世直しの風、凉
「秋の空はつるべ落とし」という。
まさにその通りだ、と凉は思う。
上に引き上げたつるべが井戸の底に落ちていくように、晩秋の日はあっという間に落ちていく。瞬きする間もないような錯覚さえ覚える。
特にこの山里ではそうだ。まだ未の刻ばかりというのに、太陽は既に西の空で最後の光芒を見せている。山と山の間に吸い込まれるように光が消え、そして間もなく闇が訪れる。
と同時に、閂を締めていてもひたひたと襲ってくる冷気。この里で生まれ、この里で育った凉には幼い時から慣れ親しんだものではあったが、本来、厚着が許される稼業ではない。酒なしでは些か耐えかねた。この陋屋に吹きすさぶ風は、既に冬のそれだ。この時期、酒瓶を照らす淡い炎が風に揺らめかない日はない。
おかしなものよ、と思わず凉の口元が自嘲の笑みでゆがむ。十二で酒を覚える以前はどのように向後の寒さを耐えていたものか。
少時、思い起こそうとしてその無益さに気づく。過去を振り返るのは性分ではない。日ごろ、努めて忘れようとしている。今さら昔を思い返そうとしても、徒労に終わるのは当然であった。
囲炉裏にくべた枝がはぜて音を立てた。一人の室に音が響く。
嫁をもらわぬかと勧められることもあるが、すべて断っている。忍びの者にとって、女はほだし以外の何物でもない。身軽に生きるのが忍びの務めと思っている。
数年前までは、そう言って断るのが凉の常であった。しかし、最近では忍びも妻帯するのが一般的になっている。さもなければ、この山里が続いていかぬのだから当然の理屈ではあった。「忍びの務め」を持ち出せば、「当然の理屈」と言い合いになる。凉はその問答に何時の頃からか飽き果てた。最近では、何も言わずに首を横に振るようにしている。
妻も娶らず、親の遺した陋屋でやもめ暮らしを続ける凉は、いつの間にか忍び仲間の内でも変わり者と目されるようになっていた。
――いいのだ、人がなんと言おうと。
兄は江戸に出て、公方様内々の御庭番として仕えていた。この山里の忍びとしては異例の出世であり、里の人々は口々に兄を褒めそやしている。旗本の娘との間に既に男子もある。家は安泰であった。
――であればこそ。
自分は自分のすべきことをするだけだ、と凉は思う。兄が幕臣として出世し、その兄とは別のところに自らの才能を見出すにつけ、凉はそんなはぐれ者の自分にむしろ満足を覚えるようになっていた。
と、空気の流れが変わった。
きたな、と凉は直感する。おもむろに手を軽く前方に出す。
次の瞬間、闇を切り裂く鋭い音とともに放たれた一筋の矢が凉の手に握られている。
矢じりは鈍く銀色に輝き、よく見ると相当の材質であることがわかる。先は丸く、殺傷能力がないのはもちろんだが、しかし矢羽の装飾を見てもただの矢文ではない。矢文を開く手にも一瞬の緊張が宿る。思わず、文面より先に最後の署名に目が行った。
――これは……。
めったに驚くことのない凉も、さすがにそれを見て驚いた。今を時めく田沼侍従の判が押されてある。相良藩主で老中の田沼様と言えば、世事に疎い寒村の人間でもその名を知らぬ者はない。特に凉はその敏腕を兄から聞き知っていた。
これまでも兄の補佐として様々な幕府の密事に関わり、その政事を助けてきた凉ではあるが、さすがに幕閣の中枢と言うべき顕官から直々の言葉を賜るのは初のことであった。
――偽書ではないか……。
当然、その疑いがまず凉の頭をよぎる。しかし、偽書にしてはあまりに手が込みすぎていた。
凉は人付き合いをほとんどしない。寡黙で、めったに人前で何かをするということがない。ゆえに凉の隠れた高名を知る者はこの山里でもごく少数に限られているのだ。名の知られた上忍は他にも少なからずいる中で、果たして敢えて凉に目をつけてこのような矢文を送るだろうか。
内容はおおむね、次のようなものであった。
貴殿の高名は貴殿の兄、石見介から聞いて知っている。ぜひ、御公儀と拙者の推し進める改
