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セツナレンサ  作者: uta
13/20

ⅩⅢ




 緊張感の漂う静寂を拭い去るように、チャイムが鳴り響いた。最後の足掻きと言わんばかりに、僕は手にしたシャーペンを急いで走らせて、解答欄にAと書いた。


 七月の頭に行われる期末テストが、英語の試験で終わりを告げられた。


 今までの静けさが嘘のような騒がしさの中、テストから解放されて浮き足立っている生徒たちに、「後ろから答案集めろよー」と試験監督にきた体育教師が大声で指示をする。名簿順に並んでいるため、一番後ろの席に座る僕は、釈然としない表情で自分の答案用紙を手に立ちあがった。


「おつかれー、優」


 渋面を浮かべたまま一つ前に座る英太の答案を受け取って、最後の最後に勘で解いた問題の答えを彼のものと照らし合わせる。問題内容は試験終了のチャイムの音と共に忘れてしまったが、問4のⅡ(b)の解答欄には僕も英太もAと書いてあった。


「はー、良かった。間違ってない。……おつかれ、英太」


「そりゃ、久屋大先生の教えが素晴らしいからだなー」


 恥ずかしさなど臆面も出さずに、こういう台詞をサラッと言える辺りがすごいな、と呆れた表情を浮かべて、返事の代わりに僕は軽く肩をすくめた。


 返ってこない僕からの言葉に、唇を尖らせた英太は、ぷいっと横を向く。拗ねた子供のような仕草に、僕は堪え切れず笑いを洩らしてしまった。笑うなよ! とムキになって怒る英太を可愛いと思ったことは、心の中にそっとしまっておくことにした。


「あ、そうだ。今日は一緒に帰れねぇから。……酉子先生が車に乗って、校門横付けで俺を拉致しに来る」


「拉致って、英太……。酉さんに言っちゃおうかなー」


「げっ! それ、マジで勘弁! 殺される!」


 本気で青くなる英太に、僕は軽やかに笑い声を上げる。文句を言われる前に、急いで彼の横を通り過ぎた。前に座るクラスメイトが僕に答案を差し出しながら、「葬式には行ってやるよ」と英太をからかうと、どっと周りに笑いが起こった。早くしろ! と痺れを切らした教師の太い声が響き、肩を軽くはねさせた僕は、急いで残りの答案用紙を回収していった。


「頼む、優! 英語のワーク、名簿にチェック入れて、代わりに持って行ってくれないか? 部長に、テスト終わったら昼飯取る間もなく、ソッコーで集合かけられてんだ」


 一番前の席に座るサッカー部のクラスメイトが、僕に答案を渡すや否や、拝むように頼みこんできた。テスト週間中はどの部でも活動休止になるため、夏の大会に向けての調整を今日から行うそうだ。帰宅部の僕は軽い気持ちで、彼の頼み事を答案用紙と共に請け負った。テスト最終日の今日は図書室が閉まっているため、僕はそのまま真っ直ぐ家に帰るだけだった。


「さっき錦先生から、英語科準備室に持って来いって言われてさ。ほんと、助かった! ありがとな!」


 彼の弾むような言葉に、笑みを浮かべた頬が強張るのが解った。指先がじんと痺れて、手にした数枚の答案用紙が零れ落ちそうになる。何事もなかったかのようなふりをしながら、答案を彼の机の上で、トンっと揃えた。


 英語は長文読解、会話、文法で授業のコマが分けられている。今日行われた英語の試験は、すばるさんの担当する英語文法のテストであった。


 そのことに気付いた瞬間、彼の頼みを断ってしまおうかと思ったが、遅刻しないで部活に行けると喜ぶ彼の笑顔を目の前にして、僕は何も言えなかった。安請け合いしてしまい、ノーと言えない自分の性格が心底嫌になる。軽く頭を下げながら、歪に揃えられた答案を教壇に立つ教師に手渡して、僕は席に戻った。




 監督の教師と入れ代わりに、広小路先生が教室に入って来た。思い思いに固まって雑談していた生徒たちが、彼の存在に気付いて、それぞれの席に戻っていく。


 静けさを取り戻した教室をぐるりと見渡して、広小路先生は手にした薄い名簿を開き、事務的な連絡を坦々と口にする。僕は頬杖をつきながら、彼の言葉が左耳から右耳へ抜けて行くのを感じていた。


 パタンと名簿を閉じる音で、一日の終わりが告げられる。教室を去っていく広小路先生に続いて、鞄を手にしたクラスメイトが一斉に外へ動き始めた。


 息をひとつ吐きながら席を立った僕は、教壇に置かれた机の中から、まっさらなクラス名簿を一枚抜き取った。耳馴染みのある声に顔を上げると、英太が教室の真ん中で英語のワークを回収していた。


