ⅩⅥ
駅前のスターバックスに辿り着いた僕は、一階のカウンターで冷たいキャラメルマキアートを注文し、それを手に階段を上がった。
人で溢れる二階の客席を見回しながら英太の姿を探していると、この前来た時と同じ壁際の席に座る彼を見つけた。こちらの存在に気付いた制服姿の英太は、椅子に沈めていた身体を起こして、僕に大きく手を振った。
「優は、相変わらずキャラメルマキアートだよな」
「英太こそ、相変わらず何も入ってないコーヒーじゃないか」
「コーヒーを甘くするなんて、」
「はいはい、邪道って言いたいんだろ?」
彼の言葉尻をすくい、からかうような口調で言い返す。自分の台詞を途中で奪われて、言葉を詰まらした英太は、少し汗をかいた透明のカップを引き寄せて、ストローを口にくわえた。拗ねた子供のような態度に笑いを噛み殺しながら、椅子を引いて彼と向き合うように腰を下ろした。
キャラメルマキアートを一口飲み込むと、いつもと変わらない、ほっとする甘さが喉を潤した。ストローを口から外して、深い息をゆっくりと吐き出すと、自分の肩から力がゆるゆると抜けていった。
英太の笑顔は不思議だ。無意識に覚えてしまった緊張がひとりでに綻むようなあたたかさを感じる。
チェス盤のような模様が施された丸テーブルの上に、飲みかけのカップを置いた。その瞬間、英太と視線がぶつかった。すぐにお互いがお互いの視線を外して口を開くが、言葉になることはなく、代わりに溜め息が二人の唇から零れ落ちた。
何か言わなきゃならないという焦りが、ふと頭をもたげる。漂う空白を埋めたくて、意味もなくカップを持ち上げ、口もつけずにテーブルへ戻した。
それは、彼と一緒にいる時間の中で、初めて味わった感覚だった。
いつも二人で共有している自然な静けさじゃなかった。お互いの出方を探るように、言葉を喉奥に潜めている沈黙だった。ざわざわと胸の内が騒ぎ出し、僕は口元をぎゅっと引き締めた。
英太といるはずなのに、言葉が上手く出てこない。何でもないのだと自分に嘘をついて笑顔を作ろうとしたが、上手く表情に描き出せなかった。
テーブルに置かれた自分のカップを両手で包みこんで、失敗した笑みを隠すように、視線をそこへと落とす。透明なプラスチックの表面から結露した雫が、手のひらを濡らした。
「……なぁ、優」
彼から名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げた。そこで初めて、自分が俯いていることに気付かされた。胸の内を見透かされてしまうのが怖くて、英太の瞳を見つめ返せなかった。
「お前、何かあっただろ?」
「何か……って、別に何でもないけど……」
「嘘だろ。何もないって、顔じゃねーもん」
挑発するような彼の言葉に反応して、宙に泳がせた視線を彼に向けてしまった。黒曜石のような深い光を宿す彼の瞳に、臆病な僕の姿を映されることが怖くて、すぐに僕は目をそらせた。いけないと思いつつも、彼を真っ直ぐに見つめることが出来なかった。
停滞する沈黙を拭い去りたくて、僕は何度も笑顔を作ろうと試みたが、悉く空しい結果に終わった。その度に溢れ出す気まずさをごまかすように、テーブルの上に置かれた自分のカップに視線を落とした。
磨かれたテーブルの上に、天井の光が踊るように反射している。テーブルに置かれた英太のカップから、結露した雫が次々に落ちて行った。
突然響き渡った甲高い笑い声に、僕は肩をはねさせる。声がした方へ視線をやると、大学生の集団が席を立ち、群をなして階段へ降りて行った。彼等とすれ違うように白いマグカップを手にしたサラリーマンがやって来て、開いた席へと腰を下ろす。
