ⅩⅠ
初夏の日差しを浴びたコンクリートの上を、何台もの車が忙しなく通り過ぎていく。歩道に等間隔で並ぶマロニエの樹の葉陰から、薄紅色の花がほろほろと零れ落ちて、人波へと消えていった。
人で溢れかえった道を、英太とはぐれてしまわぬように並んで歩いていた。足元から伸びる長い影法師が、顔も知らない誰かのものと幾つも重なり合い、大きなひとつのかたまりになって道を覆っている。踏んだことすら意識せずに、人々の足が影の上を通り過ぎて行った。
酉さんのプチコンサートは大成功だった。最初は酉さんのソロ演奏だったが、彼女と昔馴染みの人たちが演奏してくれたり、英太と一つのピアノで連弾したり、始めから終わりまで、色とりどりな曲があたたかく響いていた。
それから、昨日誕生日だったという広小路先生のお祝いもした。
ハッピーバースディトゥーユー、と皆で定番のバースディソングを歌って、夢さんお手製の大きなケーキを迎え入れた。幼い頃のお誕生日会みたいに、部屋の照明を消してケーキにろうそく灯した。薄暗い室内で、仄かに浮かびあがるろうそくの炎を、広小路先生は子供っぽくはにかみながら吹き消した。
雪山を想わす真っ白な生クリームの上に、ぴかぴかに光る真っ赤ないちごがふんだんに乗せられたショートケーキは、口に入れた瞬間、甘味と酸味が程よく混ざり合い、思わず表情に笑みが溢れた。
ケーキ自体も十分美味しいのだが、それだけではない、あたたかい幸せな空気を僕らは一緒に食べている。ケーキを特別な食べ物に思えるのは、きっとお誕生日や、お祝いの日とか、幸せなことがあった時に、一緒に祝ってくれる人たちと、笑い合って食べる物だからなのかもしれない。
そんな風に和やかな笑いが絶えることのなかったパーティもお開きの時間になってしまい、惜しむように去って行く人たちを僕等は見送った。店の片づけを終え、夢さんと酉さん、広小路先生に見送られて、英太と二人でこゝろ屋を出る頃には、日差しは随分と傾いていた。
溢れかえった人の間を縫うようにして、僕等は駅に向かう。
人が好き勝手に歩いているように見える雑多な人混みも、互いに道を譲り合う距離感を覚えれば、案外真っ直ぐに進めるものだ。都心の学校に通っていると、いつのまにか人混みに慣れてしまう。数ヶ月前の僕だったら、真っ直ぐに道を歩くどころか、人に押し流されて英太と迷子になってしまっていただろう。
駅の建物が見えてくる頃になって、僕はあっと小さく声をあげながら英太を見た。
「そうだ、英太の恋愛相談聞いてなかった!」
ごめん、と拝むように顔の前で手を合わせ、そっと視線で英太の表情をうかがった。帽子の奥の瞳と視線が交わった瞬間、二人の間に言葉の空白が生まれた。先程まで浮かべていた屈託ない笑みが彼の顔から消えて、何とも言えないような表情に変わった。
英太の唇が言葉を紡ぐ代わりに、ふぅ、と軽く溜息を吐き出す。僕の方を見ずに、ポケットからケータイを取り出して、パンダのストラップを軽く指で弄りながら言った。
「駅まで来たし、スタバに行ってもいいか?」
「う、うん……」
いつもだったら、もっとしつこく、それこそ聞き分けの悪い子供のように文句を言うはずなのに、素っ気無いと思えるほどの態度を取られた。喉元がきゅっと絞めつけられる感覚に、次の言葉が出てこなくなった。
いつもと違う様子に、ケータイをポケットに戻した彼の表情を見ようとするが、上手くかわされてしまった。歩くペースを上げられて、僕は着いていくのでやっとになる。色濃い日差しに照らされて、帽子を深く被り直した彼の表情には、感情の発露を遮る深い影がさしていた。
際限なく続いていた会話が、それ以来、ぷつんと糸が切れたようになくなってしまった。
僕等の間に流れていた心地良い沈黙の中に、街の喧騒が雪崩れ込む。すれ違う人たちの陽気で明るい声が容赦なく耳に入ってくる。すぐ横の道から車のクラクションの音を浴びせられる。自分に向けられた音ではないのに、それらの音が耳の奥で混ざり合って原型を留めなくなる。掴みようの無いノイズが、耳の中をぐるぐると渦巻いていた。
駅前の縦に長い雑居ビルの前で足を止めた英太に倣って、僕も足を止める。スターバックスの前に英太が立つと、ガラスの自動ドアが音もなく開いた。いらっしゃいませー、とオクターブ高い声が店の奥から飛んでくる。街路に溢れる人々の塊から抜け出して、僕も彼に続いて足を踏み入れた。
