第一章 九話 異世界なんかで死にたくない
グロテスク描写あります。
ご注意ください。
歩く。
音を立てずにゆっくりと。
歩く。
神経の全てを足裏に集中させて。
歩く。
沢山の石ころたちをを動かさないように慎重に。
歩く。
背負子を漁る追い剥ぎを誅するために。
一歩、また一歩、そろりそろりと僕は男に近寄る。
音を立てないのは絶対条件。
立てたら最後、商人を葬ったあの正体不明の石を生み出す力によって、僕も物言わぬ肉の塊とされてしまうだろう。
いや、即座に殺されてしまうなら、まだいい。
死なない程度に怪我を負わされたのならば、まさしく死よりも惨たらしい蹂躙が、後に待つだけであろう。
男の持つ加害欲求を一身に受ける羽目となり、徐々に徐々にゆっくりと殺されてゆくだろう。
即死も、そんな悲惨な死もまっぴらごめんだ。
だからこうして、慎重に男へとにじり寄る。
一歩。
また一歩近付く。
音を立てるなと自らを必死に律するのと平行して、僕は誰に向けるでもなく、ひたすらに祈り続ける。
どうか、あの男があのまま背負子に夢中で居てくれますようにと。
気まぐれに僕の方を向かないでくれと。
音を立てずとも、男が僕に気付いてしまえば、やはり死が待つのみ。
即ち僕があの男を殺すためには、音を立てない慎重さと、男がこちらを向かない幸運の二つが求められるのだ。
正直、分の悪い賭けと言わざるを得ないだろう。
けれども、僕はこれをやってのけなければならない。
この荒れきった世界で同じく荒みきった輩に、因果応報の概念を、誰かが叩き込んでやらなければならないのだ。
好き勝手に悪行を犯すな。
犯さば、こうなるぞ、という見せしめのために。
そう、これは正義の執行。
義憤が故の行動。
そのための一撃だ。
でも、と問う声もまた僕の中にある。
この行動は、果たして本当に正義と義憤からくるものなのかと?
いや、自分を騙すのはやめよう。
僕の本心はきっと、正義なんかどうでもいいと思ってるし、更には義憤なんかこれっぽっちも抱いてはいないだろう。
僕の本心は。
僕はただ、奴が手に持つあの袋が欲しいだけ。
あの中身に入っているだろう、食べ物が欲しいだけなのだ。
死にたくないから、ゆっくりと僕に迫り来る餓死から逃れるために。
本当は懐にあるお金であれを手に入れたい。
だが、相手は物を盗るために、平然と他者を踏みにじる性根の持ち主だ。
友好的に近付いても、お金を見せた途端、僕はあっという間に組み敷かれてしまうだろう。
そして僕の尊厳と身ぐるみを一緒くたに奪われてしまうに違いない。
こんな見知らぬ地で、想像もしたくない暴力を受けて、そのまま屍となることを、僕は容認できるのか?
答えは絶対に否だ。
そんなの絶対に嫌。
異世界なんかで死にたくない。
何が何でも生き抜いてやる!
例えそれが他者を犠牲にする手段であっても!
向こうが先に平和的な手段を潰してきたのだから!
僕だって暴力的な手段を用いるしかないだろう!
それに奴が公共の敵であることは明らかだ!
僕がそれを排除して何が悪い!
その結果、僕が得をして何が悪い!
僕だってこんなことやりたくない!
出来るなら平凡のままで居たかった!
でも平凡のままなら死んでしまう!
それは嫌だ!
だから仕方がないのだ!
そう、仕方がないのだ!