それぞれの人がそれぞれのテーブルの上に、彼等だけの世界を構築している。忙しなく人が行き交い、駆け足に時を消耗していくこの店の片隅で、僕等二人だけが取り残されてしまったかのように思えた。
天井を仰ぎ見ると、雫型のペンダントライトが横並びに吊るされており、柔らかなオレンジが辺りを照らし出している。力ない笑みが自分の頬に滲むのを感じた。
「まったく……君には、嘘がつけないや」
英太の方を向いて、失敗した情けない笑顔で言った。
「それは、光栄だな」
そう微笑を浮かべながら言葉を返して、僕の頭を優しく撫ぜた。
それは、何でもないことだった。いつものように、英太が僕の頭を撫ぜただけのことだった。それなのに、僕の心はすばるさんを想ってしまった。彼の手のひらのあたたかさは、すばるさんのそれと酷く似ていた。
ベコリ、と篭もった音をたてて、プラスチックのカップが白い筋を走らせて歪んだ。カップを握る両手に力が入るのを感じた。
くるくる、くるくると、押し込めた記憶の結び目がほどけて、溢れ出すように過去が解き放たれる。こんな所で、こんなにも呆気なく、記憶の波が僕を飲み込んでいった。
英語の練習問題に正解したり、学校のテストでいい成績を取ってくると、家庭教師のすばるさんは笑顔で頭を撫ぜてくれた。
中学生の僕は、照れ隠しに口を尖らせながら、彼に文句を言っていた。「僕はもう中学生です」と僕が言うと、彼はしたり顔で「義務教育中のお子様だろ」とからかった。
呆れながらも、ふっと柔らかな笑みを零す彼の顔が頭から離れてくれない。もう一度、あの頃に戻れたらいいのに。思うだけ虚しくなるだけなのに、そう思わずにはいられなかった。
瞳に映る景色がぐらりと滲んだ。胸の奥からせり上がってきた涙を、どうにか抑えようと大きく息を吸い込んで、強くまばたきをする。目の前に座る英太の顔を見て、今が現実だと必死で自分に言い聞かせる。これが、すばるさんを失った僕の現実だと、何度も何度も。
カップを握り締めた手を緩める。細かに震える指先をカップから離した。空いた手のひらの行き場をなくして、ケータイを取り出そうと鞄を開けた瞬間、古い一冊の文庫本が目に飛び込んできた。
カバーのない薄汚れた表紙には、茶色のインクで『こゝろ』という文字とクラシカルな唐草模様が施されていた。ズボンのポケットの中で、ケータイが震えたのが解かったが、取り出すことが出来なかった。
見つからない答えを探して、僕が読み続ける『こゝろ』。すばるさんが手にしていた一冊の『こゝろ』。広小路先生が大学で研究対象にしていた『こゝろ』。
すべてが、すべてに、絡まり合い、思考の糸が一本に繋がるのを感じた。それは、僕が最も恐れていたことだった。
本当は知っていた。すばるさんの好きな人も、広小路先生の好きな人も、僕の想いが一人相撲だということも、すべてに気付いていた。信じたくないから、曖昧にしたまま判断を下さず、現実から逃げていた。
眼前に広がる甘い幻想に浸っていた僕は、頬を打たれるように現実を突き付けられた。突然の鋭い痛みに、愕然として動けなくなってしまう。
目を覚ましてしまった僕は、縋る夢を失った。それなのに、すべてに気付いてしまったことを、泣き出したいくらいに喜んでいる自分もいた。
いつかの授業中、広小路先生は夏目漱石の研究をして卒論を書いたと言っていた。記憶の水底に沈んでしまうような、日常の些細な一言が、今頃になって浮上してきた。
あの時、すばるさんが持っていた『こゝろ』は、大学院で英米文学を研究していたすばるさんのものではなく、東桜学園で教鞭をとっていた広小路先生のものであったに違いない。