 名簿を手に席へと戻り、鞄を開いて自分のワークを取り出した。積み上げられた提出物を僕の机に置いた英太は、ぐっと親指を立てて「回収完了!」と笑った。僕もつられて、親指を立てて笑い返した。


 自分の椅子に座った英太は、鞄から取り出したケータイで時間を確認し、まだ時間あるから付き合う、と言った。僕の返事を待たずに、てっぺんに置かれたワークを一冊手に取った。


「じゃ、俺がワークの名前読み上げるから、優がチェックしろよー」


 笠井、谷崎、小川、とクラスメイトの名前を読み上げて行く彼の言葉に続いて、僕は名簿のマスに丸を一つ一つ付けていった。いつのまにか二人きりになった静かな教室の中、彼がクラスメイトの名を読み上げる声と、僕がシャーペンを動かす音だけが響いていた。


 最後の生徒の欄に丸が打たれた瞬間、机の上に置かれた英太のケータイが大きく震えて、電話の着信を告げた。明りの灯ったディスプレイには『酉子先生』の文字が表示されている。一瞬、彼は視線を宙にさまよわせて、悪戯がバレた子供のような表情を浮かべた。震えるケータイをそのまま掴んで、「ごめん」と手刀を切りながら、荷物と共に教室を飛び出した。


 ぱたぱたと彼が軽やかに廊下を蹴る音と、電話に向かって大声で謝っている声が聞こえた。誰もいない校舎の中、全力疾走で遠ざかる彼の言葉を、僕は内容までしっかりと耳に入れてしまった。


「酉子先生、ほんっとすみません! 忘れていた訳じゃないですよ! ……若者は車の後ろを走れ? ……って、何でそんなムチャなこと言うんですか、アナタは! 先生こそ、約束の時間より二十分も早いじゃないですか! あーもうっ、何で今日に限って渋滞してないんですか、あの橋は!」


 ようやく事態を飲み込むことが出来た僕は、力の抜ける笑みをふっと漏らした。




 遠ざかる英太の声が耳で終えなくなった頃、積み上げたクラス全員分のワークを両腕に抱えて、僕は教室を出た。


 そのまま廊下を歩いて、校舎棟から特別棟に続く渡り廊下を通り、誰にも会うことなく英語科準備室の前に辿り着いた。引き戸をそろそろと開けて、室内に足を一歩踏み入れると、無意識に唾が口内に溜まるのを感じた。複雑な気持ちで、ゆっくりとそれを飲み下した。


 扉を閉めて、狭い室内をぐるりと見渡すと、そこには誰もいなかった。空調の微かな音だけが耳に届き、ホッと胸を撫ぜ下ろした。


 閉じられた窓の外には入道雲の立ち上る青空が広がっていた。校舎前の運動場から、野球部がボールを打つ、胸の透く音が聞こえ、弧を描くように白球が空高く飛んで行った。


 ぐぉん、と天井に嵌め込まれた空調が存在を主張するかのように、大きな音を立てた。抱えたワークが落ちぬよう注意しながら、何もない天井を見上げる。


 不安が心の中で鎌首をもたげるのを感じた。早くこの場を立ち去りたいという焦燥に駆られる。英語の参考書や、模試や入試の過去問がぎっちりと詰まった本棚に囲まれた空間に、息苦しいまでの圧迫感を覚えた。


 部屋の真ん中に置かれた長机の上に、手にしたワークを降ろす。横には同じように提出物の山がクラス名簿と共に置いてあった。どうやら僕のクラスが最後のようだった。肩から力が抜けて、吐息になりそうな言葉が口から零れ落ちた。


「いなくて良かった・・・・・・」


「誰がいなくて、良かったって?」


 背後の扉が音もなく開かれる。耳覚えのある声に促されるようにして、首をゆっくりと後ろに向けると、湯気が立ちのぼる白磁のマグカップを手にしたすばるさんが立っていた。視線は僕に向けたまま、彼は後ろ手で静かに扉を閉めた。


 釘で打ちつけられたかのように、両足が動いてくれない。レンズ越しの瞳が、僕を射抜くように見つめて来る。その視線から逃げ出したくて、鈍い動きの首をどうにか元に戻した。


 何度か逡巡するように、音のしない口を開いては閉じた。手元に置かれたワークの山に目を落とすが、見慣れたクラスメイトの名前が印刷されてあるだけだった。大きく息を吸い込んで、喉奥から掠れた言葉を搾り出した。


