ⅩⅦ
頬を伝う涙を止められないまま、駅のホームに立った。顔も見たことのない人たちから、不躾な視線をぶつけられる。偶然、視線が交わった誰かに気まずそうな表情を浮かべられ、すぐに無関心を装った瞳でそらされた。
傍らに立つ英太にも、居心地の悪い思いをさせているのだろうと、申し訳なさが心の中に募った。知らず知らずのうちに、視線が薄汚れたホームへと落ちて行く。繋がった手のひらから逃げるように、足を横に引きずって彼から距離を取ろうとした。
「心配すんな」
僕の手を握る手のひらに、ぎゅっと力が込められる。離れようとしていた足を、再び元の位置に戻した。その様子に軽く笑みを漏らした英太は、僕のちっぽけな心配事を散らすように、空いた方の手で髪をくしゃくしゃと撫ぜてきた。
突然のことに、身を捩って抵抗を示すが、英太の手のひらは止まらない。俯けた顔を上げると、いつものように英太は破顔する。そのあたたかな瞳に、呼吸の仕方を思い出す。
髪を優しく手櫛で撫ぜつけた彼の手のひらが離れていくのを、名残惜しむように涙で濡れた瞳が追いかける。
僕の嘘や強がりなんて、彼は容易く見抜いてしまう。それなのに、僕の話す準備が出来るまで、ずっと傍で待っててくれる。英太と繋がったままの手のひらを、ぎゅっと握り返した。
僕だったら、たとえそれに気付いたとしても、どうしたら良いのか解らなくて、見て見ぬふりをするだろう。そうやって無知を装って、互いに傷付かない距離を保ちながら相手と接していた。最初から相手を理解しようとせず、臆病な自分に格好がつくような言い訳をしていた。世の中の殆どの人間がそうするように。
ホームに滑り込んだ電車の扉が、ゆっくりと開く。ひんやりとしたクーラーの風と、満員電車特有のこもった匂いが、外へと流れ出した。乗客が降りるのを待って、混み合う車内に足を踏み入れる。人と人の間で手を繋いだまま、向かい合うようにして立っていた。
涙の雨がゆっくりと止んでいくのを感じる。いつもは男子の平均もない身長に不満を覚えていたが、今日ばかりはそれに感謝した。落とした視線の先には、僕と英太の黒い革靴が向き合うように並んでいた。
満員電車に揺られていると、すぐに降りる駅の名前を告げるアナウンスがかかった。英太に手を引かれて、他の乗客から押し出されるように、ホームへと降り立った。コンクリートの上に溜まった熱気が、冷えた身体に心地良く感じられる。生温い空気を、言いたい言葉ごと深く肺に流し込んだ。
降車客の一団が、エスカレーターに向かって列を成しながら進んで行く。減った数を埋め合わせるようにして、倦怠感を抱えた人達が階段を下りてホームへと集まってきた。
ポケットに入れたケータイが震えて、メールの受信を告げる。階段に向かう英太の手をほどき、足を止めてケータイを開くと、母親から少し時間を空けて、二通のメールが届いていた。
軽く息を吐き出しながら返信ボタンを押して、英太の家に泊まる旨を母親にメールをする。少し前を歩く英太の背中を見ながら送信ボタンを押し、ポケットに折り畳んだケータイを手早く戻した。
僕が歩き出す音に気付いて、英太がこちらを振り返る。当たり前のように手のひらを差し出した彼のもとへ小走りに駆け寄って、戸惑うことなくその手を掴んだ。ポケットから出たパンダのストラップが僕の歩調に合わせて、ゆらゆらと揺れていた。
改札を抜けて駅を出た僕等は、整然とした広い歩道を通って英太のマンションへ向かった。精巧に作られたジオラマのような街並みに、僕はいつになっても慣れることが出来ない。
ガラス張りのエントラスで、英太が暗証番号を馴れた手付きで打ち込む。視線を宙に向け、静かにすぎてゆく空間に息をひとつ零した。
エントランスロビーに通じる扉が開き、彼に手を引かれて中へ入ると、生活音を排除した空間に瑞々しい純白のカサブランカが咲き誇っていた。花や葉の先を一部の隙もなくピンと伸ばして、華麗な広がりを見せている。きっと名のある人が生けたのだろうが、僕の瞳には景色に埋没した精巧なフェイクとしか映らなかった。
足音を高い天井に響かせながら、磨き込まれた床を歩く。街の喧騒から切り離されるように淡い間接照明があてられ、静寂を一層深めている。
このマンションには、人が住んでいるのか解らないくらいの静けさが漂っている。この建物の中で、英太以外の住人を数人しか見かけたことがない。僕が住むような、地域の繋がりを求められる郊外の住宅地と違って、人との関わりから生じる煩わしさを極力省いた造りになっているのだろう。