何でだろう。何でこんなに好きになってしまったんだろう。叶うはずない想いなら、苦しむ前に諦めてしまえば良かったのに、どうしてそれが出来なかったんだろう。
「優?」
「え……と。……うん、ちょっとボーっとしてた……」
開けた鞄から手を離して、首を横に振りながら、自分に言い聞かせるように言った。
震える指先を隠すために、拳を作ってテーブルの下の腿に乗せる。落ちていく沈黙を掻き消すように、白々しいほどの明るさで言葉を続けた。
「そうそう、いきなり電話してごめん。今日、酉さんのレッスンだったよね」
「大丈夫大丈夫、今日の分は終わったし。……なぁ、俺には、言えないことなのか?」
話を摩り替えようとするが、すぐに元に戻されてしまう。言葉を詰まらせた僕は、曖昧な笑みを浮かべて、その場をやり過ごそうとした。言葉と言葉の間に横たわる沈黙がつらかった。
僕の姿が映った彼の瞳に、視線が釘付けにされる。それは、隠された真実を映し出してしまう鏡のようで、思わず視線をそらしてしまう。すべてを彼に話したいけれど、すべてを話して彼から拒絶されることが、今の僕には、何よりも怖かった。
「別にそういう訳じゃ……。あっ、そうだ。ねぇ、英太……その、君の好きな人に気持ち、気付いてもらえた?」
沈黙の泥沼にもがきながら、苦し紛れの問いを口にする。コーヒーのカップを掴んだ手を宙で止めた彼は、僕の方を難しい表情でじっと見つめた。何も語らない彼の瞳に、僕は平然を装って小首を傾げる。
ざわめきに溢れる店内で、見つめ合う僕等の間だけ、ぽっかりと空洞が出来たように沈黙が流れる。隣のテーブルにいるOLらしき二人組が腕にはめた時計に目を落として、軽やかな笑い声を振り撒きながら席を立ち、店を出て行く。爽やかなフレグランスの残り香が鼻を擽った。
ことん、と小さな音を立ててカップをテーブルに置いた英太は、表情はそのままに、僕に合わせて首を軽く傾げた。ふっとその表情に苦い笑みを浮かべて、彼は首の後ろをかきながら、溜め息と共に言葉を零す。
「うーん、実は、それが……よく解んないだけどなぁ」
「解んないって……、その子のこと、好きなんだよね?」
「そうなんだけどさー……」
難しい表情はそのままに、彼らしくない歯切れの悪い言葉が漏れるように出てきた。
「本当は、いないのかなー?」
英太が浮かべる苦い表情を、これ以上見ていられなくて、明るく茶化すような口調を作って尋ねると、間髪入れず切り返される。
「いやっ、いるよ! でも……友達、なんだよ……アイツは。だから、好きって言ったら……もう傍にいられなくなるかもしれないだろ? ホント……友情とか、信頼とか、そういうものを掛け金にしなきゃ、告白って出来ないのかなぁ……」
始めの勢いは言葉と共に削ぎ落とされていった。彼のピアノの楽譜に書いてあったデクレッシェンドという記号を思い出す。俯き加減で想いを語る彼の最後の一言は、消え入りそうに小さかった。
英太の悲哀を滲ませた言葉が、心の片隅に隠れていた僕を光の元へと引きずり出す。腿の上に置いたままの手のひらに、自然と力がこもった。
何かアクションを起こすことは、何かを変えてしまうことだ。たとえ、その結果が望んだものであろうとなかろうと、変化を求めれば、代償を支払わなければならない。
好きだから、好きだと言えなかった。
言ってしまえば、その瞬間だけは楽になるだろう。でも、言葉にしてしまえば、今まで築いてきた二人の関係が変質して、これ以上、その人の傍にいられなくなる。