自己を鼓舞するため、そして正当化させるための叫びを心中にてあげる。
そうでもしないと、臆病な僕はすぐに縮こまって尻込みし、結局何も手に入れられないで終わってしまうだろう。
また一歩。
更に一歩男に近付く。
まだ男の背中はこちらに向かない。
順調に距離は縮まり、小さく見えていた男の身体は、徐々に大きくなっていった。
その途中で僕ははたと思う。
あの男、かなり頑強で逞しい体つきをしていないかと。
ちらと僕はナイフを握った、自分の手腕を眺める。
細くて白くて軽い、とても頼りない腕だ。
仮に男に一刺しをお見舞いしたところで、その一撃でもって致命傷を与えることが出来るのだろうか。
難しいだろうな、と僕は自答する。
僕は特別鍛えている訳でもないし、腕だけでなく、体つきそのものも細っこい。
そんな奴が、逞しい男と揉み合って、勝てるわけがない。
もっとも、鍛えたところで大人の男の人の、それも屈強なその力に抗える気もしないが。
そうならば、と忍び足をするその慎重さを用いて、足下に無尽蔵に転がる石ころの一つを左手で拾い上げる。
僕の拳よりも一回り大きい石。
それであの男の後頭部を殴り飛ばせば。
体格差を埋めるに十分なダメージを与えることが出来るだろう。
相手が痛みでもんどり打っている最中、首か、胸にナイフを突き立てれば。
ハンデをもろともとせずに、奴を葬ることが出来るだろう。
凶器をもう一つ増やして、再度一歩。
加えて一歩。
いまだ男は気がつかない。
するりするりと近寄って。
そしてもう気付けば奴の呼吸の音が、僕の耳に届く距離。
今だ。
音を立てないよう、ゆっくりと空気を吸い込み。
同じく無音で左手の石を大きく振りかぶって。
体育教師を彷彿とさせる角張った大きな背中が、袋の中身に、下卑た笑いに震えたその瞬間。
僕は一息に、男の後頭部目掛けて石を振り下ろした。
「ぎゃ」
ごつんと粘ついた衝撃が手に伝わる。
その衝撃から一拍遅れて、男の悲鳴。
それと同時に彼の足下の石塊たちが大きく動いて、がらがらという音を僕は聞いた。
がっしりとした追い剥ぎの身体がぐらりと崩れ落ちる。
その身を石ころの原に投げ出す。
両の手を僕が殴った後頭部に添えながら。
急所はがら空きだ。
すかさず僕は石を放り投げ、空手となった左手を、ナイフを握った右手に添える。
狙いはのど元。
そこを一気に突き抜こう。
「うあああああああああ!」
僕は絶叫する。
僕自身を奮い立たせるために。
恐怖を紛らわせるために。
その効果は絶大だった。
大声の勢いに押されて、僕は躊躇うことなく、男の首へ渾身の一突きを与える。
切っ先が、男の皮膚に食い込むその直前のことであった。
僕と男の目がぱちりと合った。
合ってしまった。
男の目に映っていた感情、その刹那にそれすらも僕は読み取ってしまった。
男が抱いていた感情。
それは困惑、怒り、恐怖。
困惑は急な痛みによるものだろう。
怒りはにわかに襲われたことがその理由だろう。
そして、恐怖は、不意に臭いだした死のにおいに対するものだろう。
ああ、こんな彼でも死への恐怖を抱くのだな、と僕は遅まきながら理解した。
「あ」
でも、それらを理解したその直後には。
僕の手には、刃物がぐにゃりと肉に食い込む手応えがあって。
それどころかぐりんと手首を返していて。
ぱっと男の首もとに血の華が咲いていた。
男がびくんと海老反る。
後頭部に当てた手を、血液吹き出す首へと持って行く。
悲鳴はあがらなかった。
代わりに聞こえるのは、傷口から漏れ出る、びゅうびゅうと風鳴りにも似た、耳障りな喘鳴。
ごぼごぼと沸き立つ湯にも似た不快な水音も聞こえる。
顔は苦悶に歪んでいる。
人の顔はかくも大きく歪むものなのか、と思わせるほどに。
気道を絶たれた痛みに、溢れた血液により気道を塞がれ、呼吸が出来ない苦しみ。
想像を絶する苦痛だろう。
その原因を作ったのは、僕だ。
