ⅩⅣ
もしも、あの時、すばるさんを愛していなかったら、僕は男に抱かれる男を頭のおかしい奴だと見なしていたのだろう。それが当たり前の現実なんだと解っていた。偏見という色眼鏡をかけて、人は異端を排斥したがる生き物だ。
女の子相手の淡白な恋愛しかしてこなかった僕が、男に抱かれたいと思って、実際に抱かれたのは、すばるさんが初めてだった。
去年の夏に、それは起こった。その年の最高気温を記録した蒸し暑い日、僕の家には家庭教師に来たすばるさんと、夏休み中の僕しかいなかった。
インターホンを鳴らした彼が、家の扉を開けた瞬間だった。いつものように笑顔で彼を迎えた僕は、思わず表情を凍りつかせた。心ここにあらずと言いたげな動かない顔をして、彼は扉の外に立っていた。明るさが消えた両眼の下には、落ち窪むように隈がくっきりと浮かんでいた。
焼けつくような蝉時雨が静寂を焦がしていた。真っ白な入道雲が、紺碧の天に向かって沸き上がっていた。息をするのも億劫になる程の熱気が、開けた扉から家の中へと入って来る。それなのに、全身から汗が引くのを感じた。
何があったのか、と訊ける雰囲気でもなく、当たり障りのない天気のことを話しながら、彼を家の中へと招き入れた。扉を閉めることで、蝉の声が遠のき、二人の間に流れる静けさが一層深みを増した。
階段を上りながら、「今年一番の暑さみたいですよ」と僕は表情に笑みを張り付ける。すばるさんは、乾いた笑いを頬に刻んで「最近夏バテでさ」と掠れた声で嘘をついた。
お互い噛み合わない言葉を紡ぎ出しているのに、不思議と二人の会話は滞りなく続いていた。今考えると、それはちょうど、広小路先生が表情をなくしてしまった頃と時を同じくしていた。
自室の机に座って英語の練習問題を解いている僕の横顔を、すばるさんはじっと見つめていた。感情が抜け落ちた虚ろな口調で、「横顔がそっくりだ」と呟いた。その言葉に、シャーペンを動かす手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。
誰に、とは訊けなかった。代わりに、真っ直ぐ彼を見つめて、僕は「すばる」と消え入りそうな声で彼の名を呼んだ。混濁した彼の瞳に鮮やかな光が一筋指し込んで、虚ろな焦点が合うのを感じた。
ああ、やっぱり、と思った。彼が僕を通して誰かを見ていたことに、僕は気付いていた。だから、その想いを利用した。絶望しながら、僕は綺麗に笑っていたと思う。
憔悴し切ったすばるさんは、人を愛することに酷く倦んでいた。僕よりも年齢を重ねている分、苦悩は深かったに違いない。
それでも、彼は大切な人を愛することを諦めなかった。僕という代用品を抱いてまで、彼は愛する気持ちを絶やさないでいようとしていた。顔をなくして彼に抱かれた僕は、名前も知らない誰かを嫉妬することすら叶わなかった。
僕の勝手な思いこみだけで進んでしまう関係だった。彼の気持ちを置いてきぼりにした、一方通行の恋だった。そんな風に、自分の想いが走り出して行く様を見て、力のない笑みを浮かべながら、やれやれと薄い肩を竦める僕もいた。
抑え切れない想いが暴走してしまう自分と、それを客観視して呆れ果てる自分。一体どっちが本当の「僕」なんだろう。どっちが本当の「僕」だったら、僕は嬉しいのだろう。
すばるさんに想いを伝えたいのに、どうすれば伝わるのか解らなかった。抑えつけた気持ちがいつか暴発してしまいそうで、怖くて仕方ないのに、彼を嫌いになることが出来ないでいた。
一人になると、いつも考えていた。どうしたら、すばるさんとの関係を元に戻すことが出来るのだろうか、と。
空虚さを感じるだけになっても、あの頃の穏やかな空気を取り戻したかった。終わりにしよう、とか、諦めてしまおう、とか、あの冬にあれほど強く誓った決意なのに、すばるさんを目の前にすると、心の奥にこびり付いた恋心が、いつだって僕の勇気を挫いた。
彼を失ってしまった現実を受け入れるのが怖くてしょうがなかった。一人の生徒である僕に笑いかけて、言葉をくれる彼の存在を手放したくなかった。踏み出してしまった瞬間に、彼を失ってしまうことを知っていた。その笑顔も声も、僕だけのものじゃないことは知っていた。渡された役割の中でしか関係が築けないのは、昔も今も一緒だった。
彼は、僕にとって唯一の人だった。でも、彼にとっての僕は、不特定多数の中に埋没してしまう一人の生徒だった。それは、動かしようのない事実だった。
どうして、持って行きようのない想いを、抱えたまま生きなきゃならないのだろう。僕は、この気持ちとどう向き合っていけばいいんだろう。
答えが欲しかった。誰でもいいから、何でもいいから、僕に答えを教えて欲しかった。
すばるさんのことを好きだと想う度に、胸に鮮血が滲んだ。その想いを胸に抱え続けていると、絶えることのない痛みが全身に広がっていくのを感じた。
それなのに、僕は彼を想わずにはいられなかった。想いを諦めたいのに、諦め方が解らない。苦しかったのに、つらかったのに、その痛みをどこかで喜ぶ自分がいた。それが、僕の恋だった。
誰かに抱かれれば、楽になるのかもしれない。名前も顔も知らない同級生に告白されて、残酷な期待に胸を焦がしたことがある。すばるさんがあの時、僕にしたように、僕も誰かを彼の身代わりにすれば、心の虚に吹き荒む冷たい風が緩まるかもしれない。
愚にもつかない考えを頭に巡らせながら、空っぽの気持ちで首を縦に振ろうとした瞬間、息を切らせた英太が掛けつけてくれた。驚いている僕と相手の間に割って入り、肩で息をしながら、巧みな話術でその場を上手く収めてくれた。木偶の坊のように、僕は突っ立って流れる現実を見つめていた。
そうしてすべてが終わった後、自暴自棄になっていた自分の存在に、ようやく気付いた。震えそうになる自分を抑えようと、俯きながら唇を噛んだ。ぽんぽんっといつものように、英太は僕の頭を優しく撫ぜた。口を開こうとしない僕を、何も訊かずに抱きしめてくれる英太の腕が、あたたかくて、苦しかった。それは、たった一度きりの迷いごとだった。
痛みを他でごまかして、現実から逃げた時のツケがどれほどなものか、僕は理解しているようで、何も知らなかった。愚かな子供だった。