好きな人といるあたたかな時を、僕は諦めることが出来なかった。自分の想いに口を噤んでも、彼の傍にいたかった。それがどんな苦しくて、情けないことか、理解していたというのに。
すばるさんも、ずっと傍にいてくれた英太の存在も失いたくない。僕が本当に失いたくない「彼」は、一体誰なのだろう。
すばるさんを諦めることも、嫌いになることも、僕にはまだ出来る気がしなかった。でも、それを英太に打ち明けた所で何になるのだろう。単なる自己満足で、彼を悪戯に困惑させてしまうだけだ。
握り締めた手のひらが突き刺すような痛みを訴えた。塞がりかけたカサブタを爪で破ってしまったのだろう。
声をあげて泣いてしまいたい。拳に力を入れて、その気持ちを押し殺した。
息を吸い込んで、心配そうに見つめる英太の方を真っ直ぐに向いた。今度は失敗せずに、綺麗な笑みを描き出せた。鼓動が速まるのを感じ、心の中でそっと自分に言い聞かせる。大丈夫、まだ笑えるから、大丈夫。壊れたプレーヤーのように、何度も繰り返した。
ふっと緊張の糸が切れる音がした。言ってしまおうと思えた。たとえ、目の前に座る彼を失ったとしても、すべてを話してしまおうと思えた。それが、醜く歪んだ執着という愛情であろうと、にわかに信じ難い現実であろうと、自分の中だけに溜め込むのは、もう限界だった。
「……僕と、一緒だね」
「え?」
「僕も、すばるさんが、本当の本当に、大好きで。だから、好きって一度も言えなかった」
大きく息を飲む音が聞こえた。驚きに目を見開き、信じられないものを見るような瞳で、英太は僕を見つめた。
その視線の意味を悟った僕は、口元に乾いた微笑を浮かばせながら、無言で頷く。まさか、僕の片思いの相手が、同じ高校の教師で、しかも男だったなんて想像することさえ出来なかっただろう。
「錦先生だよ。うちの高校で英語を教えている。僕、中学三年の時、大学院生だったすばるさんに受験勉強見てもらっていたんだ」
一度飛び出した気持ちが堰を切ったように溢れ出す。表情をなくした顔で、あらかじめ用意された台本を読むように、温度のない無機質な言葉をつらつらと唇に乗せた。
「僕の片想いは、全部英太の知ってる人の間で成り立っていたんだよ。気持ち悪いと思ったよね。うん、思ってもいいよ。だって、普通に有り得ないよね。去年の夏に、僕」
「――優、ストップ」
英太の手のひらが、僕の顔前に突き出された。僅かに曲がった五本の指が、彼の動揺を物語っている。突然聞かされた事実に困惑しながらも、眉間に皺をよせて言葉を探そうとする英太の表情を、哀れみに近い瞳で見つめる。自嘲めいた薄っぺらい笑いが、口から漏れた。
僕のことなんか、気持ち悪い、と蔑めば良いのだ。いっそのこと、飲みかけのコーヒーを僕の顔にぶちまけて、そのまま汚れた顔をぶん殴ればいい。下手に優しい言葉をかけてもらったり、安い同情をされるよりも、そっちの方がずっと楽だった。
英太の手のひらがゆっくりと下ろされる。その瞬間、彼の瞳の奥に潜む痛みに、僕は気付いてしまった。言葉の刃で彼を傷付けようとしていた自分の存在が酷く醜く感じられた。
とんだ茶番だ。彼に認めてもらいたいと願いながら、認めてもらえるわけがないと勝手に決めつけて、自分が傷付く前に彼を傷付けようとしていた。
それが僕の限界だった。彼の優しさが、痛くてしょうがなかった。そのあたたかさは、冷たい蔑みよりもつらかった。
「ごめん……。いきなり、こんな……」
自分で言い出したことなのに、沈黙が居たたまれなくなって、痛いほどに握り締めた拳をといた。痺れた指先で、鞄から『こゝろ』を取り出し、テーブルの上に置いた。僕の様子を無言でじっと見つめていた英太が、子犬のように軽く首を傾げながら問い掛ける。