僕の右手が生み出した。
僕の意思が産み落とした。
「う、あ。ああ」
僕は一連のそれを尻餅をついて眺めていた。
一世一代の暴挙を敢行した反動か、僕の足腰は萎えきり、起立することを拒絶しているのだ。
はじめはじたばたと大きく苦しみ暴れ回っていた男。
だが、時を重ねる度に、男が動けば動くほどに、動きは徐々に徐々にと小さくなってゆく。
蜜に沈んだかのように緩慢となる。
あれよあれよの内に、動きはなくなり、力なく地面に伏す形となり。
そして僕は男とまた目が合った。
瞳孔が開きかかり、半ば濁った目。
生気が失せた、そう表現するべき目なのに、なぜだかその眼光には力強さを感じる。
その力強さの源、それがとある感情であると気がつくのに、そう時間は要しなかった。
憎しみ。
そう、極めて濃度の高い憎しみをその目に込めて、男は僕を睨んでいた。
男は、目でもって僕にこう語りかけた。
お前を。
許さない、と。
そう告げた後、男は一度瞬きをし。
そしてその身体から力が抜けていった。
目から感情も消え失せる。
もう、男は苦しむことはなくなった。
男は死んだ。
僕が殺した。
この手で、直接。
「うっ」
その事実に吐き気を覚える。
吐き気に従い、胃の中身を出そうと何度も何度もえづく。
されど何度、何度えづこうとも、僕の口から胃液が逆流することはなかった。
僕の身体が僕に語る。
吐くわけないだろうと。
吐く体力があったら、さっさと空っぽの胃に何かを流し込む努力をしろと。
そのために体力を使えと、説教がましく僕に語ってくる。
先にごろつき殺しを催促した、僕を構成するあらゆる要素たちも、その説教を肯定する。
そうだ、早くしろ。
そんなことよりも、早くあの袋の中身を口にせよと。
彼らの声に背中を後押しされ、僕は石ころの地を四つん這いのまま、男がにやけて眺めていたあの袋へとにじり寄った。
西瓜大の袋を手に取る。
ずっしりと重い。
量が期待できる。
この胃の寂しい疼きを取り除くことが出来る。
その可能性に口の端がわずかに上がった。
期待に手が震える。
上手く袋を開けることが出来ない。
それでもなんとか手を律し、閉じられていた袋の口を開き、その内側をのぞき込んだ。
「そんな……」
けれども期待は打ち消された。
上書きされた。
深い失望に。
袋の内に食べ物はなかった。
一欠片もなかった。
その粗末な布地の内側にあったのは。
僕が食べ物袋だと早合点したそれの中身は。
色とりどり、輝き様々な宝石であった。
乱暴な手つきで背負子をそばに寄せ、のぞき込む。
あの男のように中身を漁る。
漁っても、漁っても、出てくるのは綺麗な貴金属か、古い本。
食べ物は見つけることはなかった。
「こんなこと。ならどうして僕は」
人を殺したのだろうか。
自己を正当化し、鼓舞し、畜生と落ちたというのに。
殺した意味がここに来て、遙か彼方に消え去ってしまった。
現実にうちひしがれ、頭と肩を深く落とす。
また、胃が派手に自己主張を始めた。
激しく胃壁を荒らす。
けれども今度の僕は動じなかった。
深い後悔が、胃の痛みよりもずっと激しい痛みを、僕の心に与えていたから。
鋭い痛みが胸の辺りにずっとへばりついて離れない。
その痛みを別の痛みで誤魔化すために、項垂れた頭を、地に転がる石塊に打ち据える。
鈍い痛みが額に走る。
でも、顔をゆがめるほどの強い痛みではない。
また打ち据えても。
何度打ち据えても。
幾度打ち据えても。
心の痛みは誤魔化されない。
なら、もっと強い痛みを。
更に更に額を打ち据えた。
――まったく馬鹿だなあ――
額の薄皮が破け、一筋の血がつうとしたたり落ちた頃合いであった。
また、声がした。
あの男を殺せとそそのかした声が、頭の内にまた響いた。
今度は何をそそのかそうというのか。
もう、胃の渇きを癒やす手段はないというのに。
それ故もう、悪事をこなせないというのに。
何をそそのかそうというのか?