革のため、協力してほしい。江戸の風紀は現在、紊乱を極めている。畏れ多くも御公儀の要
人を拉致し、監禁している勢力もある。今回貴殿に頼みたいのも、とある要人の救出だ。
そこまで読んで、凉は偽書ではないと確信した。幕府御庭番、佐藤石見介と自分がつながっていること、そして現在の御公儀と田沼侍従の改革について、その書に何一つ自分の認識とずれるところがなかったからである。
凉は常に中央の情報を得られるように努めていた。稼業が稼業である以上、本来的には情勢を知らずとも生業に差し障りが出るものでもない。しかし凉は、闇夜にただ誰かの後ろを走るのではなく、同じ闇夜でも月明かりを浴びて仕事をすることを望んだ。明かりをくれる月は、時に兄であったり、嫁いで京に出た妹であったり、また直に見聞きした自分の五感であったりした。
その自分の認識によれば、世間では暗愚とされる当代の公方、家治は相当な賢主であるはずであった。将棋ばかりにうつつを抜かしてと眉をひそめる向きもあるが、将棋指南役の大橋宗桂は将棋の合間に政治学を教え込んでいる。老中、松平近衛将監武元と田沼侍従意次に全てを委任したようだが、実態はそうではない。三人で一体となって長年の借財にまみれた幕府財政を再建すべく、改革立案を推し進めようとしているという情報は兄から漏れ聞いていた。ここ数年で借財の返済が可能になりつつあると、兄の口吻も熱を帯びていた。
その財政健全化の立役者の一人、田沼侍従から直々の書状である。日ごろ、沈着さには自信のある凉も思わず胸の高鳴りを感じた。
床の間の畳を裏返しにすると、先祖伝来の忍び刀が現れる。これは、去る大阪の役で勲功のあった初代が苗字とともに神君家康公から与えられた刀であった。家督を継ぐ者が代々受け継ぐ慣わしであったが、兄は敢えてそうしなかった。
「刀は人を選ぶ。己にはこの刀は荷が重い」
江戸に出る前夜、兄は凉を呼んで宝刀を託すことを告げた。以来、一事ある時はと保管している。当然、里の者は兄が江戸に持って行ったと思っている。
刀の鞘を静かに抜く。
囲炉裏の灯に照らされた刀身が、鈍い光沢をもって凉の目を打つ。伊勢志摩の名工によって鍛え上げられて既に幾星霜も経った筈であるが、時の流れにも古びることなく、常に鈍重な存在感を放っている。
妖刀は人の血を欲するとは言うが、だとすればそれは二流の刀に違いないと凉は思う。
本物の刀はもっと恐ろしい。自らの意思などないようでいて、じっと使い手を見ている。技量が足らぬ者が使えば、その刃はこちらに牙を剥く。凉はこの刀に触れるまでに自分に課した過酷な修養の日々を、今ようやく懐かしく思うようになっていた。何でも忘れる性質だ。当然、一日一日の修行など覚えてはいない。しかし、その体に刻まれた痛みは忘れようもなかった。
兄が荷の重さを感じたとて、どうしてそれを責められよう。
改革には血も流れる。善き万民のため、悪しき一人を誅殺せよ。
囲炉裏端に広げた文の最後の一文に目をやって、凉は覚悟を決めた。この名刀は何も語らない。語るのは人、決めるのは自分であった。
凉は翌早朝に家を経ったが、里の者が凉の不在に気付いたのはその翌週のことであったという。
それから三日後。
江戸は月のない寒々とした闇夜であった。凉は、とある豪商の邸の屋根裏に潜んでいた。
改革の要人が囚われの身になっているのが、他ならぬ此処であったのだ。
そっと、凉は床板の隙間から下をのぞきこむ。隻眼の右目が、階下の眩しさに戸惑った。
階下ではちょうど宴会の真っ最中であった。
いい気なものよと凉は思う。
当然、宴会自体は咎められることではない。汗水垂らして稼いだ金をどう使おうとそれは自由であり、むしろ金品を豪勢に使えば経済が回る。無意味な倹約令が徒に人心を疲弊させ、経済を悪化させるということを凉は歴史から学んでいた。
――田沼殿の改革はその点正しい……。