一階に止まっていたエレベーターに乗り、英太の指が最上階のボタンを押す。頭上に設けられた回数表示のランプを見るふりをしながら、口を閉ざしたままの横顔へ視線を移した。彼の表情は何も語ってくれず、その瞳は沈黙を深めるだけたった。それを見なかったふりをして、繋がる手のひらに力を入れた。
音もなく数秒で上昇したエレベーターは、到着の合図を控えめに鳴らす。扉が開くと、いつものように英太が扉を押さえてくれて、僕は先に扉を抜けた。繋がった手のひらが離れた瞬間、指と指との間に涼やかな空気が通り抜けるのを感じた。知らず知らずのうちに、緊張している自分がいた。
ワンフロアに一つの住居しかないこのマンションは、エレベーターから下りると、一直線の短い廊下の先に部屋の扉がある。ポケットから鍵を取り出して、英太は深い色合いの木製の扉をゆっくりと開けた。その微かな音が、誰もいない廊下に響き渡る。その音以外は何も聞こえなかった。
ドアの向こうに広がる部屋は、静やかな闇に沈んでいた。玄関のセンサーが僕等を感知し、柔らかな明りが灯される。
壁面をほとんど窓で囲まれた広いリビングに足を踏み入れると、宝石箱を落っことしてしまったような夜景がガラス越しにきらきらと輝いていた。
暗がりの中、引き寄せられるように窓へ近付くと、今度は部屋の明かりが付けられる。闇に覆われた部屋が一瞬青白く光って、すぐに光が部屋へと馴染んでいった。照明の明るさに負けて、色褪せてしまった外の景色を名残惜しく見つめながら、僕は分厚いブルーグレイのカーテンを閉めた。
英太がリビングの隅に置かれた黒い棚をひとつひとつ開けて、何かを探していた。棚の上の花瓶に生けられた向日葵が、落ちついた色調で統一された部屋にビビッドな色彩を加えている。季節の感じられない部屋に、鮮やかな夏を匂わせていた。
「あった!」と弾む声がする方に目を向けると、四角い薬箱を手にした英太がいた。それを見て、暫く思考が空白になるのを感じた。あぁ、と唇から漏れる言葉と共に手のひらを開いて、血の固まった傷口へ視線を落とした。
「ほら、消毒するから、手を洗って来いよ」
使い込まれた木製の薬箱をガラスのローテーブルに置いて、英太はキャメルの皮張りソファに腰を下ろした。
彼に促されるようにしてキッチンに行き、手のひらを流水で洗うと、乾いた傷口に痺れるような痛みが走った。ズボンのポケットからハンカチを取り出して、手のひらについた水気をそっと拭き取る。水滴に混ざって、真っ白な布地に淡い朱がさした。
薬箱から取り出した脱脂綿に消毒液を染み込ませ、英太は優しい手付きで傷口にそれを押し当てた。ピリピリと裂くような鋭い痛みに思わず顔を顰めると、傷口から脱脂綿を一旦離され、さっきよりもずっと優しく手のひらにあてられた。
ゆっくりと時間をかけて両手を消毒されている間、隣り合って座る僕等に言葉はなかった。それは、いつもの穏やかな沈黙だった。
歪に開いた傷口に軟膏が塗られて、その上へあてられたガーゼを包むように真っ白な包帯が巻かれた。その鮮やかな手付きに目を奪われながら、僕はこれが他人事のように思えてしまった。感じる痛みは確かに自分のものなのに、今までのことがすべて嘘のように感じられる。
嘘なら良かったと、まだ思っていた。労わるような手付きで包帯を巻く英太を見下ろすと、目線だけを上げた彼と目が合う。あたたかな瞳で綺麗に微笑まれ、胸が痛くなった。
「よし、これで大丈夫。そういえば、貰い物のバームクーヘンあるけど、食う?」
傷口の手当てを終えた英太は、薬箱を片付けながらいつもの笑顔で言った。無表情で俯いたまま、僕は小さく首を縦に振る。
ちょっと待っててな、と薬箱を手に立ち上がった彼は、それを元の棚にしまって、小走りにキッチンへと向かった。僕と英太しかいない部屋の中に、彼の声だけが響いて、静寂に吸い込まれていった。
残された僕は、ソファの背もたれに身体を預けて、天井を仰いだ。キッチンから、英太がケトルに水を注いでいる音が聞こえてくる。コンロに火をつける音が、漂う沈黙を焦がした。
持て余す程の空間で、英太は幼い頃から多くの時間を一人で過ごしている。家族と暮らした時間は数えるほどしかなかった、と茶化すような口調で言われたことがある。
僕はその時、彼の表情をちゃんと見ていなかった。いや、もし見てたとしても、そこから彼の寂しさを汲み取ることが出来なかった。こんな広い部屋に一人ぼっちで居続けるのは、果てのない孤独と一緒に住むのと同じことだ。耳が痛くなるほどの静寂の中、彼の弾くピアノだけが唯一の生きた音であることを想った。
