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セツナレンサ  作者: uta
12/20

ⅩⅡ



 去年の冬は暖冬だったそうだ。年内には一切雪が降らず、年が明けて、やっと一度だけ、積もらずに終わる雪が降っただけだった。それでも、僕の頭の中では、今までで一番寒い冬だったと記憶している。


 東桜学園高等部の合格発表日は、分厚い鉛色の雪雲が空を覆い隠していた。朝のニュースでは、昼頃から随分と遅い初雪が観測されると言っていた。


 煉瓦造りの厳めしい正門をくぐって、真っ直ぐに進むと高等部の昇降口がある。その横の掲示板で、午後一時に合格者の番号が発表されることになっていた。腕にはめた時計に目を落とすと、十二時五十分を僅かに過ぎたところだった。発表直前の時間だけあって、まっさらな掲示板の前は身動きするのが難しいくらいの熱気に包まれ、制服の下が汗で滲むのを感じた。


 少し袖の短くなった学ランの上に黒のダッフルコートを羽織った僕は、二月の風に晒されて赤くなった指先で、数字と名前が書かれた一枚の白い紙をしっかりと握り締めた。もう一度、腕にはめた時計に目を落として、白い息をゆっくりと吐き出す。コートのポケットに、空いている方の手を入れて、ケータイの硬い感触を指先で確かめた。


 人垣の前方から、どよめきが上がった。後頭部の寂しくなった教員が出てきて、掲示板にゆっくりと白いボードを設置していく。数字の羅列が印字されたボードに、最前列にいる誰かが喜びの歓声を上げた。それを皮切りにして、思い思いの声が次々に上げられていく。その合間に、ケータイのカメラの軽薄な音がチャラン、と響いた。


 後ろの人に押され、こけそうになりながら前へと進み、合格発表の掲示から自分の受験番号を探した。口内に溜まった唾液を飲み下しながら、震える指先で番号を確認する。


――あ、あった……!


 息を弾ませて、自分の手が握る受験票と掲示された受験番号を何度も見返した。見間違いではなく、本当に自分の番号があることを確認した僕は、思わずその場でガッツポーズをした。受験票をコートのポケットに入れて、人混みから急いで抜け出した。


 震える手でケータイを取り出して、アドレス帳を開いた。『すばるさん』の文字がディスプレイに浮かんだだけで、緊張で強張った表情がふっと緩んで頬が熱くなった。冷え切った左の手のひらで火照る頬を包みこみながら、ケータイに耳をつけた。


――もしもし、優か?


 コール音がちょうど四回鳴った後、すばるさんの声が僕の耳に届けられた。久しぶりに聞く声は、相変わらず僕の名をやわらかに発音してくれた。それだけで、僕の心はあたたかさでいっぱいになった。泣きたくなったのは、難関といわれる高校に受かったからだけじゃない。


――すばるさん! すばるさん! 聞いて下さい!


――うん、どーした?


――あ……あのっ、東桜、合格しました!


――よくやったな、優、頑張った!


 もし、この瞬間、すばるさんが傍にいてくれたら、きっと彼は僕の頭をくしゃくしゃに撫ぜてくれただろう。実在する彼を与えられなくても、そう想えただけで、僕は幸せだった。


――すばるさんのおかげだよ。ありがとう。


――いや、俺は大したこと出来なかったよ。……おめでとう、優の頑張り、誇りに思ってる。


 ケータイから聞こえるすばるさんの弾んだ声音が、僕の耳を優しく揺るがす。その優しさに触れて、胸の奥が痛みに絞めつけられる。そのままこの場に蹲ってしまいそうになる。


 この声を失いたくないと思った。すばるさんが僕に教えてくれたあたたかさを、決して思い出なんかにしたくなかった。これが終わりだなんて、信じたくなかった。都合の良い奴に成り下がったって構わない。ただ、ずっとずっと、僕はすばるさんの傍にいたかった。


 彼の傍にいられる理由が欲しかった。理由があれば、彼の傍に居続けることが出来るのだと、愚かな僕は信じていた。


 誰かの傍にいることに、本当は理由なんてないのだと気付こうとしなかった。気付いてしまうことは、今までの自分をすべて否定することだった。



――すばるさん、また、会えますか?