しかし、遊ぶ金の出所が不正なものであれば話は別。米、青物などの相場をもとにした先物取引が日常的になされている昨今の江戸においては、悪しき不正を企む商人も増加するばかり。この美濃屋もまさにそうした悪しき商人の一人であった。さらに改革の要人を拉致したとあれば、これは御公儀への反逆にも等しい。
上座で酒をあおって下卑た笑声を挙げている太った男が美濃屋の主人だろう。凉はわずかに沸いた怒りをすぐに抑え、任務を改めて思い返した。まずは要人の保護が第一である。
下から光が漏れている分、目が闇に慣れるのも一瞬のことであった。屋根裏の様子は全て眼に捉えられている。屋根裏の天井は高く、五尺七寸と長身の凉でも苦も無く歩くことができた。外は冷え込み厳しい晩秋だが、豪勢に起こした火鉢のために内は暖かな晩春の風情である。
用心深く屋根裏全体を見回す。こういう時こそ、むやみに歩き回るべきではないと凉は思っている。歩き難い場所では歩き、歩き易い場所ではむしろ様子を見定めることに専念する。滅多なことでは侵入を許さぬ複雑な構造を持つ屋敷ほど、屋敷の主には油断がある。屋根裏を歩く気配も消しやすいことを、凉は経験で知っていた。
――逆に。
と凉は思う。このような易々と歩ける場所ほど実は罠があり、障壁がある。先ほど見た美濃屋の主人にそこまでの才覚があるとも思われぬが、用心するに如くはなかった。
じっと薄暗闇を見定めた。
屋根裏の隅のほう、一点だけ暗闇の深い所がある。光が全く差し込んでいないのだ。
下は階段かと思った。
しかし、これほど煌々と明かりが灯されて、階段だけ一筋も明かりがないというのは解せない。たとえそこに灯がなくても周りの部屋から明かりが漏れてくるはず。一切の光を遮断するように囲いがされて、まるでこれでは座敷牢ではないか。
と、そこまで考えて凉は思わず苦笑した。そうだ、まさに座敷牢ではないか。探している人物がいるのは……。
物音ひとつ立てずに忍び寄る。
案の定であった。床板の隙間から階下の暗闇を覗き込むとどうやら部屋がある。全くの暗闇であるが、用心深く目を凝らすと朧気ながら人の姿が見えてきた。じっとそのまま目が慣れてくるのを待つ。
これぞ保護すべき要人、と凉は確信した。暗闇の中に放置されているだけでも只事ではないが、さらに座敷の柱に紐状のもので手をつながれている。先ほどの宴会部屋とは対照的に部屋の温度もかなり低く、寒々とした気配が上からでも感じられた。
そうと分かれば、すべきことは一つであった。
凉は慣れた手つきで腰の道具を取り出す。板を刳り貫くための鋸であった。ある程度までの板ならこれで音を立てずに刳り貫くことができる。これは純度の高い鉄で作られており、土を掘って抜け穴を掘ることもできる凉愛用の一品である。
隙間に鋸を差し込むと、数寸四方の穴を開けていく。普段から狭い穴でも通り抜けられるよう、細身の体型を維持している。その穴に縄梯子を通して下りていく。
部屋に下りると、鍵がついている格子状の柵があった。凉の背の高さぐらいはあろうかというその格子の中に男が閉じ込められている。
近寄ると今まで下を向いていた男がこちらを向いた。身動き一つしていなかったが、どうやら寝ていたのではないらしい。
「何奴じゃ」
ささやくような声で男が問う。細く通るような声からは、囚われて猶、幾ばくかの矜持が感じられる。凉は改めてこの男が幕府の要人であることを確信した。
「凉と申す。ご依頼につき、救出に参った」
簡潔にそう言うと、柵に近づく。
「気をつけられよ、そこには罠が……」
男が注意を喚起するが、この部屋に忍び入った時から凉は、その罠に気づいていた。目を凝らして見ないとわからないほどの細糸が、隣の部屋から柵の周りに伸びている。恐らくは不用意に近づいて糸に触れれば、糸の先にある鳴子が音を立て警護の者が飛び出してくるという仕組みであろう。