一階のカウンターで英太はアイスコーヒー、僕は冷たいキャラメルマキアートを買い、狭い階段で二階の客席へ向かった。百貨店の紙袋を手にした中年女性の一団が僕らと入れ替わるようにして、際限なく続くお喋りと共に階段を下りていった。
静けさを取り戻した店内に、抑えたボリュームの洋楽が流れている。壁際の椅子に腰を下ろすと、英太は表情をますます硬くした。室内に入ると必ず外していた帽子も、今は被ったままだ。
「……で、相談って?」
向かい合わせに座り、一言も発しない英太に問い掛ける。返って来ない反応に溜め息を零して、深緑のストローに口をつけた。
店内に流れる郷愁に満ちた『カントリーロード』を丸々一曲聴いた後、ストローを口から離してテーブルにカップを置くと、結露した水滴がつつつと筋になって落ちて行く。二人の間に横たわる言葉のない空白に、僕はもう一度、溜め息を吐き出した。
「恋の、相談……だっけ」
沈黙が居た堪れなくなり、僕は途切れながら言葉を紡いで、時の滞った空間を動かそうとする。口を出た途端に、その言葉たちは意味を失って、宙へと奇妙に浮かびあがる。一度も口をつけていないコーヒーの透明のカップを見つめたまま、まったく目を合わそうとしない英太は、ゆっくりと首を縦に振って、肯定の意を示した。
「相手は、どんな子なの? 恋愛について上手く言えないと、思うけど」
「……うん」
「君、何気に失礼だよ」
「……うん」
ゆるゆると英太の頭が下がって行き、彼の額とテーブルがぶつかる鈍い音がした。暖簾に腕押しで、変わらない反応を返す英太に痺れを切らした僕は、黒い帽子のつばを摘んで、彼の頭から外した。帽子でぺしゃんこになった髪の毛の中に、茶色のつむじが見える。
「君が相談したいことがあるって、誘ったんだろ?」
「はい、そうです」
「じゃあ、早く話しなよ」
「なんつーか、えーっと……笑うなよ? ……実は、初恋って、ヤツなんだよ……」
「は、はつこい……? 初恋ってアレ? 『初めての恋』?」
「そのアレだよ。それ以外何があるんだよ」
「いやいや、そんなまさか……。だって、英太、スゴくモテるじゃないか」
「だって、今までそういうの興味なくてさ。周りが恋だ何だって言ってる間、ずっとピアノばっかやってたし」
「そっか。……それで、相手はどんな子なの?」
手にした彼の帽子の中に人差し指を入れた僕は、それをくるりと一周させる。緩慢な動作で顔を上げつつある黒色いつむじを見つめながら、彼の言葉を待った。
「……天文学的に、どニブチンな奴。千年に一度のミラクルって感じのニブさで、困ってます」
「そっか、気持ち気付いてもらえないって、切ないもんね」
僕の言葉に、英太は苦笑いを浮かべながらストローを口にくわえ、氷が溶けて薄くなり始めたコーヒーを吸い上げた。持ち上げた彼のカップから、表面で結露した水滴がテーブルの上へ、ぱたたっと落ちた。
自分の気持ちを好きな人に気付かれないことを悩む英太に、口元を上げて僕は曖昧な微笑を返した。気持ちを気付かれてしまうのは、またそれで違う切なさがあるのだが、と自分の恋と照らし合わせて想った。
俯く二人の間に沈黙が再び舞い落ちてくる。手にした彼の帽子を、テーブルにそっと置いた。言葉の代わりに、小さな溜め息が互いの口から漏れ出た。
「――優はさ……好きな奴、いないの?」
英太が投げ掛けたひとつの問い。それは、いつもだったら、軽く受け流せてしまえる何気ない話題だった。ただ今は何故だか、それが心の奥に吸いこまれ、軽い音を立てて想いの核心に当たってしまった。
思えば、僕の好きな人、それが誰なのか、英太に話したことはない。今まで一度も訊かれなかったし、僕からも言ったことはない。
たった一度とはいえ、男に抱かれたことがあるなんて知ったら、さすがの英太でも、僕を軽蔑するに違いない。臆病な僕には、過去を否定することも、大切な友人を失うことも、同じ位、怖いことだった。だから、どうすることも出来ずに、じっと口を噤んでいた。
それなのに、僕はいるよ、好きな人、と気が付くと口が答えていた。妙に明るい口調で返事をしたのだが、酷く空虚な響きをしていて、まるで自分の声じゃないみたいだった。
「すっごい、不毛な恋してる」
茶化すように、気持ちを無理やり弾ませながら、笑って続けた。きっと、痛々しいくらいに崩れた笑顔を浮かべているのだろう。諦め顔で肩を軽く竦めて、視線をテーブルに落とす。口から抜けるような呟きが漏れた。