「な……んでも、ありませ、」


「ってことは、ないよな、若宮。入学してから俺のこと、完璧に避けているだろ」


 言葉尻を掬い取られ、彼から返された言葉は疑問ではなかった。返答に窮した僕は唇を噛んで俯く。


 すばるさんと話すといつもこうだ。会話の主導権を彼に奪われてしまい、僕はいつだってくるくると翻弄されて、話す言葉を見失ってしまう。どうにもならない悔しさに、ぎゅっと拳を握った。




 今思うと、あの夏に彼が僕を抱いたことは、単なる気紛れでしかなかったのだろう。心なんて微塵も含まれない、欲望を慰めるだけの行為だったに違いない。一番欲しいものが手に入らないから、横顔が恋人にそっくりの僕を抱いた。癇癪を起こした子供みたいだ。でも、理由なんて、きっとそんなものだろう。


 あの時のすばるさんは、僕の想いに気付かないふりをした。僕が彼のことを恋い慕っていると知っていたはずなのに、彼は僕を利用して大切な誰かを見ていた。だから、彼の恋が上手くいった瞬間、僕は用済みになって、呆気なく棄てられた。


 当然だ、僕は単なるその場しのぎの代用品に過ぎなかったのだから。僕も、彼の想いを見て見ぬふりをして、偽りの愛情を注いでもらっていた。


 垂らした両手を爪が食い込むほどにきつく握りしめて、くるりと身体ごとすばるさんの方を向いた。高校に入学してから、初めて彼と視線を合わせた気がする。眼鏡のレンズを通して見えた瞳は、あの頃のまま、変わることはなかった。刺すような胸の痛みに、ひっそりと寂しい笑みを浮かべる。変わってしまったのは彼じゃない。僕の方だった。顔を上げながら、僕は口を開く。


「もう『優』って、呼んでくれないんですね。だから、あなたと話をしたくなかったんです。錦先生」


 にしきせんせい――この言葉が、まだ口に慣れてくれない。遠い国の知らない言葉を話しているような違和感が、その名を唇に乗せる度に感じられていた。


 僕がよく知っているのは、大学院生で家庭教師のバイトをしていた『すばるさん』だった。でも、目の前にいるのは、高校の英語教師である『錦先生』だ。同じ人であるはずなのに、僕の瞳には、まったく違う人のように映った。


 彫像のように動けないでいた僕の横を、インスタントコーヒーの薄っぺらい香りが通り過ぎていく。ことん、と硬い音を立てて、すばるさんがコーヒーの入ったカップを長机の上に置いた。立ち上る白い湯気とコーヒーの香りに、なぜだか無性に英太の声が聞きたくなった。


 空調で管理された乾いた空気の中に、生温い風が入ってくるのを感じた。彼が開けた窓の向こうから、蝉の鳴き声が飛び込んできて、ゼリーのように固まった部屋の空気をかき乱した。


「お前だって、俺のこと『錦先生』と呼ぶだろ? 教師と生徒なんだ、それが当然だ」


 分別のついた大人の振りをしようとするすばるさんに、反吐が出そうになった。綺麗事という名の正論を吐く彼に、焦げ付くような苛立ちを感じる。あの時、あなたは僕に何をしたのか、と胸倉を掴んで問い詰めたくなった。


「……僕、知っていますよ。誰かの身代わりに抱かれたってことくらい」


 蔑むように、哀れむように、表情に絡み付く歪な笑いを浮かべながら、口を開く。窓の外を見つめる彼の背に、ナイフのように鋭利な言葉を突き立てる。


 彼の肩がぴくりと動くのが見えた。目に見える動揺に、仄暗い愉悦を覚える。彼自身の手で、澄ました仮面を剥ぎ取らせてやりたくなる。そんなことを思う自分の存在に気付いて、背筋が凍るのを感じた。


「名門と呼ばれる男子校の教師が同性愛者だなんて、世間に知られたら、どうなるでしょうね。最近は親御さんもマスコミも怖いですから」


 初めてすばるさんを傷付けるために言葉を使った。心臓が身体の中で暴れ回るように、どくどくと鼓動を打ち響かせる。紅潮した頬をクーラーの風が撫ぜる。背中から汗が滲んだ。


 音を立てて捻じ切れる心の悲鳴が、口を動かせば動かすほどに強まっていく。上手く口から息を吸い込むことが出来なくて、僕は肩で大きく息をする。


「……二人揃って、学校からいなくなっちゃうんですか?」


 こんな風に彼を傷付けたいんじゃない。感情のままに罵りたいんじゃない。きっと、僕は泣いてしまいたいのだ。泣いてしまいたかったのに、泣き方を忘れた僕は、泣くことが出来なかった。僕の哀しみを代弁するように、窓の外では、蝉が鳴き狂っていた。