糸を巧みにかわすと、凉は袂から針を取り出す。このぐらいの錠であれば凉ほどの手練れ、物の数ではない。針を鍵穴に差し込み動かしていくと、十を数えぬうちに鍵は開いた。
「かたじけない、礼を申すぞ」
男は飛び上がるように牢から出てくる。どうやら日に三度の食事は与えられているようで、思った以上に元気のようであった。
「では、あとは逃げるだけ。さ、この梯子を上って」
さすがに部屋から廊下へと逃げることはできない。凉は男を梯子へと誘導すると、その後ろから自分もついて上がろうとした。
と、その時であった。前を歩く男の足元からぎしぎしと床が軋んで、ものすごい音が響いた。
「あぁっ!」
男が悲痛な声を上げる。ただの床の軋みではない。男が罠を踏んでしまったに相違なかった。
急いで床を見ると、確かに男の足元の床だけ微妙に色が違う。いわゆる「鶯床」の一種だろう。人が通れば、大きな音を立てて外部者の侵入を伝えるという仕組み。凉は先ほど無意識のうちにその床に気づき、それを避けて歩いていた。そんな忍者特有の勘をこの男に求めるわけにはいかない。思わぬ失敗に、凉は臍をかんだ。
しかし、もう取り返しがつかない。屋敷中は一遍に騒がしくなった。追手が来るのも時間の問題である。
「早く逃げられよ。ここは拙者が防ぎ申す」
男は見るからに戦い向きの格好ではなかった。元より、幕府の要人である。彼が逃げ切れれば任務は遂行される。その遂行に凉の生死は関係はない。たとえ凉が戻らなくても、彼が戻れれば任務は成功裏に終わるのだ。
相手もそのことを知らぬ男ではなかった。頷くと、すぐに縄梯子で上に登っていく。男も暗闇には目が慣れている。あとは方向が分かるかの問題だが、凉に抜かりはない。屋根裏に五色の米を巻いていた。それを伝っていけば人気の少ない勝手口に出る。そこから脱出することは容易であった。米は後で屋根裏に潜む鼠が食べる。証拠も消えるはずであった。
しかし、安心する暇はない。凉には時間を稼ぐ必要があった。
がらりと隣の襖があいた。
光が急に凉の目に差し込む。目がくらみそうになるのを、奥に退いて交わす。
と同時に、三人の警護の武士が足音荒く入り込んできた。既に抜刀している。凉も件の忍者刀を抜いた。
三対一か、と凉は思う。暗闇に目が慣れている分、闇に引き込んであちらの目が慣れる前に決着をつければこちらが有利だ。
こちらに気づいた武士の中で、一番年若と思われる者が光が届かぬ凉のほうに切り込んできた。
――愚かな。
闇はこちらの領分だ。すっと身をひるがえすと、凉の軽快な動きに年若の武士は目がついてこれない。そのまま刀を振り下ろすと、次の瞬間、武士の首と胴は別のところにあった。これが凉の刀であった。
「なっ……」
一瞬で仲間が切られたと見るや、二人の武士はそれだけで既に萎縮してしまっている。
無理もない。徳川の世になって早二百年。泰平の世が続き、武士と言えど真剣を抜く機会などまず一生に数度あるかどうか。刀を持っているというだけで使うことのないまま生き、また小金のために商人の手先になっている者も少なくない。
しかし、この二人の武士はその中でもまだ気骨のある者のようだった。勇をふるって、右左に分かれて刀を中団に構えて挟み撃ちの状況を作る。
――しかし、これも所詮は道場剣道……。
じりじりと間合いを詰めてくる二人の武士。片方は三十代だろうか、うっすらと口髭をたくわえている。そこまで凉には見えるのだ。
一瞬漂う殺気。それとともに口髭の武士が声をあげながら切り込んできた。
さっとそれを横に交わすと、次は横からもう一人の武士が胴を狙ってくる。後ろに飛び退く凉。敏捷な動きはお手の物である。
飛び退きながら、刀を脚に向けて低く薙いだ。
ぷつんと音を立てて武士の脚が腱から切れた。血潮が噴き出る。先ほど首を落とされた武士の血と混ざり、部屋は血腥い臭いが充満した。
「うぐっ」
脚を切られた武士はその場にしゃがみ込む。当然だ。人は脚を無くしては立ち上がれない。