「何で、望みなんか微塵もない人を、好きになっちゃうんだろね」
やり切れない想いが溜め息となって外へ零れ落ちる。視線を上げると、英太と視線が重なった。痛みを感じながらも、それを押し隠そうとする彼の表情が少しずつ翳っていく様を見ていると、胸が押し潰されそうになる。口元だけはどうにか上げる努力をしたが、嘘が下手な僕には上手く出来なかった。
昨日、偶然見かけたすばるさんの笑顔を思い出してしまう。駅の構内で、幸せそうな笑顔を浮かべて、隣にいる誰かに話しかけるすばるさんの姿。あんな表情しているすばるさんを、僕は初めて見た。あの笑顔を、眼差しを、たった一度でいい、一度だけでいいから僕に向けて欲しかった。
ストローに口をつけて力なく啜ると、氷の溶けてしまった薄っぺらいコーヒーの味がした。
「英太は、軽蔑するかな? 僕の好きな人はね、男、なんだよ」
こんなこと、英太に言うべきではないと思った。男が男を好きになるような奴が友達だと知ったら、彼は怒って僕を罵倒するだろうか。信じられないものを見る目つきで引いてしまうだろうか。冗談だろ、と何度も訊き返して嘆くだろうか。
きっとそれが、世間一般的な普通の反応なのだろう。唇に乗せてしまった言葉はもう戻って来ない。言ってしまったら最後、手遅れなんだと感じながら、こゝろ屋で言われた広小路先生の言葉を思い出す。気持ち悪いと思われることが、こんなにつらいとは知らなかった。
誰かに話を聞いてもらいたかった。誰かに僕のことを解って欲しかった。膨れ上がった想いを一人で溜めこむのは、もうつらすぎた。英太なら、僕の話をちゃんと聞いて、解ってくれると思った。ずるい僕は、彼の存在に甘えてしまいたかった。
「ごめん、こんな話をしちゃって。普通、引くよね」
見つからない言葉に苦い表情を浮かべる彼を見て、話してしまったことを今更ながら悔いた。友達想いの英太は、きっと苦しみながらも、僕のことを理解しようとするだろう。
情けなさに居た堪れなくなって、僕は下を向く。チェス盤のような模様が施された丸テーブルの上に、照明の淡い光が映りこんでいた。
英太の優しさに甘えて、寄りかかってしまいたいと思った自分のずるさが嫌になる。俯いたままの顔を上げて、彼の瞳を直視することが出来ない。
嘘を隠すためには、新たな嘘で古い嘘を覆わなければならない。嘘をつけばつくほどに、不思議と痛みの棘は消えていく。それは、痛みが癒されたからではない。自分の痛覚が麻痺しただけだ。蓄積されていく痛みが限界を超した瞬間、余りの痛みに声も出なくなり、その場に一人、うずくまってしまう。
何度、後悔すれば、こんな馬鹿なことを繰り返さなくなるのだろう、と嘆きを零す。次に後悔する時も、僕はまったく同じ言葉を吐くのだ。
いつだって僕は後悔してばっかりだ。弱い自分を守るため、自分自身にまで嘘をついて、周りをごまかし、日々を何とかやり過ごしている。そうして、取り返しのつかなくなる所まで嘘を塗り重ねて、結局すべてを駄目にしてしまう。一番大切なものを失ってしまってから、自分の犯した過ちに気付く。
テーブルに乗せた両の手のひらを合わせる。その指と指とを組み合わせてひとつの拳を作った。まるで赦しを請う罪人のようだと自分で自分を笑った。僕は、一体何を赦してもらいたかったのだろう。一体誰が僕を赦してくれたのだろう。俯いたまま、力のない笑いが溜め息のように漏れ出た。
「優」
英太に名を呼ばれて、表情をなくしたまま顔を上げると、ビーズで出来たパンダの黒い瞳が、僕をじっと見つめていた。ケータイから外されたパンダのぬいぐるみストラップが、彼の指先に摘まれて、ゆらゆらと揺れていた。
「やる。恋のお守りだって、酉子先生にもらったんだ」
ゆっくりとパンダの瞳から、彼の瞳へと視線を移動させる。いつもと何ら変わらない英太の眩しい笑顔が、そこにあった。
「別に、引くとかしねえよ。優が、それだけ好きな相手なんだろ?」
「だ、だって、相手、女の子じゃないよ? 男なんだよ? しかもその人、好きな人、いるんだよ……」
「でも、そいつのこと、好きなんだろ?」
知らず知らずのうちにきつく握っていた手をゆっくりととほどいて、英太の手からストラップを受け取った。口元をぎゅっと引き締めながら、僕は肯定も否定も出来ないまま、俯いてしまう。視界が一瞬歪んだが、大きく息を吸いこんで、涙になる前に何とか気持ちを落ち着かせた。自分のカップに視線を落とすが、中身はもう白濁した氷水だけになっていた。
