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「ねぇ、席替えしたくない?」
澄んだ女子の声が、もう少しで眠れそうだった僕の意識を引っ張り出した。
「ねぇってば。起きてるんでしょ?」
距離感と内容で、明らかに僕へ発せられていると理解し、机に伏せていた顔を声のする方へ動かす。
瞼を開くと同時に飛び込んでくる光が視界を一時的に麻痺させる。眩しさに順応し目に映った先は、隣の席の女子だった。
頬杖をついて、肩より少し長く真っ直ぐな黒髪を重力に逆らわず流し、じっと僕を見ていた。顔が濃いわけではないが、目鼻立ちがはっきりしており、言葉使いと態度も手伝ってか、彼女のかもし出す偉そうな雰囲気がさっそく僕を不快にさせた。
「やっぱ聞こえてるんじゃない」
女子はそう言って肩を落としため息をついた。僕も露骨にため息を吐いて、
「なんか用?」
「だから、席替えしたくない?って聞いてんの」
高校三年になった初日。僕の席は廊下側の一番後ろ。女子が話しかけてきたのは、朝のホームルーム後の空き時間だった。
「席替えはしたいよ」
「何で?」
一方的な会話の展開に僕は顔をしかめ、
「何でって、俺が理由を言う必要があるか?」
「あるね」
女子は自信満々に即答し、
「だって使えるかもしれないでしょ?」
「使えるってなんだよ」
「決まってるでしょ。これから席替えをしたいって担任の所に言いに行くんだから、建前でも何か理由が必要でしょ?」
正気で言ってんのかよ、そう内心で呟いてぼくは目を逸らし、
「んなもん、他の奴に聞けよ」
「嫌だよ」
女子は当然とばかりに眉をへの字にして腕を組む。
「なぜ?」
「分かるでしょ?皆それどころじゃないってさ」
そう言って吐く息と共に表情を緩めた。
この学校は一学年で千人弱の生徒がいるマンモス校だ。それでいて学科の種類が少ないため、大規模なクラス替えが毎年行われる。
部活などでの面識や友達が元々多い人はともかく、学年が一つ上がる度にクラスメイトのほとんどが初対面という人も稀ではない。実際、今のクラスに僕が知っている顔は二人しかいない。
そんな特徴があるため、年に一度のこの日は、いつも異様な空気になる。
生徒同士で騒がしく話してはいるが、笑い声が少なく、あったとしても、どこかぎこちない。僕の感覚でだが、今年は特にビリビリと伝わってくる。皆、一年二年と経験を経て、危機感をより募らせているのだろう。
新学年初日の今日が勝負であることに。
まず、四十人のクラス替えだいたい五人一組のグループに別れ、日常的に群がる人数を確保する。日が経ち、それぞれの群れが馴染んだ頃、今度は別の群れと交流を持つようになる。群れは、拡大と構築を繰り返し、個人の生活領域を広げていく。
グループ同士の交流はさほど難しくはない。群れているからこそ、慣れていない相手と話す上で必要な勇気や緊張などのエネルギーを個人で全て負担せずに済む。
皆にとって死活問題なのは、基盤となる大本のグループは今日には出来上がってしまうことだ。出遅れようものなら、一度完成されたグループに入るのは容易ではない。
一人で全てを負担し、入れてもらい、疎外感を手放そうと話題を合わせ、笑いを合わせ、ずるずると重たい一年を強いられるのだ。
二日目以降は初日に成した群れで輪を成すため、接する人が極端に偏る。
誰にでも無条件で話しかけられるのは今日しかないのだ。置いてけぼりを食えば、クラス内で話し相手がいなくなるか、重荷を背負うこととなる。
もちろん、全く関係のない人間もいる。自然に人を集めてしまう者、人付き合いを苦に感じない者、自然と一人になれ気楽と感じられる僕のような者には最適な環境だろう。ただ、そんな考えは少数派で、ほとんどの人が一年生活をするこのクラスで、自分が入り込める枠を確保しようと必死なのだ。
「確かにな」
僕は小さく苦笑した。
「で、何で君は席替えをしたいの?」
女子は逃すまいと話題を戻す。
「話したところで説得力のある材料にはならないな」
「材料になるかどうかは私が判断するから、試しに話してみなよ」
強気な物言いの後、優しく促すような声色。僕は飴鞭に妙な腹立たしさを感じた。
「君に話したいとも聞いてもらいたいとも思ってない。しつこいな」
「はぁ?自分の意見が言えないの?自己主張が恥ずかしいってくち?」
「違う。体良く乗せられるのが気に入らないんだよ」
「うわっ!失礼な!皮肉れた考え方!だったら体良く乗せようと私にさせたのは君なんじゃないの!?」
「無茶苦茶な理屈だな!だいたい初対面の人間にいきなり聞くかよ!常識ないんじゃないか!?」
「あぁ常識ないね!じゃ常識って何よ!?常識があれば立派なわけ!?」
「うっとおしいな!」
「そっちこそ!」
つい熱くなり、互いの声量が上がる。
僕の席は廊下側の一番後ろ。体の向きは隣の女子。つまり、僕には教室内がよく見える。僕らの声を気にした数人がチラチラこちらを見、小声で何か話している。
僕は我に返って掌に顔をうずめた。女子も察して冷静を取り戻したのか、僕に向かって少し前かがみになり、小声で、
「初日の今日がチャンスだよ。君にとっても、もちろん私にも。そうなるって分かっているのに、もったいないよ」
「言ってる今が分からない。俺には関係ないだろ」
僕は女子に怪訝な顔を向ける。女子は引くも諦める素振りも見せず、ただ僕の目を刺すように見、待ち構えている様子だった。視線が数秒ぶつかる。
僕は大きく息を落として、
「ここだとドアに近くて人通りが多いからだよーー。
どうだい?個人的理由じゃ何の説得力もないだろ」
話している途中、女子の表情の微妙な変化に気がついた。強い眼光はそのままだが、さっきまでの威圧的な視線ではない。僕の声や表情を伺い、観察しているようだった。
釈然としない扱いに、僕は思わず視線を外す。
女子は肩をすくめ、
「確かに使えないね。じゃ、何か良い理由を考えてくれない?」
「おいおい、本気かよ?一人二人の意見を聞くわけないだろ?」
「分からないわよ?私ラッキーだから。それに、あの担任だしね」
担任の植村先生は髭面の大男で、その外見を裏切らない展開を朝のホームルームで繰り広げた。
「これからいよいよ、受験が本格化するっつーことで、お前ら大変だな!学校でも勉強!帰っても勉強か!」
植村先生はそう言って無神経に笑い、
「だったらせめて、この教室にいる間は楽しく行こうと思う!高校生活最後の年だしな!面白いことを思いついた奴は、どんどん俺に言ってくれ!」
自分は考えないのか、と生徒一同の苦笑いをも誘っていた。
そんな一時間前を振り返り、確かに大丈夫かもしれないと呆れた。
「だったら、受験でも理由にしたら?」
先生と共に会話の内容も思い出し、僕は提案した。
「と言うと?」
「クラスの大半が受験するだろうけど、全員が難関校を目指してはないだろ。難関組を優先的に前の席にしたらどうかって理由にしてみたらどうかな?
君が受験をするのかは知らないけど、少なくとも今よりは望む席になる可能性はあるだろ?」
女子は目をぱっちりさせて頷き、「それで行こう!」と立ち上がった。