聖女は地を歩む~暗鬱とした森の中で~
連載をしようと思って作っていた物語を切り取って短編にしたものです。聖女様が活躍する話です。是非お読みください。
光の届かない暗鬱とした森の中。充満した凍てつく冷気は数多の侵入者を拒み、凍り付いた地面は草の一本も生える事を許さない。あまりにも静かな森の中は時が停まったかのようにあらゆるものが凍りついていた。
かつては妖精が飛び交うほどに豊かな森は、いつしか死霊が呪いを振り撒く森へと変わってしまっていた。死霊の発する邪気は森を凍り付かせて冬の世界へと閉じ込めてしまっていた。冬に閉ざされた世界はいつしか妖精も姿を見せなくなると、森は完全に冬に閉ざされてしまい、邪気の充満する死の土地へと変わってしまった。道端に転がる人の亡骸は骨になる前に凍り付く。その魂は悪意を伴う死霊となって、暗く冷たい森の中を飛び回り、しまいにはどこからから新たな死霊を連れて来る始末。森の中を飛び回る死霊は増える一方であった。
死霊の溜まり場と化した森を歩む一人の神官。その身に纏われた純白のローブには神の祝福を得た文様が刺繍され、右手に握られた錫杖の鈴の音は森に蔓延る死霊を寄せ付けない。
闇の中を行く姿は聖女と呼ぶに相応しく、強い怨念を内包した死霊たちでさえも、神聖な光を纏った彼女に害を為すことは許されない。その身に触れた死霊は邪気が抜け、邪気の抜けた魂はたちまちのうちに浄化される。
聖女が森に足を踏み入れた当初は消滅を恐れて近付かなかった死霊たちも、救いを求めて自ら彼女へと近付くようになっていた。神の祝福を得た魂は柔らかな光を纏って生命の輪の中へと戻っていく。
聖女が足を踏み出す度に死霊は浄化し、徐々に冬が融けていく。それは永い冬の終わりであり暖かな春の始まりだ。凍り付いた地面が緩み、張り詰めた冷たい空気が綻び、静寂に包まれた冬の時間が動き出す。春の陽気が世界に染み出し、終わることのない冬の闇が晴れていく。
そうしてまっすぐに歩み続けた聖女が行き着いたのは森の中心。天高く昇った月が唯一顔を覗かす事のできる、広大な森の中に大きく口を開けた空白地点だ。冷気と闇に満ちた世界へと、赤く怪しげな輝きを見せる満月だけが冷たい森へと光を届けている。先程まで森中を飛び交っていた死霊も近付くことはなく、邪気の気配もない清らかな空気に満たされていた。
赤黒い光に満ちた月光の下へと聖女が足を踏み入れると、月の光を纏った小さな人影が躍るようにして現れた。
『あら、久しぶりのお客様ね』
静寂に包まれた冷たい世界を、突如として現れた小さな人影の声が震わせる。彼女の背中には漆黒の羽。その羽を羽ばたかせる度にキラキラと宙に舞う鱗粉は非常に美しく、何十年も人の前に現れなかった妖精が月明かりに照らされて顕現した。顔の高さで羽ばたく妖精が月明りに照らされている姿は神話の一部とも思えるほどに美しく神秘的であった。
聖女は軽やかに宙に浮かぶ小さな妖精にそっと手を差し伸べる。妖精は差し出された手に捕まると、その手のひらに座り込んで艶やかな羽を畳んだ。
「随分とお疲れのようですね」
凍り付いた空気をほぐすような聖女の柔らかい声が静寂に響く。決して大きな声では無かったが、その声は確かに空間全体を震わせ、冬の空気は和らいだ。
温かみの籠もった声を掛けられた妖精は返答に困ったように表情を崩して苦笑する。
『そうなのよ、聖女様。本当は盛大に歓迎して楽しいおしゃべりもしたいのだけどね。森もこんな様子だし、ちょっとそれもできそうにないの。ごめんなさいね』
妖精は申し訳なさそうに笑うと聖女はそれに笑みを返す。そして、周囲を見回しながら妖精へと問いかけた。
「これほどまでに森が邪気に覆われてしまっているから、ですね?」
『うん。この森に残された安息の地は、もう残るところはここだけ。月の助けを貰っても、私一人ではこれだけの空間しか保つことができない』
妖精は自嘲気味に笑った。自分自身の力不足を悔やみ、そして一人ぼっちになってしまった寂しさを堪えているようにも見えた。
「これだけでも十分立派ですよ。とても長い間、一人きりで大変でしたね」
『ありがとう、聖女様。そうなのよ。ずっと、ずっと一人きりだったの』
聖女の温かな手の中。これまでの寂しさと悲しみの感情と諦めに似た気持ちに、先ほどまでは艶やかであった妖精の羽はすっかり萎れてしまっていた。そんな妖精の内から溢れた感情は、暫しの静寂を経て大粒の涙となって聖女の手の中に零れ落ちる。
『初めは皆も頑張ってくれていたけれど、みんな疲れて眠っちゃった。長い冬に疲れて、繭に籠って眠っちゃった』
月明りに照らされた空間には、綿毛のような小さな光の玉が木に実った果実のように眠っていた。休眠状態になってしまった妖精は、春がやってくるまで決して目覚めることは無い。自然を体現した気まぐれな妖精という存在であった。
『最初のうちは私たちを気遣ってくれる人間もいたけれど、森の恵みが無くなると皆いなくなっちゃった。もう、人間と会わなくなってから、どれだけ経ったかもわかんない』
手のひらで俯く小さな妖精。その小さな身体で長い間森を守ってきた妖精の姿は非常に弱々しい。その身にうっすらと死霊の邪気が移ってしまうほどに弱ってしまっていた。
