天才の予感
一心不乱に弾き続けるユリアの傍にはマーサが立っていた。
マーサはおろおろしてユリアに話しかけているが全くユリアは手を止めない。
時折肩に手をかけるもののユリアは無意識な感じで手を払って弾き続ける。
(全く耳に入ってない感じだわ。
いえ、違う。マーサの声が雑音みたいに聞こえているのかも……)
そう思わせる程の何かに取りつかれた様な集中の仕方だ。
マーサが近づいて来た私に気が付く。
「あ! お、奥様!」
「ただいま、マーサ」
「奥様、お嬢様が最近ずっとこのご様子で……」
「ええ。帰ってすぐハンスに聞いたわ。それでここへ来たの」
ユリアの傍に来た私の足に楽譜がまとわりついた。
手書きの楽譜がピアノの周りに何枚か落ちている。
ふと違和感を感じて拾ってみると私の書いたものでは無かった。
(えっ、ユリアの手書き? それに、この曲は……)
メロディラインを確認すると私が一度だけ弾いた曲の物だった。
あの、ユリアがピアノを弾き始めたきっかけになった時の日の事だ。
(……ま、まさか、この子……採譜したっていうの? 嘘でしょ?
数か月のピアノ初心者が一度聞いただけで?)
よく見ると私が弾いて聞かせた原曲と完全に同じでは無い様だ。
しかし、上手く違和感ない感じでアレンジされている様にも見える。
いずれにしろせいぜい始めて数か月の子が出来る事では断じて無い。
驚いている私の前でユリアが弾いていた曲が変化した。
私が手に持っているこの曲だ。
但し、私の手にその楽譜があるからユリアの弾いているピアノの上にはない。
置いてあるのは私が王都に行く前に渡していた私の手書きの課題曲だけだ。
(採譜だけでなく暗譜まで。どういうの、これ? もう訳が分からない)
あり得ない光景にしばらく呆けていた私は思わず我に返る。
そしてユリアの肩に手をかけて揺さぶった。
「ユリア!」
「……?」
「ユリア、私よ!」
「……お義母様? あっ、お義母様! いつお帰りになったんですか?」
「たった今よ。それより、一体どうしたの……?」
振り向くユリアを見て思わず安堵の息をつく。その愛らしい顔は至って正気だ。
但し、気のせいか少しやつれている。無理もない。
「ユリア、今日はもう帰りましょう」
「お義母様、でも少し満足いかない所があるんです。もう一度……」
「もういいから」
「でも……」
「ユリア!」
大きな私の声にユリアは体をびくっとさせて固まった。
「私は貴方にここまでやれなんて言ってない。
練習は確かに重要だけど、今のあなたは入れ込みすぎよ」
「はい……すみません」
「帰りましょう。お腹空いたでしょう?
貴方の為に王都から長持ちする美味しいお菓子も持って来たんだから」
「……ありがとうございます。あ!」
「?」
「お帰りなさい。お義母様」
「はい、ただいま」
私はユリアの頭を撫でて優しく抱きしめた。
そして、ようやく帰って来たという気持ちになった。
「もう……心配させないで。周りの人にもさせちゃだめよ?
マーサもハンスも、みんな心配していたのだから」
そう言ってマーサの方を体ごと向かせる。
マーサは安心した感じでこちらを見ていた。
「ごめんなさい、マーサ」
「いいえ。お義母様に頑張った所を見て欲しかったのですよね。
でも奥様の云う通り、これからはちゃんと休んで食事をなさって下さい」
「ええ。本当に心配かけてごめんなさい」
そう言ってユリアは小さくなった。
(はあ……良かった。
でも、ほぼ毎日こんな風なら指だっておかしくなりそうなものだけど)
そう不思議に思って、すぐに別の事に気が付いた。
ここは前世の私にとっての異世界なのだ。前世の常識は通用しない。
多少の指の痛みや怪我、体力や脳の疲れ程度ならこの世界の良く効く万能薬草を
使えば明日には綺麗に元通りだ。無論、重症レベルはその限りではないけど。
そんな世界において聖女の力が貴重なのは魔力で大きな怪我も即完治だからである。
(下手に回復しやすいというのも問題よね。多少の無茶がきいてしまうのだから。
それにしても、この子は……)
母親ならわかるだろうが子供は基本我慢できないし集中力が続かない生き物だ。
かつての私は未婚だったけど教え子の中に手を焼かされた子も沢山いる。
わざわざ親が高いお金を払って学びに来る子供でさえそうなのである。
そういう子は大抵何か習わせたいと思った親にピアノを押し付けられた子供達だ。
そしてその子達からしたら同年代の子が遊んでいる時に自分だけ努力したいと思わない。
自分で努力したい事を見つけられず楽で楽しそうな方向に流されて生きる。
実は私自身がそうだった。幼少期は母親に強制されて嫌々続けていたものだ。
ピアノなど興味が無い私に母が幼少期に自分が出来なかった事を押し付けたのだ。
浮気者で色々と毒親である父と不仲な母は私のピアノ教育に逃げる様に没頭した。
幼少期は母にべったり張り付かれて私からしたら迷惑極まりなかった。
大学卒業時には就職難でも仕事にあぶれなかったから結果的には良かったけど。
スタートが嫌々だった『精神的才能』が無い凡人の私と比べてこの子は違う。
親の死という特殊な切っ掛けはあったけど自分から興味を持ってそれに対する努力を惜しまない。
それくらいの子供ならまだそれなりにいるだろうけど他の子と決定的に違うのはこの子が徹底しているという事だ。
此方から取り上げない限り食事すらも忘れてひたすら集中し続けて鍛錬する。
偶々本人の興味と方向性が一致したにしては凄すぎる。
とにかく集中力が只者では無く呑み込みの早さも尋常ではない。
私はユリアに只者ではない何かを感じていた。
(天才の予感? というか、天才よね。そんな感じがするんだけど……)