英太の父親は指揮者で、母親はピアニストだ。二人とも、今は日本を飛び越えて、世界が演奏活動のフィールドになっている。そのため、家を開けていることが殆どで、一人っ子の英太曰く、生身の人間である両親を見るより、テレビや雑誌というメディアを通して両親を見ることの方が多かったそうだ。
入学して間もない頃に、このマンションで開かれたホームパーティへ呼ばれたことがある。仲睦ましげに寄り添って客人の世話をしている夫婦の姿は、ハリウッド映画に登場する外人のようだった。
自分の生きる現実に、眩いばかりの輝きに満ちた世界が存在するのだと初めて知った。すごいね、と単純な感想を英太に告げると、彼は複雑な表情の上に、曖昧な笑みを浮かべて、返事を濁していた。
現実の上には、いとも容易く虚構が作られてしまう。そして、いつのまにか、虚構が現実に摩り替わってしまっている。そのことに、僕はまだ気付いていなかった。
現実と虚構の境目は果てしなく曖昧だ。人が信じれば、それは現実になり、人が疑えば、くるりと虚構に変化する。虚構を理解しているつもりで、僕は虚構に飲み込まれていた。
英太は日本語が喋れるようになる前にピアノが弾けるようになったそうだ。ホームパーティで彼の母親が冗談めかしながら言っていた。
彼女が自慢するように、彼のピアノの腕が国際コンクールにも通用するのは事実だ。ただ、その時は、周囲の反応が大仰に沸き上がる度、胸の奥が淀んでいった。
「ねぇ、英太。ピアノ弾いて欲しいな」
ほっこりと甘い香りを漂わせ、お盆を持って来る英太の気配を感じる。ソファに座ったまま身を捩り、部屋の真ん中にあるグランドピアノを見つめた。漆黒に包まれたピアノの表面は、水面のように天井の明りを反射させていた。ピアノから彼へと視線を移し、小首を傾げながら、彼を真っ直ぐに見つめて返答を待った。
英太は軽く肩を竦めながら、曖昧に肯定の意を示した。ミルクティのマグカップと分厚く切られたバウムクーヘンを乗せたお盆をローテーブルに置いて、僕の隣へ腰を下ろす。
「その前に、こっちが先な」
クリーム色の薄い層が重なるバームクーヘンを乗せた皿が、ずいっと差し出される。丸い皿に乗せられたバームクーヘンと、堅い表情を浮かべる英太を交互に見つめた。
力のない笑みを搾り出しながら、僕は白い皿を受け取る。その瞬間、英太が安堵の想いを吐き出すのが解った。まるで腫れ物だ。
銀のフォークで切り取った物体を、ゆっくりと口に運ぶ。バームクーヘンだ、という事実以外何の感慨も沸かなかった。無味乾燥な物を口へと運び、飲み込むための義務として咀嚼する感覚だった。
湯気の上がるミルクティを飲みながら、英太は僕の方を横目でうかがう。宙に止めたフォークへひとかけのバームクーヘンを刺したまま、僕は彼の視線を受け流した。機械的に口へと運んだ二口目も、まぎれもなくバームクーヘンであった。
英太が飲みかけのカップを置いて、やれやれと言いたげな苦笑を零した。反応を示さない僕の頭を、小さな子どもにするような手付きで優しく撫ぜた。
途端に、口内で咀嚼していたバームクーヘンの破片がほろほろと溶けるように崩れた。優しく広がる甘い味と洋酒の風味に、忘れかけていた何かがふわりと舞い戻ってくる。その想いに言葉をのせようとすると、それは霧のように散っていった。ただ、それを幸せだと感じたのは確かだった。
再び、フォークで切り取ったバームクーヘンを口に入れ、柔らかな生地を歯で噛み砕いた。舌が忘れていた味覚を思い出す。上品な甘さの中から洋酒の仄かな苦味がほどけて、鼻の方へと抜けていく。
彼方に消えたと思っていた食欲が、みるみるうちに湧き上がってきた。フォークをせっせと動かし、あっという間に皿の上を空にした。
「やぁーっと、笑ったか!」
空っぽの皿を見つめて、満足そうに息を吐き出す僕の頭を、英太は大きな手のひらで、ぽんぽんっと優しく撫ぜた。
包帯の巻かれた手のひらで、そっと自分の頭に触れながら顔を上げると、向日葵のような大輪の笑みを咲かせる英太と目が合った。彼の笑顔が凍り付いた表情をとかして、ようやく笑い返すことが出来た。
「……うん、ありがとう」
単なる照れなのだろうが、顔が熱くて仕方ない。自覚するや否や、英太の方を真っ直ぐに向けなくなり、視線を腿の上に置いた両の手のひらに落とした。
今の僕は耳まで真っ赤になっているに違いない。俯いたままマグカップへ手を伸ばし、ぬるくなったミルクティを一口飲み込んだ。