とどめを刺すのは忍びのやることではない。そんな時間があれば、その場を離れるのを優先させよと教わっている。凉は口髭の武士の動揺を感じ取って、縄梯子のほうに移動した。経験から、このような時に武士はまず仲間を助けようと思うことを凉は知っている。もちろん、その仲間が生存している限りにおいて、だが。
縄梯子を上がっていくと、口髭の武士はその足元を狙って刀を振る。しかし、脚を切られた武士と若い武士の骸が邪魔になり、するすると上へ上がっていく凉の脚を捉えることは到底できない。悠々と梯子を登り終えると、凉は自らが巻いた米に従って勝手口から外へ出た。
要人は、外で隠れて凉を待っていた。
「何故……」
凉は思わず絶句した。普通、救出された男はすぐに逃げるものだ。待っていても帰ってこない場合もある。そもそも、近くに留まっていればまた囚われれてしまいかねない。そうなってしまえば、元も子もないではないか。
「いや、貴殿に礼が言いたくてな」
開いた口がふさがらなかった。名もなき忍びに礼を言う者など、初めてであった。任務から戻らず闇に葬られるのが忍びの常だ。にもかかわらず、それを待ってしかも礼を言いたいなど、何という奔放さだろう。何を考えているのか。凉は呆れ、そして興味を持った。
「戻らないかもしれませぬぞ、忍びは」
「いや、それでも貴殿は戻ると思っておった。現にこうして戻っておるではないか」
ははは、と男は笑った。
自分の身が危険にさらされ、それでもこうして奔放さを失わない。よほどの大人物だと凉は思った。
「名を、お聞かせ願えぬか」
普段は絶対に聞かぬ問いではあった。しかし、この奔放さと接して、気づけば自然と凉の口をついて出ていた。
「拙者の名か。平賀源内と申す」
……平賀源内。覚えておこう、と凉は思った。
と、その時であった。
「そこまでだ、その男をこちらに引き渡してもらおう。この男は自由にしてはならぬ者だ」
有無を言わせぬ太い声であった。
見ると、年の頃四十前と思しき異相の者が、武士五人を引き連れて立っていた。
その五人の中には、先ほどの口髭の武士もいる。屋敷の警護団に他ならなかった。
「平賀殿、早く落ち延びられよ。微力ながら、拙者が時を稼ぎましょう」
平賀は先ほどとは一変した厳しい顔つきで、通りを駆け抜けていく。
追手が三人、その後を追いかける。
「待て」
凉は追手に切りかかっていった。
こちらを向いた一人の切っ先を飛びのいて避けると、なおも平賀を追いかけんとする武士を後ろから走りこんで忍者刀で突き刺す。後ろから突き刺すのは酷ではあったが、致し方ない。断末魔の叫びをあげながら血を流して仲間が倒れるのを見て、残りの二人も駆けつけてきた。
四対一。しかも先ほどの狭い室内とは違って、広い道の上だ。
低い掛け声をあげながら一人が切り込んでくる。それを右手の刀で受けると、左手で懐から素早く苦無を取り出す。忍者刀は短く、片手でも十分扱える。左手の苦無をぐいと突き出すと、相手の懐深くに突き刺さった。
「ぐおうっ」
思いもよらぬ反撃に、相手は思わずよろけた。しかし、相手は帷子を着ている。致命傷にならない。よろけたところを、容赦なく右手の刀を振り下ろす。先ほど武士の首と腱を切った刀は、今度も難なく相手の首を落とした。滝のように血潮が噴き出て倒れていく。
「なっ」
見ていた残り三人に動揺が走る。人数を恃みに襲い掛かる連中は、こうなると意外な脆さを露呈することがある。
その隙をついて、懐の手裏剣を投げ込んだ。日ごろの鍛錬にもとづく鋭い刃が、夜気を切り裂いて襲い掛かるまで一瞬であった。
過たず一人の胸に突き刺さる。手練れの忍びが投げる手裏剣は、銃弾にも匹敵するという。帷子を貫通して、手裏剣の刃が深々と肉を切り裂いた。刃の部分は半分以上肉にめり込んで、外側から見えなくなっている。どうとその場に倒れこんだ。
