何を言っているのかしら
一度途中まで上げて消去した物の再掲載になります。
「リーチェ、お前に子供の世話を任せる」
「はい?」
思わず語尾を上げた間抜けな返しをしてしまった。
夫婦なら別におかしくない会話だし、実際私達はれっきとした夫婦である。
但しお互いに愛情は全く無い。そして私が出産した事も無い。
「10歳になる俺とイザベラの子だ。ユリアという。これくらい、当然だろう?
お前は私の妻なのだから」
「私に任せるとは一体……」
「言葉通りの意味だ。ユリアの母親としてダルセン領都に行って面倒を見てやれ。
俺とイザベラは王都で日々貴族としての付き合いで忙しい。ここを離れる事は出来んのでな」
「でも……」
(……何を言っているのかしら。領主としてどうなの?
それに自分の子供を邪魔にしているみたい。親の言葉とは思えないわ)
領主が王都に居たままで僻地のダルセン領の運営が出来るとは思えない。
そもそも社交シーズンは終わっている。
(国の要職にでも就いていない限り、皆自分の領地に居るのが普通じゃない。王都にいる必要なんて無いのだから。
ましてや治めるべき領地も子供もほっぽり出して夫婦そろってなんてありえない。
季節外れの王都観光でもするのかしら)
そうは思ったものの表面には出さない。
ゆっくり息を吸って気持ちを落ち着けてから口を開く。
「ユリアと私はあなた方と離れて領地で暮らせという事ですね?」
わかりきった事だけれども改めて先程の言葉の内容の確認をする。
嫁いだ私が領地に行くのは当然だけどまさか一人で行く事になるとは思わなかった。
(大体、愛人と王都で遊んで散財する事が貴族の仕事だとは思えないんですけど。
それを仕事と云うなら別にしなくていいんですよ?
ダルセン男爵領に帰って財政が傾いた領地を再建して下さい)
私は夫に非難の声を上げた。但し、心の中で。
「そうだ。忘れてはいないだろうな? お前は俺に何か言える立場ではない事を」
「……」
「傷物のお前と結婚してやった恩を忘れるな」
「……はい」
恩だの何だの言われる時点で真面な夫婦関係ではない。
しかし今の私の立場はこの10歳年上の夫・アントンの言う通りだった。
この国の第二王子に婚約破棄され社会的立場を失った私を父は彼に押し付けた。
王立学園の卒業パーティの時に多くの面前でこっぴどく振られて侯爵家の名誉を汚してしまった令嬢。
それが私、リーチェ・フォン・バルツァー元侯爵令嬢の立場だった。
入籍した現在はフォン・ダルセン男爵夫人だけれども。
(世間に対して表向きは私を娶ってくれた優しい夫という事になっているけど……
アントンは私の事を気を遣う必要がない金づると思っているのね)
この国の重臣である父にとって醜聞の種になる娘は災い以外の何物でもない。
財政難に苦しむ男爵領に多額の資金援助をする見返りに表面上はアントンが陰ながらずっと愛していた私へプロポーズしたという形でこの夫婦関係が急遽成立した。
下級貴族のアントンが私への報われない愛を結実させたという涙ぐましい作り話だ。
婚約破棄という私の不名誉な事実を塗り替える為の。
尤も、アントンと愛人が王都で遊んでいたらその建前が早々に破綻すると思う。
名門貴族である侯爵の長女が財政赤字の男爵へ嫁ぐのだから元々バレバレの話ではあるのだけど。
いずれにしろ今の私には夫の非常識を窘める力すらも無い。
「よし。……なら、それを行動で示してもらおうか。イザベラ、来い」
アントンの言葉と同時に私達のいる応接室に色気過剰な女性が入って来た。
アントンの愛人、イザベラである。
イザベラはアントンに腕を絡めつつ私を見下した様に口を開いた。
「私達の可愛い娘を宜しくお願い致しますわ、奥様」
「……」
平民の愛人に貴族の本妻が嘲られる。これほど屈辱的な事は無い。
アントンとの結婚が整う前に愛人とその娘が存在する事を侯爵家は無論知っていた。
何故イザベラとアントンが結婚できなかったかは貴族間の事情による。
この国では貴族の当主が平民の女性を娶る事は許されないからだ。
貴族が結果的に平民の女性を娶る事例も無くはないがその場合色々と根回しが必要だ。
融通の利くどこかの貴族の養子に入れさせて身分を整えればできなくもない。
そこで最低限貴族としての教養と貴族籍を手に入れる訳である。
(でも、アントンにはその費用も知己も用意できなかったらしいわね)
その一点だけでも貴族間でダルセン男爵領の立ち位置が分かるものだ。
身分こそ男爵だがその財政状況は火の車で平民の興した大きな商会にも劣る。
かつてはその領地を支えた鉱山も今は枯れ果てこの先やせ衰えていくだけだろう。
今その事を考えても仕方ないけど。
(それにしても……まさか愛人の娘を本妻に押し付けるとは思わなかったわ)
よくよくアントンの行動を考えればわかる事だったのかもしれない。
金が入った途端に領地と子供をほっぽり出して愛人と一緒に王都に来たのだから。
子供に対して愛情薄い親達だという事はよくわかる。
この男爵邸の整備費用に子供部屋が含まれていなかった訳が今わかった。
社交以外にあまり使い道のない王都の男爵邸は荒れ放題だった。
でも財政難のアントンにとってはその維持費用も馬鹿にならなかったのだろう。
結局、婚姻を機会に私の実家の侯爵家がお金を出して色々と整備してやったのだ。
婚姻手続きが済んで王都の侯爵邸からここに移り住んだ私は、どうやら早々に一人でダルセン男爵領に行く事になるらしかった。
「リーチェ、返事はどうした」
「……承知致しました」
最早表情を取り繕う事は難しかった。ただ黙って恭順の意を示す様に頭を垂れる。
思いがけなく手中に転がり込んできた金づるの娘。
アントンとイザベラは目を伏せている私を恐らくは嘲る様に見ていたに違いない。
頭を上げた私は部屋を出ていく二人の背中を黙って見つめていた。
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