『ずっと、ずっと寂しかった。たまに来るのは宝物目当ての盗人ばかり。そしてそんな人間も、決して私の話し相手にはなってくれずに死霊になっちゃった』
ここへとやってくるまでの道中に転がっていた幾つもの死体は全て村人のものではない。道中にて凍り付いていた死体は全て、死の森と化した妖精たちの森へと足を踏み入れたトレジャーハンターという名の盗賊たちである。彼らは不用意に森へと踏み込み、死霊の誘惑に負けて命を落とすのであった。
「宝物ですか。私も少し見てみたいものですね」
『そんなもの、あったら見せてあげたいのだけどね。ごめんなさい』
弱々しく謝る妖精に対して「そうですか」と納得するような、考えるような返事をした聖女。彼女は自身の手のひらで静かに泣いている小さな妖精の頭を優しく指先で撫でた。
しばらく俯きながら温かな手で撫でられていた妖精だったが、撫でられている内に段々と聖女の全身に神聖な力が通っていくことに気付く。
『何を、何をしてるの?』
聖女は妖精の問いには答えない。しかし、周囲で起こり始めていた変化を見て、すぐに何が起きているのかを知ることができた。
凍り付いていた地面からはいつの間にか植物が目を出し、時の停まっていた木々は眠りから目を覚まして葉を着け始めた。世界に満ちていた冬が、凍り付いていた世界が解け、森全体がその先にある春を待っている。
しゃん、と聖女の手に握られた錫杖の鈴が鳴った。小さな鈴の音は小さな波となり、小さな波が空気を伝わると、広大な森に共鳴し大きく震わせた。
「『春よ 悠久の冬を融かしたまえ』」
清らかな声が世界に響くと、凍てつく冬は瓦解した。
声に宿った言霊が森に充満した邪気を一掃した。死霊の全てが消滅し、あらゆる全てが浄化され、魂の最後の輝きによって森の中は光に満ちる。
二度目の鈴の音が鳴り、眠っていた森は目を覚ました。
あらゆる場所で春を待ち望んでいた植物。彼らは春の陽気に感化されて芽を出し、草花は十分に背丈を高くし蕾を経て花を咲かせ、木々は春の訪れに歓喜し多くの花を身に着けた。
三度目の鈴の音が鳴る。すると春風が吹き始め、木々が風に合わせて身を揺らす。身を揺らす木々の隙間を風が通り、残っていた邪気を全て吹き飛ばした。
『すごい……』
奇跡の光景に言葉を失っていた妖精は、様変わりした森の光景を見てようやく言葉を取り戻した。森の頂点には大きな満月。白く清浄な輝きを森全体へと届けていた。清浄な光は枝葉の隙間を抜け、地上の草花に淡い光を降り注いでいた。
やがて、春の訪れを理解した妖精たちが固く閉じられた繭から顔を覗かせた。永遠にも感じられるほどに長い冬を越えた妖精たちが春の訪れに喜びを爆発させて月明かりの下を飛び回る。
『みんな! 目を覚ましたのね!』
妖精が叫ぶと彼女の小さな仲間たちがとびきりの笑顔を見せながら声に向かってやってきた。彼女らは手を繋いで二人の周りを飛び回り、春の到来を周辺に告げるために広大な森へと飛び去って行く。やがて妖精はさらに増え、かつてのように森全体に姿を見せるようになるだろう。
「美しい光景ですね」
聖女が周囲を見回しながら手のひらの妖精へと語り掛ける。妖精は感涙を零し、聖女の言葉に何度も頷く。かつてそこにあったはずの美しい光景が、ずっと待ち望んでいた光景が眼前に広がっていた。
『ありがとう、聖女様。ホントにありがとう。何百年ぶりよ、昔の光景が見られたのは』
「いえ、感謝の気持ちは要りませんよ。私はこの森の宝物を見たかっただけですから」
涙を拭きながら感謝の気持ちを伝える妖精。しかし彼女は聖女の返答に首を傾げた後に狼狽えた。聖女が望んでいる宝物。それを提供することができないと妖精は思っていた。
「あの、感謝の気持ちは伝えきれないほどあるのだけど、私たちはあなたが欲しいものをあげられないの。期待してくれたのなら、その、ごめんなさい」
言葉尻を小さくしながら申し訳なさそうに事実を伝える妖精。しかし、聖女は柔らかな笑顔を妖精へと向けた。
「いえ、宝物は見つかりましたよ。それもとびっきりの」
聖女の言葉に疑問符を浮かべる妖精に対して、満足げな表情で周囲を見回した聖女は穏やかに笑って口を開いた。
「この森が、この光景があるじゃないですか。とても素敵な宝物です」
月明かりの下で踊る天使のような妖精たち、淡い光に照らされた草花、春風に合わせて踊る木々。とても美しく心地良い春の夜である。これほどまでに素晴らしい光景はまずないだろう。
妖精は聖女の言葉に目を丸くして驚く。そして、彼女はこの日一番の笑顔を浮かべた。
『……ええ、そうね。これが私たちの自慢の宝物よ、受け取ってちょうだい。ありがとね、聖女様』
「どういたしまして。小さな妖精さん」
妖精は聖女の手のひらから離れ、宙に浮かんで飛び回った。仲間の妖精たちが彼女を迎え、手をつないで大きな輪が作り上げられる。
暖かな春の風が聖女の頬を撫で、木々がゆったりと身を揺らした。聖女が見上げた満月の空には、仲間と一緒に踊る妖精の満面の笑みが月よりも眩しく輝いていた。
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