「優が、いつも読んでる本……だよな?」
「うん。夏目漱石の『こゝろ』。受験の前日に、勉強を教えに来てくれたすばるさんの鞄の中にね、すっごい大切そうに入っていたんだ。この本は、すばるさんが大好きだった人の研究テーマなんだって……今頃になって、やっと気付いた」
「……今でも、錦先生のこと、好きなのか?」
「解らない。でもね、英太。僕、アドレス帳からすばるさんの連絡先を消せたの、ついさっきなんだ」
女々しいことしてるよね、と自嘲するように呟いた。
テーブルの上に置いた両手に視線を落とす。右手と左手が離れないように指を絡め、しっかりと握り合わされている様は、まるで神に赦しを請う罪人のようだと思えた。懺悔をしたからといって、赦される訳ではない。それでも、震える指先を誰かに赦して欲しかった。
「……やっぱり。冷たくなってる」
僕のちっぽけな祈りを守るように、英太の手のひらが優しく両手を包み込んだ。彼の手のひらは僕のそれよりも大きくて、凍え切った両の手が温かさにすっぽり包まれた。力のない笑みを浮かべて、僕は顔を上げた。
英太の手の上に、連なるように落ちていく水滴の音が聞こえる。じんわりと伝わってくる彼の温かさに、気が付くと涙を流していた。
さっきはどうにか押し留められたのに、今度はぎゅっと目を瞑っても、ぐっと口を引き締めても、止まれ止まれと心の中で唱えても、涙は止まってくれなかった。
「ごっ、ごめん。こんな所で、泣いたら、迷惑だよ、ね……。ごめん……僕、もう帰るよ……」
今日はありがとう、と顔を俯けて早口に告げる。名残惜しく想う気持ちを心の隅へと追いやって、彼の手のひらを振りほどいた。鞄と飲みかけのカップを手にして、逃げるように席を立った。
英太が後ろで何か言ったような気がしたけれど、聞こえないふりをした。涙で濡れた表情に力を入れ、一度も振り返らずに急いで階段を降り、逃げ出すようにして店の外へと飛び出した。
自動ドアが開いた瞬間、道行く人にぶつかりそうになった。手の中のカップが大きく揺れて、殆ど口をつけずに水っぽくなったキャラメルマキアートが手のひらに零れ落ちる。
ちょうど帰宅ラッシュの時間帯にぶつかっており、駅前の大通りは人でごった返していた。宵闇のヴェールにすっぽりと覆われた街は、現実を忘れてしまったかのように、芝居めいた騒がしさに塗れていた。
溢れかえる喧騒の中で、僕は一人ぼっちになってしまった。一体、僕はどこに行けばいいんだろう。涙の痕の残る情けない顔では、家に帰れそうもない。街路に溢れかえる人の波に追されるようにして、どうにか歩みを進め始めた。
人混みは僕に立ち止まることを赦してくれない。時折、ぶつかってしまった人から、冷ややかな視線や舌打ちを浴びせられ、心が鈍く軋んだ。そのうちに、流れていた涙も止まってしまった。
泣く場所がない。数時間でいい、数十分でもいい、涙を流しても赦される場所が、この街には存在しているのだろうか。
どこに行けばいいのかさっぱり見当がつかない。もしかしたら、僕の居場所なんて、最初からどこにもなかったんじゃないか。
頭をふと過ぎった考えが、僕の心を深く抉った。
この街は、人で溢れている。視界のすべてを覆っているのは、街の景色に解け込んだ顔の無い人、人、人。それが、どうしようもなく、寂しく想えて仕方なかった。
「優っ! 待てよ!」
後ろから肩を掴まれる。彼の声が雑踏を押しのけて、凛と響いた。
振り向かなくても、それが誰だか解る。望んで一人になったとはいえ、このまま振り返って縋りついてしまい衝動に駆られた。