元より死地を決する覚悟のない連中であった。一人が逃げると、生き残っていた口髭の武士も恐れをなして背中を向けて逃げ出し始めた。
こうなればこちらのものである。追うこともない。
「ほう、手練れのようだな」
刀を抜きながら、異相の武士が言った。
身なりは他の武士と変わるところではないが、雰囲気がまるで違っている。全くの無表情ながら、細い目だけは相手を値踏みするように鋭い眼光を放っている。唇は兎唇で不気味なほどに鮮烈な緋色だった。首筋と頬には深々と刻まれた刀傷があり、その異相を引き立てている。できるならば近寄りたくない、誰しもがそんな印象を抱かされる顔付きであった。
――近寄りたくなければ、近寄ってくるのを待つまでか。
刀を構え直しながら、凉は怪しまれぬように懐を探った。
いつの間にか、月が出ていた。相手の頬を微かに照らす明かりで凉はそのことに気が付いた。彼の傷口は深く、あとわずかで口中にも届きそうなほどであった。
「逃げぬとはいい度胸だ」
逃がすつもりもないのによく言う、と凉は思う。
じりじりと間合いを詰めてくる。息の詰まるような濃密な殺気だった。
――来る。
次の瞬間、物凄い力で切り込んできた。
間一髪その斬撃を避けた、と思った。と、しかし相手はすぐに刀を持ち替えて横に薙いだ。
後ろに飛び退いたが、切っ先が胴をかすめる。忍者着が切られ、下腹部が血でにじむのが分かった。
鋭い音とともに刀が振り下ろされる。それを一瞬のところで退いて、さらに後ろへ。次の下からの一撃を飛んでかわした。
間髪入れず、上段から襲い掛かる刃。実戦慣れした刀捌きであった。その刃を刀で防ぐと、鈍い音とともに刀がぶつかる。両手でも防ぎきれぬ強い圧力をかけてきている。
蹴られてその衝撃に後ろに倒れこんだ。あまりの蹴りの力に思わず膝を地につけてしまう。
そのまま近寄ってくる武士。
「これまでだ」
武士が刀を振り下ろした、その時だった。
足元で、火薬が爆発した。
さきほど懐から出して仕掛けて置いた火薬であった。ちょうど、先ほど凉が立っていた場所に今武士が立っている。引火までの時間を計算に入れて、まさにその計算に違わず、その場まで武士は近寄っていたのだ。
衝撃に倒れこむ武士めがけて、凉は刀を突きたてた。
声にならない叫びをあげて絶命したのを見届け、凉はおもむろに刀を収めた。
任務は成功させたが、彼の心に満足感はなかった。今回は何人殺めてしまったか、考えたくもない。
彼の周りには骸が転がっていた。彼らにも親がい、子がいるだろうと考えると凉の心は痛んだ。早く忘れてしまうのが一番であった。
酒場に行こう、と彼は思った。
歩き出した彼を、ただ、青白い月だけが見ていた。
初めまして。佐伯と申します。
このたびは、自分の作風とこのサイトの雰囲気とはそぐわないだろうなと思いながら登録させていただきました。
そして、処女作としてこの「世直しの風、凉」を投稿させていただいたわけですが、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただけたこと、まずはありがとうございます。お楽しみいただけましたでしょうか。
もし感想などいただけましたら、泣いて喜びます。皆さまのお声がかかれば、次回作など書いていきたいとも思っております。
今回救出した平賀源内と凉はどのように関わっていくのか、あるいはいかないのか。また、さらに混迷を極める江戸幕府の改革にどのように凉は参加していくのか――。いろいろ構想を練っているところではあります。
さて、私の名前を検索していただければわかりますように、普段は恋愛小説(官能表現有)を中心に書いております。
そちらのほうは、今回の作品以上にそぐわないだろうと思い、遠慮させていただきましたが、今後もしかすると掲載するということもあるかもしれません。リクエストなどありましたら是非!
今後ともよろしくお願いいたします!!