 哀願するような響きが、震える唇から、ぽつりと漏れ出た。


 もし、彼が僕の目の前にいたら、彼の胸に縋りついていたかもしれない。そう想った自分を、ひっそりと自嘲する。きっと、合格発表という非現実めいたこの場所でも、他人の目を恐れて、僕はそんなこと絶対にしない。


 合否を知った人々の、天国と地獄がない交ぜになったざわめきが遠のいて行く。周囲を流れる空気が一気に加速して、僕と電話越しにいるすばるさんの存在だけが、世界から置いてきぼりを食らわされた。


 いくらか逡巡するような、言葉にならない声が電話越しに聞こえてくる。泣き出しそうな曇天の空を見上げて、僕は彼の答えをじっと待ち続ける。


 枯れた芝生の上の落ち葉が、つむじ風にさらわれて空高く舞い上がった。決心したように、大きく息を吸いこむ声がして、すばるさんが口を開くのが解った。


――そのことなんだが……もう、俺達は、会わない方がいい。


――嫌だ、会いたい。すばるさんに会いたい。


 汗で湿った手のひらでケータイを握り直し、間髪入れずに僕は言った。強めた語気で、言葉の意味を跳ね返そうと必死だった。


――ガキじゃないんだから、あの時のことが普通じゃないくらい解るだろ?


――すばるさんが好きな人の代わりに男の僕を抱いたことが、ですか?


 口早に畳みかけた電話の先から、すばるさんの動揺が伝わってきた。それが僕等の間に起きた事実であるのにも関わらず、罪もない人を断罪してしまった気分になり、心が鈍い音を立てて軋んだ。


 彼からの言葉が返って来ないケータイを、空高く投げ出してしまいたくなった。電話越しに言わなければ良かった、と悔やんだ。直接、顔を合わせて話せば、こんなにもすばるさんを遠く感じなかったはずだ。そう自分に言い聞かせて、沈黙をやり過ごした。


 この寂しさは、距離的な遠さのためじゃない。心が遠く離れてしまったことを改めて思い知らされた。開いた距離を、僕は少しでも縮めていきたかった。


 無駄な足掻きだと自覚しつつも、僕は彼に請い願った。贅沢は言わない。ただ、傍にいれるだけで良い。それが、無理なことなんだと、本当は知っていた。


――いいですよ、都合の良い時だけ僕を呼んでくれれば。それで、僕は十分です。どうせ、僕は聞き分けのないガキですから。


――違うんだ、優。俺が、お前に幸せになって欲しいんだ。


――あなたが口にする綺麗事は、もう、たくさんだ。


 ケータイを握る手のひらに力が入った。溜め込んだ想いを吐き出した瞬間、頭に熱い奔流がどっと流れ込み、目の前が真っ赤になる。彼からの返ってこない言葉に、どす黒く汚れた独占欲と反抗心が勢い良く吹き出した。


 理性が劣情に押し込められ、犯される。息苦しさに口を開いて大きく息を吸いこむと、切り裂くような冷たい空気が身体の内部に染み込んでいき、背筋がぶるっと震えた。



 すばるさんのことを想うたび、ブレーキのきかない薄汚れた自分を、眼前にまざまざと引きずりだされる。吐き気がこみ上げてくるほどの嫌悪を感じてしまうのに、彼への想いを止めることは出来なかった。


 もう一度、僕を抱いて下さい。代用品なんかじゃなくて、今度は、あなたの目で僕をちゃんと見て、僕を抱いて下さい。嘘じゃない「愛してる」を、僕だけに向けたその言葉を、耳元で何度も囁いて下さい。


 殺し続けてきた激情を、歯を食いしばって胸のうちへと抑えこんだ。慣れたと思っていたことに、僕はちっとも慣れていなかった。それでも、言葉にしてしまえば、すべてが終わると知っていた僕は、いつものように口を噤んでいた。それは、ぞっとするほどに冷たい感情だった。


 今は都合の良い奴のままでいい。すばるさんが望むのなら、好きな人の代わりでも、我慢できる。でも、いつか僕のことを愛して欲しい。どんな形だっていい、あなたの未来に僕を加えて欲しい。すばるさんのいない未来を迎えなきゃいけないなんて、僕は信じたくない。


 こんな馬鹿けた想い、思春期における一過性の感情なのかもしれない。地球上に人間なんて溢れかえるほどいるのだから、わざわざ恋人のいる男なんて好きにならなくても、他の誰かを愛してしまえばいい。