そこにいたのは、息を切らしている英太だった。
彼だけが、僕の視界の中から浮かびあがる。動く景色の中で、一人ぼっちの僕はやっと顔を持った人を見つけられた。
「本、忘れ物」
英太から差し出された『こゝろ』を受け取ろうと右の手のひらを開いた。手にしたはずのカップがいつのまにかすり抜けていたことに気付く。深い溜め息を身体の奥から吐き出すと、抜け殻のような空虚な心が僕を蝕んでいくのを感じた。
「手のひら、血が滲んでる……」
ぽつりと消えそうな言葉を呟いた英太は、泣きそうな表情を浮かべて、僕の右手をそっと労わるように握った。ずっと拳を握り締めていた手のひらの内側には、赤黒い月のような爪痕が刻まれていた。
彼の表情に、僕は何も言えなくなってしまう。手のひらの傷よりも、彼のつらそうな表情の方が、ずっとずっと痛く感じられた。
「今日は家に来いよ。明日、休みだし、泊まっていけばいいじゃん」
開けたままになっていた僕の鞄に本を滑らせた英太は、沈黙を拭い去るような明るい声で僕に言った。
僕の返事を待たずに手のひらをそっと握り、駅の方へと迷うことなく歩き出した。何も言えず、引っ張られるようにして、英太の後をついて行った。
あらゆる感情がごちゃ混ぜになった人混みを、魚が泳ぐように歩く。速い歩調に引っ張られていくうちに、段々と地面の感触を足裏に感じ始める。
身体の中に心が戻ってくるような気がした。人混みに紛れているとはいえ、高校生の男が二人して手を握って歩いている様に、不躾な視線を浴びせられたくないと思い、泣くのは必死で我慢した。
「ねぇねぇ、アレさ、男同士で手ぇ繋いでない?」
通り過ぎ様にからかうような笑いを浴びせられる。思わず息をつめて振り返ると、髪の毛を明るく脱色して、素顔が解らないほどの化粧を施した女子高生の集団が、僕等の方にちらちらと視線をやる様子が目に映った。
「アハハッ、ウチの高校にもホモっぽいの奴いるけど、そーいうのって、マジ、ウケる!」
「そーいえばさぁ、ソイツにコータ取られたーってカオリ言ってたよね」
「ていうか、カオリと付合うとか、コータ、マジ趣味悪くね? フツーありえないしー」
生々しい程の原色に満ちた言葉たちが、街路にぽっかり浮かびあがってしまう気がした。手を繋ぐ僕と英太に向けて、周囲の人全員の視線が一斉に注がれたかと思った。
慌てて握られた手を離そうと腕を捩ったが、彼の手はびくともしなかった。英太を好奇の視線に晒してしまった居た堪れなさに、僕はぎゅっと唇を噛み締めながら歩き続けた。立ち止まったら、二度と歩き出せなくなりそうだった。
思いついたことを言葉として消費し、お互いの距離感を保ち続けている。人に溢れたこの場所で、自分たちだけが注目される特別な存在ではないと知っている。ただ、無邪気な悪意に心を痛めたのは、確かだった。
気付いた時には、さっきすれ違った女子高生の集団も、彼女達の会話も雑踏に紛れてしまっていた。それは、人混みに流れる、ありふれた日常だった。
英太にもさっきの会話が聞こえていたはずなのに、聞こえてないふりをして、振り返らず前へ前へと澱みなく足を進めている。手のひらはさっきよりも、ずっとしっかり握られていた。そのあたたかさと力強さに、僕の涙腺は遂に決壊してしまった。
本当につらい時、僕が何を欲しいと思うのか、彼は驚くほどよく知っている。そして、それを自然に行動へと移してしまう。
今、ここに、彼がいてくれることを、僕は心の底から感謝した。俯きながら、鼻をすすって、柔らかな微笑を涙に濡れた頬に淡く滲ませた。