「もう会えないって、東桜の合格発表の時、電話で、錦先生、言ったはずです。先生、東桜で四月から教鞭とるって、あの時期だと、解っていましたよね。解っていたのに、どうして、合格おめでとうって言ったんですか? どうして、僕に四月から教師になるって教えてくれなかったんですか? どうして、もう会えないなんて、言ったんですかっ……!」


 もしも、永遠に会えなくなってしまうのなら、彼を愛したことは、記憶の箱に閉じ込めてしまおうと思った。


 時の流れに晒されて、その想いが自然に風化していくのを待てばいい。忘れることに、努力なんて本当はいらないのだ。時間は留まる事を知らずに、ひたすら流れ続けるから。次々と増えていく思い出に過去の記憶が押しつぶされて、いつのまにか、それを忘れたことすら忘れてしまうのだろう。


 すばるさんに会いたくて会いたくて仕方なかった。でも、それと同じくらい強い気持ちで、彼に会いたくないと思っていた。会ってしまったら、身を切るような思いで決断した「さよなら」の気持ちが揺らいでしまうから。避けようのない終わりが、現実として僕の目の前に突きつけられてしまうから。




 あなたを、すばるさんのことを、僕は、今でも愛しているんだ。


 喉元までこみ上げて来る言葉を、何度も必死で飲み込んだ。強く握った拳に力を込める。手のひらに食い込む爪の痛みだけが、麻痺した気持ちにブレーキをかけてくれた。


 愛しくて、愛しくて、馬鹿みたいに、そればかりで、どうしようもなくて。決して僕を愛してくれないと解っていても、すばるさんを追いかけていたかった。想い続ければ、いつか振り向いてくれるかもしれない。そんな馬鹿みたいな希望を、ずっと胸に抱いていた。


 だけど、僕がすばるさんを想い続けていても、誰も幸せにはなれない。僕も、すばるさんも、彼の大切な人である広小路先生も、それから、巻き込んでしまった英太も、誰一人幸せになれなかった。


「優に、幸せになって欲しかった。男なんて好きになっても、つらいだけだ。だから、早く俺のことなんか、忘れて欲しかった」


 音を立てずに窓を閉めたすばるさんは、ゆっくりと僕の方を振り向いた。こんな伊達眼鏡までしてな、と自嘲めいた笑みを浮かべながら眼鏡を外し、ワイシャツの胸ポケットに滑り込ませる。


「ごめん、優。お前の気持ち解っていたのに、逃げたりなんかして。甘えていたんだ、結局。……それが、どれだけつらいって、知っていたはずなのにな」


 手の届く距離まで、彼はやって来た。あの時と同じ、優しい手のひらで、そっと左の頬に触れた。包み込むような大きな手のひらから、すばるさんの温度が伝わってくる。それを忘れてしまいたかったのに、僕は何一つ忘れていなかった。


 今、この瞬間、この手を失ってしまうくらいなら、最初から望まなければ良かった。彼のあたたかさを愛した自分を、すべてなかったことにしたかった。すばるさんなんて、知らなければ良かった。


 焼けつくような恋しさに、鼻の奥がツンと痛む。泣きそうな自分を、彼に気付かれたくなかった。それなのに、熱くなる頬に触れる彼の手のひらを、僕は振り払う事が出来ないでいた。


 まだ、あなたのことが、こんなにも好きだ。こんなにも、身体があなたのことを覚えている。


 忘れようとしても記憶は残り続けて、時間が経てば経つほどに、色褪せるどころか鮮やかな色彩を放ち出す。こんなに誰かを愛することなんて、もう二度とないだろう。


 欲しいのは謝罪の言葉ではなかった。嘘でも好きだと言って欲しかった。あなたのあたたかさを、失いたくなかった。ずっとずっと変わらなくていい。都合の良い身体だけの関係だって構わない。身勝手なのは、お互い様だ。あなたの傍にいたい。あなたを失いたくなかった。


 僕は、口を開くことが出来なかった。開いてしまったら最後、心の奥に無理やりしまい込んだ想いが、言葉として溢れ出してしまいそうだった。


「お前から、幸せを奪って、本当に、すまなかった」


 搾り出すようにして言葉を紡ぐ彼の手のひらから、僅かな震えが伝わってきた。彼の瞳の中から、揺らめく翳りを見つけることが怖くて、僕は視線を上げることが出来なかった。引き結ばれた彼の唇を、ただ見つめていた。