「俺の好きなやつも、好きな人がいるんだなー、コレが」
「そう、なの? あ……ご、ごめん、ストラップ返すよ。気持ちだけで、十分嬉しいから」
「いーよ、返さなくて。大丈夫……うん、大丈夫だから」
俯いた僕の頭を、英太にぽんぽんと撫ぜられる。大きくてあたたかい手のひらから、優しさが伝わってくる。目の奥がじんと痺れて、堪え切れず、涙が一筋だけ、ゆっくりと頬を伝わった。
「……優に笑っていてもらいたいからさ。元気出せよ」
「……英太」
「ん、どーした?」
「ありがとう……」
ごしごしと手の甲で涙を拭った僕は、顔を上げて真っ直ぐに英太を見つめた。濡れた頬の上に、嬉しそうに、照れたように、ふわりと笑顔が戻ってくる。
「――痛っ!」
額にいきなり鋭い痛みが走った。突然のことに何が起こったか解らず、目を白黒させ、額を擦りながら英太に視線をやる。「隙ありー」と悪戯っぽく笑う彼からデコピンをされたことに気付いた僕は、拗ねた表情を浮かべながら、ぷいっと横を向いた。
「そんな、湿気た顔してんなよ。酉子先生のご利益入りのパンダが泣くぞー」
茶化すような英太の言葉に促されて、手にしたパンダのストラップを見つめた。ビーズで出来たパンダの瞳に店内の淡い光が反射して、僕の方を見つめ返しているようだった。柔らかな感触が手のひらに心地良かった。
シャツの胸ポケットから自分のケータイを取り出して、慣れない手付きでストラップの紐を通そうとした。小さな穴に細い紐を通そうと、もたついている間に、英太の手が伸びてきて、さっと僕の手からケータイごと奪っていった。
「相変わらず、不器用だな」
素直になれない僕は、心のうちを見透かされるのが悔しくて、英太を見つめながら口先を尖らす。僕が不器用なのは、指先だけではない。からかうような表情を浮かべながら、英太は一瞬で小さな穴にストラップを通した。
「ほら、出来たぞ。俺の指はピアノ以外にも使えるんだからな」
「なんていうか、君は本当に器用だなぁ」
僕が笑いながら言葉を返すと、英太はからかうような表情を引っ込めて穏やかな表情を浮かべ、一言一言を噛み締めるように口を開いた。
「良かった。……やっと、笑ってくれた」
彼の言葉に僕は何も言えなくなる。僕が苦しい気持ちを押し隠して強がっていると本気で怒るくせに、自分のことになると何でもないように、つらい気持ちを直隠しにしてしまうのが英太だった。
どうしたら、いつもみたいに笑って話をしてくれるのだろう。不器用な僕は、彼の表情に浮かぶ、憂いを晴らす術を知らない。何も出来ずに手をこまぬいている自分が、歯がゆくてしょうがなかった。僕は好きな人を困らせてばかりだ。
随分と薄くなったコーヒーの入ったカップを、英太は手に取った。結露してカップの周りに溜まっていた滴が、テーブル上に出来た水輪へと吸い込まれていった。それは本当に小さな音だったが、僕等の間の空白には、充分過ぎる大きさだった。
「そういえば、英太の話は、」
「あー、あれは、いいや。大丈夫大丈夫。つらくなったら、いつでも頼ってくれていいから。元気出せよ?」
僕の言葉を遮るようにして、ケータイを握らせながら英太は口早に言った。もう一度、口を開けて同じ言葉を言おうとするが、くしゃくしゃと髪の毛をかき混ぜるように撫ぜられ、結局すべてをうやむやにされてしまった。
彼の笑顔に色濃く滲んだ痛みの存在。見間違いと思う程、一瞬だけ英太の表情にさした深い影。それが僕の心の中で、妙な引っかりを覚えた。
英太も、つらい恋をしているのだろう。けれども、彼はきっと僕に何も教えてくれない。変な所で意地っ張りなところが彼にはある。弱さを僕に見せることは決してしない。
でも、もし彼がそのことを誰かに話したくなったり、一人で抱えきれない程の苦しみに潰されそうになったら、彼が僕にしてくれたように、僕は彼の一番傍にいて支えになりたいと思う。不器用で何のアドバイスも出来ないけど、傍にいることくらいは僕にも出来る。
「……ありがとう」
今、この瞬間、英太が僕の一番傍にいてくれたことに、言葉なんかじゃ言い尽くせないほどのありがとうを伝えたい。僕の手のひらの中で、ゆらゆらとパンダのストラップが揺れる。ビーズの瞳が店内の明かりを吸い込んで、涙で濡れたような輝きを放っていた。