
「嘘つき!」
東門まで余裕を持って歩いていると左足に重みを感じ、努めて無視し続け歩いていると全身に視線を感じ、もう少しと我慢していたら耳が小声を聞き取り、もう居たたまれなくなって仕方なく目を足に向けたら、慧音たちと入った茶屋辺りから付けてきていた少女がしがみついていた。事情を聞くに、魔法を見たいとか。
「だから、俺は魔法なんて使えないって」
「使えるもん、お姉ちゃんに聞いたもん!」
十あたりの少女は一所懸命に首を振った。
いやさ、俺は本当に魔法なんて使えないんだよ。魔法と魔術って厳密に言えば全く違うもので、魔法が使えるのは魔法使いだけなんだよ。なんて言っても無駄な気がするので止めておこう。
力任せに引き剥がすこともできるが、そんなことをして周囲にどう思われるか。理はこちらにあるのに世の中とは不便である。これは説得の路線を変更しよう。
「慧音先生からさ、魔法使ったら駄目って言われていてさ。だから使えないんだ」
「少しぐらいいいじゃん!」
その少しぐらいでどれほどの被害を被られると思ってるんだよ、主に俺。
「駄目なんだって」
ああまずい。閉門が刻々と迫ってくる。まずい。早く行かねば。
「じゃあ、今度見せてあげるから」
「今見たい!」
ま、まずい。苛立ちが募ってきた。こんな幼児に激するわけにはいかない。仕方なし。あまりいい手ではないし、しかも魔術だし。でも、誰にも見えないよな。
「だから、我がまま言わずに帰りなさい」
不恰好に屈んで手を少女の頭に載せる。同時にか細く呟いた。
「光と闇に支配されし汝に眠りへの誘いを与へん。」
精神干渉魔術。精神構造を光と闇に二分割し、こちらで算出した睡眠の脳波を干渉させるのだ。
少女のしがみつく力がゆるりと抜ける。俺はその隙に少女を軽き引き剥がし、その場に立たせた。干渉は弱く、少しだけ強烈な睡魔に襲われる程度なのだからすぐに覚醒するはずだ。
「あ、ああ!」
「じゃあな。」
「悠――きゃ!」
「ずっ!」
「やあ!」
身を翻して三歩走ったところで人とぶつかった。いや、ぶつかりかけた。相手は上手く横にかわし、しかし俺は止まろうとして止まりきれずに前のめりに倒れた。これをいいことに掛け声と共に背中に飛び乗ったのは恐らくあの少女。案外重い。
「悠ちゃん! 探したわよ!」
「あ、詠お姉ちゃん!」
頭上を飛び交う声。聞き覚えのある名前が出たがそんなことはどうでもよく、俺はただひたすら打ち鳴らされる閉門の鐘をかみ締めていた。
「悠、探したんだからね。こんな時間になっても帰ってこないし、すごく心配したんだから。」
「ごめんなさい。遥お姉ちゃん。」
ああ、どこに泊まろうかな。親父の所は笑いものにされそうだから却下。慧音の所は……なんだろう、すごく行きづらい。今日に限っては行かない方がいいように思えてならない。
「あの……」
詠の声だ。かけるとしたら俺だろう。俺じゃなかったら泣く。
「何でしょうか。」
いつの間にか我がまま娘は俺の背中から降りていた。今更になって遅い。
「先日はありがとうございました。何やら妹たちもお世話になったようで。」
俺は詠の後ろに控える少女二人――抱えられているのは悠だろうし、抱えているのは遥と言ったか――を見た。ああ、遥とは親父の茶屋で出会ったな。よくよく思い出せば、悠とも一度会っている。
が。
「お気になさらず」
それよりも俺の寝床が気になる。野宿ならやはり門前が無難だろうか。見張りの人に白い目で見られつつ一晩明かすなんて、なんて惨めな。想像しただけでも涙がこぼれる。
「あの……」
「何でしょうか。」
「閉門の刻限も過ぎてしまいましたから、お礼も兼ねて一晩うちに泊まりませんか?」
「……いいのか?」
「ええどうぞ。」
気は引けるが、こう言ってくれるのだしありがたく泊まらせていただこう。
そう思った。背後に感じた嫌な視線に気を配りつつ。
既知の方はお久しぶりです。初めての方はお初にお目にかかります。
どうも、紅炎です。
プロットを練り直しました。新たな事件、人物、関係がてんこ盛りです。幻想郷に人里が三つあったら面白いだろうな、とか浅い考えで作ってみました。これがどう転ぶのやら……
穴だらけなので、プロットはまたやり直すかもしれません。その時はご容赦ください。
これから新しく始まる二次ですが、このサイト内で二次がどのような評価を受けるか、戦々恐々としています。なんだかんだ言いつつも、こちらは本気で書いていますから頭ごなしな批判はご遠慮ください。
では、これからしばらく更新は途絶えます。