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この日の学校最寄り駅はどこも、いつもと違う賑わいを見せているだろう。
僕が通うこの駅でも、化粧や香水の匂いがロータリーに充満していた。発信源は先日、中学校を卒業した子ども達の母親達に他ならない。
ただでさえ気分が悪いのに。一瞬だけ嫌悪感を覚えたが、なるべく何も考えまいと団体さんの隙間を縫って学校へひたすらに足を運んだ。
無心を徹し夢中で歩いていると、鼻先にちょこんと何が触れた。末端に痒みを感じたと同時に、触れないよう放置していた意識と体が点と線で繋がって、我に返る。
見上げると、桜の花びらだった。学校の塀の何倍も高い木の枝から、ヒラヒラと無数に舞い落ちる。
そっと手を差し出すと、吸い込まれるように一枚、掌の中心に乗った。思わずじっと見ていると、風が吹いて、どこかへ飛んで行ってしまった。
また一つ歳をとるな。
寝起きが悪かったせいか、思考が悪路を通りやすい。
十八歳になろうかという今でも、時々あの夢を見る。かれこれ十年以上は経った。しかし、夢の中の僕は一切歳をとっていない。あの時の感覚が、束となって一気に蘇る。
色々な言葉を知った今だって、それが何であるのか、はっきりと言葉にできない。
心のみぞおちが、かき回されるような気持ち悪さが、一時的に僕の精神基盤を支配する。
覚悟なら、とっくに、決めた。
自分の生き方だって、分かった。
どうして、あんな夢を見せる?
必要ないだろ?
くだらない。自分に一喝した。
冷静になって考え直せば、それほど大したことじゃない。むしろ当然の結果と言える。
そうだ。大したことじゃない。
『最初はグー!ジャンケンポン!』
『おれかよ〜』
『ちゃんと十、数えろよ!』
『ヨッシャ!逃っげろぉ!』
『ハッハッハッハッ!』
『おい!待てよ!』
『こっちだよ〜』
『向こう、隠れられるぜぇ』
『おーにさーんこっちら!』
『なんだとコノヤロウ!』
『つぅいてくんなよぉ!』
『やーだよ!』
『いいぞ、いいぞ!』
『やっぱお前だぁぁ!』
『ちょ!やぁめぇろぉよぉぉ!』
『キャッハッハッハッ!』『ハッハッハッハッ!』
『おーいぃ!公園出たら反則ですぅ!』
『出てません〜!ギリギリセーフですぅ!』
『イテッ!』『ウッ!』
『ごめん!大丈夫?』
『うぅぅぅぅ』
『どうしたの?』
『‥‥‥』
『ちょっと!』
『うっわー』
『こりゃすげぇ』
『何してんだよ』
『何とか言えよ』
『怒られるぞ』
『おれ、知ーらない』
『本当に何もなかったの!?』
『ですから、我々としましても実際に確認しておりませんので、何とも』
『何ともで片付けないでよ!学校内での様子はどうだったのよ!』
『いえ、ですからそれは』
人の数だけ、人生の道がある。大きさ、見通し、景色、地面の質、天候季節環境諸々。
同じ道なんて一つもない。が、それはあくまでも顕微鏡を覗くように、詳細まで注目するとだ。
生きていく中で、全ての身に起こる出来事が誰かと同時に起きて、その出来事に対し全く同じ反応や感情を抱くことはないだろう、という意味だ。
例えば、人の道を上空から見たとしよう。きっと、どれもこれも対して変わりはない。長さに差はあるが、いずれプツッと道は切れる。精神や魂の世界があるかは分からない。少なくとも、肉体は必ず滅びる。
僕は、全てを悟ったのだ。
終りある命。誰がどう生きようと、結局は同じ。
にも関わらず、人は、人を、簡単に裏切る。
例外はない。僕だって。
ここまで生き、ようやく言葉になってきた。
小学六年の頃だった。休み時間に何となしに遠くの景色が見たくなり四階のベランダから、たまたま下を見下ろした。
今思うと、現実逃避をしたかったのだろう。
飛び降りたらどうなるのだろう。何の前触れもなく頭に浮かんだ言葉が、妙に現実味を帯びていたのを覚えている。
その後は、早く授業が終わらないか、ワクワクに近い高揚感が充満して、先生の話しが一切耳に入らなかった。
授業が全て終了し、帰りの会が終わると同時にランドセルを持ってトイレに引きこもった。しばらくし、ひと気を感じなくなった頃合いを見計らって、僕は教室へ戻り、ベランダへ飛び出した。
柵を登って座ってみる。当然、足下には何もない。遠く下には、いつも歩いている固い地面がある。
ここから飛び降りれば、何だか分からない、もやもやとしか気持ちから抜け出せるんだ。そう思うと笑みがこぼれてきた。
死の間際は、とても濃厚な時間だった。自分の目をカメラにするように、見えるもの全てを焼き付けておきたくなった。
振り返って教室を見れば、席に座り授業を受けている自分がいる。前方に視線を戻せば、校庭で駆けている自分がいる。さらに先には、登下校をしている自分。
普段と何も変わらない景色の中。当たり前に自分がいて、もうその場所に自分は存在しない。
空は、雲一つない青空だった。そんなことすら、こんな状況にならないと気がつかない。いつもは何となく通り過ぎてしまう景色。地上からでも、この星の丸さを感じられた。地球の丸みに沿って、空の水色が覆い被さるようだ。
果てしなく大きい存在に、自分を脅かす得体の知れないものが包み込まれる。
気持ちのもやもやが、無くなったわけではない。それ自体が僕にとって、重要ではなくなった。
いつも友達と鬼ごっこやテレビゲームをして遊んでいた小学二年。
その夏からだ。
「一緒に遊ぼう」「一緒に帰ろう」と差し出される手を断り始めた。何度か断ると、誰も僕に声をかけなくなった。クラスが替わって、人が替わっても、誰とも話す気になれず、僕は断り続けた。
くるくるくるくる。年単位で繰り返される。
何年か経つと、最初から誰も僕と必要以上に接しなくなった。
そうしているのは、他ならぬ自分。だが、独りが好きな訳ではない。皆と遊んで、楽しかった記憶はちゃんと残っている。
周囲の声が、どうしても耳に入ってくる。わいわい騒いで、けらけら笑って、楽しそうな同級生達を気づかれないように横目で見ていた。
声が、存在が、こうしているしかできない自分が、屈辱的だった。
きっと、自分の意思が曖昧だったのだ。自分で考えられる選択肢が他になかったにも関わらず、本当に良かったのか揺れ、故に半端に言葉を覚えた小学六年時に、死のうと思いついたのだろう。
ただ、そう思ったからこそ僕は変われた。
覚悟と信念が足りないと気がつけた。
自分の生き方を理解してから、笑い合う集団が羨ましいと心片にも思わなくなり、自業自得の自暴自棄で落ち込むこともなくなった。
つまりは、考え方次第である。居心地の悪かった教室も、今では快適に過ごせる場所の一つだ。欲を言えば、空がよく見える窓際の一番後ろが良いのだが、贅沢は言っていられない。
もう僕はぶれない。どんな状況や生き方であれ、空には何でも包み込む大きさがある。それだけでじゅうぶんだ。
人生の道は、人それぞれ。
どう生きようが、人の自由。
とても、残酷なほどに。
だから人は弱い。
強く見せたいだけ。
だったら僕は、このままでも良いと思ったんだ。