 もしかしたら一年後、そんなこともあったね、と笑いながら、別の誰かを愛しているのかもしれない。僕の隣にいるのは女の子かもしれないし、もしかしたら、また同性を愛してしまうかもしれない。過去に愛した彼のことは、綺麗に『思い出』というアルバムに綴じて、心の奥にしまっておけばいい。


 失恋の最大の治療薬は新しい恋だと誰かが言っていた。僕を愛してくれる誰かと出逢える未来に賭けた方が、ずっとずっと楽に決まっていた。すばるさんへの一方通行の恋心なんて、どこに進んでも行き止まりにぶつかるばかりで、焦って、傷付いて、苦しむだけだ。


 膿が出て取り返しのつかなくなった痛みに涙しようと、この傷を抱えて生きていたかった。決して来ない未来を、ひたすらに待ち続けて、足が棒のようになったって構わなかった。痛みだっていい、すばるさんを想い続けるなら、どんな傷だって引き受ける。治りかけている傷口を指先で抉り出しても、途絶えることのない痛みと共にすばるさんを想っていたかった。


 あなたを愛していたことを、思い出なんかにしたくない。僕は、すばるさんを愛していたい。


 馬鹿なことをしていると思った。恋なんて、一瞬の錯覚であって、永遠であるはずがない。自分で自分に呆れ果ててしまう。


 それでも、僕はすばるさんに出逢ってしまった。すばるさんを愛してしまった。僕の世界は、彼なしでは成り立たなくなってしまった。


 彼が男だということは、もう考えなかった。僕は、一人の人間として、すばるさんという人を愛した。心に抱いた愛情に対して、後ろめたい感情は微塵も沸き上がらなかった。


 たった一人、掛け替えのない人を愛した僕は、今までの自分が人を愛したことのない寂しい人間だったことに気付いた。気付かせてくれたのは、すばるさんだった。


――あなたを、失いたくない。僕にとっては、あなたを失うことが、一番の不幸だよ。


 ケータイを握った手のひらに雪が一片舞い降りて、じわりととけて行った。


 それが始まりの合図だったのだろうか。厚く垂れ込めた鈍色の雲から、ふわりふわりと風に吹かれながら、真っ白な雪が次々に地上へと零れ落ちる。目の前に広がる景色が、一瞬にしてモノクロームの世界へと変わっていった。



――……ごめんな、優。 


 すばるさんの言葉が胸の奥にそっと降り立った。目を逸らしつづけた事実が、逃げ続けた僕の先手を打ってやってくる。ケータイを握る右手は石になってしまったかのように、固まって動かなかった。添えた左手が力を無くして、身体の脇にぶらんと垂れ下がった。


 もう、戻ってこないんじゃない。すばるさんは、最初から僕の傍にいなかった。すばるさんは、ずっと好きだった誰かの傍にいた。僕と同じ部屋にいても、僕と話していても、彼にとっての僕は僕じゃない、想いを寄せている誰かであった。彼の心の中には、僕を置く僅かなスペースさえ用意されていなかった。僕の心は、すべてを彼で占められていたというのに。


――大切にしたい奴がいる。だから、もう、あの関係は続けられない。


 沈痛な面持ちで、僕は宙を仰いだ。綻びをきたした世界から、耐え切れず空の破片が溢れ出す。溶け落ちた鈍色の雲が、純白の雪となって地上から音を奪う。留まることなく零れてくる空に、世界が終わってしまったのかと思った。


 すばるさんがいなくなってしまったら、僕の世界は色褪せて意味を成さなくなってしまう。もう、縋りつくどころか、涙を流すことすら出来ない絶対的な終わりを告げられた。


 一生を牢獄で過ごすことを告げられた罪人の気持ちだ。永遠にも近い時の間、自由をすべて奪われてしまうのに、自分の命を終わらせることは許されない。時の責め苦に苛まれる日々を想った。


 こんなにも好きだったと、失って初めて気付いた。


 結局僕も、あんなに忌み嫌った『普通』や『常識』に惑わされて、何も出来ずにいた。こんな感情、普通じゃないと、どれほどに悩み苦しんだのだろう。誰もその想いを肯定してくれる人がいなかったから、僕は想いの正しさを判断できなかった。口にしてしまえば、想いも僕自身の存在も、排斥されてしまうということは、考えなくても解っていた。人が抱く気持ちに正解はないのだと、僕はまだ知らなかった。