 言葉にせずとも、彼はすべてを語ってくれた。僕は、この恋の終焉を認めなければならない。


 いつか、現実と向き合わなければならない日が訪れると解っていた。解っていたのに、ずるい僕は、何度も現実から逃げ出した。「さよなら」なんて、言いたくない。「好きだった」なんて、言えるはずがなかった。


「優……」


 頬に当てられた手のひらが宙へと戻り、掠れた声で名前を呼ばれる。握りしめた両の拳をほどいて、震える指先で彼のシャツをきゅっと握った。


「すばるさん……すばるさん……」


 感情を胸の内で押し殺そうとするが、堪えきれない想いが次々と外に吹き出してしまう。想いを言葉に乗せて発しようとすると、感情の波がすべてを飲み込んで壊していく。光の届かない水底へと言葉が沈んでしまい、僕は想いを見失った。溺れてしまった時のように、息が上手く出来ない。どうしたら良いのか、何を言ったら良いのか、何を想ったら良いのか、すべてが解らなかった。


 解り合えないまま、僕たちは終わってしまうのか。何か話さなければ、何か成すべき事を探さねば。想いだけがひたすらに先走る。焦燥に駆られた僕を嘲笑うように、時間だけが過ぎていった。


 苦しくて、苦しくて、しょうがないのに、僕はすばるさんから離れることが出来なかった。僕の指先は、愛するこの人を離すことが出来なかった。これが、最後になることは解っていた。


「……さよなら、だ」


 両肩を優しく掴まれて、そっと身体を離された。力の入らない僕の右手は、簡単に宙へと投げ出され、縋りつく相手の温度を失った。冷え切った指先の震えを抑えることが出来ない。それを庇うように、僕の左手が右手をそっと包み込んだ。


 震える拳をほどいてみると、汗で濡れた手のひらに、淡く血の滲んだ爪痕が並んでいた。それは、薄く尖った赤い月のように見えた。ふっと自身を哀れむような笑みを浮かべて、視線を彼に戻した。すばるさんの瞳と、僕のそれとがぶつかった。己を悔いる咎人のような深い瞳の表情を、僕はこの目に映してしまった。


 息を大きく飲み込んで、自分の瞳が限界まで見開くのを感じる。ヒビが入るようにして、心の深い所まで痛みが走った。奥歯をぐっと噛み締めて、口元に偽りの笑みを無理やり描こうとするが、うまくいかなかった。最後の最後に、僕は強がることさえ出来なかった。


 そんな僕を、すばるさんは憐憫の表情で見つめながら、僕の両肩を掴む手のひらをそっと離した。胸ポケットから眼鏡を取り出して、慣れた手付きでかける。もう、この人は僕の知っているすばるさんじゃない。僕の知らない錦先生だった。


「若宮、ごめんな。俺、今から会議なんだ」


 腕にはめた時計の文字盤へ視線を落とした彼は、申し訳なさそうに教師としての言葉を告げる。薄っぺらな香りがするコーヒーの入ったカップを掴み、不味そうに顔を顰めながら一口飲み込んだ。


 また、置いてかれてしまうのだと思った。今度は、追いかけることすら許されない。それが、彼の幸せで、僕の幸せでもあるはずだった。


 僕の頭をぽんっと撫ぜて、コーヒーカップと共に彼はこの部屋を出て行った。僕は窓の外を見つめたまま、少しも動くことが出来なかった。彼が扉を開けて音もなく閉める動作を、ひとつひとつ丁寧に、僕は背中で見つめていた。廊下を歩く彼の足音が、扉越しに遠ざかって行く。


 最後の瞬間だけ、僕のわがままを許して欲しい。あなたを愛することを、許して欲しい。


「――あいしてるよ」


 ゆっくりと後ろを振り向く。閉じられた扉に向けて、ぽつりと言葉が漏れ出た。


 その響きが余りにも情けなくて、想いを諦められない自分が余りにも惨めで、僕は崩れるようにして、その場へしゃがみ込んだ。表情をなくした瞳で、綺麗に磨き上げられたリノリウムの床をじっと見つめる。不思議と涙は流れなかった。




 脆いガラス細工のような恋だった。精巧で美しいその恋は、指先で軽く触れただけで簡単に砕け散った。その鋭利なガラス片が事あるごとに零れ落ちて、僕の胸を激しく苛んだ。甘く儚い幸福と背中合わせに存在する鋭い痛みや苦い絶望。一体僕はそれを何度味わったのだろうか。


 そんな果ての見えない徒労も、今日で全部おしまいだ。そう思って肩の力を抜き、ひっそりと息を吐き出した。それでも、その解放を喜ぶ僕は、どこにもいなかった。




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