序
「こんな所まで付き合わせちゃったね。
私が悪かった。ごめん」
「真弓」
「名前で呼ばないでくれる?」
静かに言って、真弓は凍りつくような背中を僕に向ける。
時の経過は常に、何らかの変化をもたらしていて、無情に迫りくる一秒一秒に、過ぎ去った一秒一秒に、僕は歯を食いしばることしかできなかった。
真弓は僕が見えるか見えないか位に顔を向ける。
「本当は、君との夢を、一緒に叶えたかった。だから最後、君に問いたい」
「それで君は、生きているの?」
Ⅵ
右の太ももから小刻みに一定のリズムで振動が伝わり、僕はぼやけながらも視界に差し込む照明の光を捉えた。
横たわっていた体を起こそうと首に力を入れるも、反発する頭の重さと痛みがあっさりと僕を断念させた。
テーブルの上には、つまみの残りとまだ中身の入っているワイングラス。酒を飲み、心地良くソファーでくつろいでいる間に寝てしまったようだ。
目覚めたばかりの口内に苦みを感じながら、ズボンの右ポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。
予定変更と書かれたメールはアシスタントからだった。内容を見るまで頭が回らず、読まずに画面を消した。
所々関節がきしむ体を持ち上げてベランダに出、煙草に火をつける。冷んやりする風が寝汗をかいた肌に触れ、思わず肩を縮めた。
夜の一時を回っても、駅周辺の街明かりは消えることなく煌々としている。ただそれは、ほんの一部で、少し視線を外せば、ぼんやりとした建物の輪郭がうっすら見えるほど、家々は寝静まっていた。
暗闇に昔の自分が重なる。良くない感情と何となくでも理解していながら、そこが自分の置き所だと思い込み、進んで否定的な思考を肯定してきた。
今となっては遠い過去。懐かしくも酸味を覚えるような恥ずかしさがある。
そうだ。
僕は夢を叶えることができた。写真家になって、世界中を飛び回り、色々な空や自然、人々の表情をフィルムに残している。自分の事務所兼スタジオを持ち、アシスタントも五人雇って、スケジュールはぎっしり詰まり、収入は右肩上がりだ。
僕は、広いマンションの最上階を手に入れた。都心からは離れているが、街明かりが綺麗な夜景を毎日堪能している。
僕には沢山の友人ができた。休日前には決まって酒を飲みかわし、互いの夢と共に酔いしれている。
僕は冗談を言うようになった。人を笑わせ、自分も笑わされ、けらけら声をあげるのが楽しくて仕方がない。
僕は今、最大値のない幸せを、日々味わっていた。
いつか夢見た姿がここにある。
道が、構築されていく。思った通りに。
勇気、可能性、信じる力、それはーー。
つまりは、今の僕が、何よりの証明だ。
道を変えられたからだ。きっと、心の深くでは、変わりたいと望んでいたのだろう。
それ以前のあの時も、それなりに幸せだったと言える。自分の思い通りに生きていたと知ったのだから。
けれど、それが自分の望みでないとも知った。
自分に背を向けていると気がついた。
僕はこうして生きている。
自分自身の存在が、大きな叫びだ。
過去を振り返る暇なんてない。
いつだって前を向いて歩いていく。
そうして色あせる思い出の中で、今も消えない十年前。
二十八年間の、たった一年。
生きている意味を見出せなかったあの時、動き続ける心臓だけが、僕の存在を教えてくれた。
許してもらいたかった。安易な言葉ではなく、僕を知る、僕が大切だと思える人に。
君はずいぶんと遠くへ行ってしまった。
できることなら、もう一度、ゆっくり話しがしたい。
笑い合いたい。
小さなことで、喧嘩したい。
そうだった。今なら、今の僕なら約束を果たせる。
権利はもう、手に入れていた。
最初に買ったカメラで、最後に撮った一枚。
無邪気に微笑む君。十年経っても、君が幼く見えることはない。写真を見ればいつだって僕は、あの頃へ返る。
「ねぇ。僕は、ちゃんと届いているかい?」
だから僕は、僕が辿ってきた、写真集を出すことにした。