 くるくると速いリズムの踊りに興じるように、雪が降りしきる。空を見上げたままでいる僕の頬に淡雪が触れ、涙のようにとけ落ちた。冴えない色の空から、止まることを知らない雪が、螺旋を描きながら舞い落ちていく。



 バンっと周りの人々が傘を開く軽快な音に、僕はここがどこだか思い出す。忘れたことを忘れてしまったのだと、やっと気付いた。モノクロームに満ちた世界が破られ、色とりどりの傘の花が僕の視界を通り過ぎて行った。


 突然、意識が現実に引き戻され、僕一人、世界に取り残された気がした。繋がった回線の先から彼の声は聞こえてくるのに、電話の向こうにいるすばるさんが、どこかへ消えてしまったように感じられた。


 降り積もった雪を払うことをせずに、僕は立ち尽くす。


 今は子供の僕でも、大人になったら、もっと器用に痛みをやり過ごせるのだろうか。一体何歳になったら、間違いをひとつも犯さずに人生を歩んで行けるようになるだろうか。


 答えの見つからない問いを、自分に向かって投げかける。濡れそぼった手のひらが震えているのを、僕は寒さのせいにした。


――幸せになってね、すばるさん……。


 それは、僕の精一杯の強がりだった。離れたくない。ずっと傍にいたい。でも、それ以上に、すばるさんから嫌われたくなかった。もう一生会えないと言うのなら、僕の顔さえ思い出せなくていい。ちっぽけな記憶でも、彼の頭の片隅に僕を置いて欲しかった。


――ありがとうな、優。


 最後の言葉を忘れない。これを最後のページにして、すばるさんへの想いを閉じてしまおう。


――うん。


 空元気ではあるのだが、今の僕に出来る明るさをすべて振り絞って唇に乗せた。吐き出した白い息が、雪の中に消えていった。


 電話の向こうにすばるさんの気配はしていたが、何も言わずにケータイを耳から離した。苦い笑みを頬に浮かべて、少し迷った後、ゆっくりと電源のボタンを押した。交わした言葉は少なかったが、繋がっていた時は永遠に感じられた。


 舞い落ちた雪が、明かりの落ちたケータイのディスプレイに触れて、じわりととけていく。視界が大きく揺らいだかと思ったら、画面の上に雫が一滴落ちて、大きくはねた。いつのまにか、冷え切った頬を熱いものが伝っていた。


 雪がくるくると舞い散る空を、歪な視界で捉えた。僕の温度に溶かされた雪が、首元を伝って制服の中に流れ落ちた。





 自分が泣いていると気付いたのは、随分と時が過ぎてからだった。濡れて重くなった真っ黒なコートに、真っ白な雪が積もり続けていた。


 まだ、すばるさんが、こんなにも好きだ。潰れそうな胸を抱えながら、そう想った。想えば想う程に、苦しさも、虚しさも、ひたすらに募っていくだけなのに、想わずにはいられなかった。


 優しさをくれた彼は、継ぎ接ぎだらけの嘘に凝り固められた存在だった。そのことは知っている。それでも、すばるさんを好きな僕が生きる世界を、僕は棄てることが出来なかった。


 もう少し、もう少しだけ、好きなままでいさせて下さい。いつか、忘れるから、それまでは、あなたのことを好きでいさせて下さい。さよならなんて、まだ、言いたくない。そんなずるい僕を、どうか許してほしい。


 色彩に満ちた人波が遠ざかり、モノクロームの世界が舞い踊る雪と共に戻ってくる。世界に甦った色は、気付いた瞬間に色褪せてしまった。


 いつか夢で見た風景のように、雪で真っ白になっていく世界。この雪が世界を覆い隠してしまったように、僕の気持ちも変えてしまうことができたら良かった。そう口元にひっそりと自嘲の笑みを刻んだ。


 降りしきる雪になりたかった。明日になったら消えてしまう、雪のような淡い想いだったら良かった。


 それでも、どこかでこの恋が永遠に消えてしまわないことを願う僕がいた。雪の静寂に耳を澄まして、空を仰ぎ見ながら僕はそっと瞳を閉じた。


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