――食べ物なら、そこにあるじゃないか――
何を馬鹿なことを言っているのだろうか。
先の通り食べ物の入れ物と期待した袋は、宝石入れだった。
背負子の中にも食べ物はなかった。
この場の、何処に食べ物があるというのか?
何の食べ物がここにあるというのか?
――あるじゃないか。ほら、傍らにさ。新鮮なお肉、がさ――
……え?
「……なんだって?」
ぞくりと背中が粟だった。
どくんと心臓が高鳴る。
僕は声の通り、僕の傍らに横たわるモノを横目で眺めた。
首ににょっきりナイフが生えたモノ。
さっきまで生きていたモノ。
僕が殺したモノがそこにあった。
「肉って。これ、人間」
つまり人を食えと言うのか。
人を殺した挙げ句、そいつを胃に収めよと言うのか!
僕に餓鬼となれと言うのか!
激しく心が拒絶する。
怒りを覚える。
だから。
「そんなこと! できるわけ」
できるわけない、と僕は言うとした。
だが、それは叶わない。
口が回ることはなかった。
思い出したように再び溢れ出した唾液に阻まれた。
食欲は、僕の身体は、僕の心とは対照的に。
僕が仕留めたアレを獲物と認識し始めていた。
「それは。だめ。だめだよう。そんなふうにみちゃ、だめ」
唾液をなんとか飲み込み、暴走する食欲に言い聞かせるように、独りごちる。
どうしてアレを食べ物と見なしてはいけないのか?
それは人が人を食べてはいけないからだ。
アレは人間だ。
僕が殺した人間だ。
人間だったモノだ。
人間であった肉塊だ。
つまりは肉だ。
肉は食べることが……
いや、駄目だ!
そんな風に見ては駄目!
僕の理性も飢えにより働きが悪くなる。
食欲に飲み込まれようとしている。
今、僕はアレを食べてしまうことを正当化しようとしていた。
意識を強く保っていないと、正気が浸食されてしまう。
僕が食欲の権化になってしまう。
僕はすんでの所で思いとどまる。
そして必死に食欲に抵抗する。
文字通り涙を流しながら。
――あーあ、強情だなあ。いいこぶっちゃって――
呆れきった声が響く。
――ねえ。わかってるよね? 何か食べ物手に入れないとまずいって――
黙れ。
だからといって、人を、共食いをする免罪符とはならないだろう。
理性の生き物であるヒトである僕を、肉食昆虫と同じ程度に堕とそうというのか。
――餓死しちゃうよ? 死ぬのは嫌だよね? 怖くて嫌だよね? ――
死という言葉に心が揺らぐ。
先はこの強烈なワードにより、殺害を決意してしまった。
だから僕は歯を食いしばって、その言葉を耐える。
ひたすら歯を食いしばって耐える。
そうだ、死にたくないから食べてしまえ! と言ってしまいたくなる衝動をひたすら耐えた。
そして僕は心の内に聞こえる声に対してこう叫んだ。
黙れ!
と。
――そんなに共食いが嫌なの?――
もちろん、嫌だ。
――人を食うこと、それはそこまで拒絶するまでのこと? かつての世界だって食人文化、あるところにはあったじゃないか――
うるさい。
黙れ。
二十一世紀の日本にはそんな文化はなかった。
受け入れるはずもないだろう。
――今の状況、そんな悠長なこといってる場合じゃないと思うけど? ――
うるさい。うるさい。
――食べたところで、なんの悪影響があるって言うんだい? 自ら言わなきゃバレないじゃないか――
黙れ。黙れ。
――今更綺麗なままでいたいって言うの? 笑わせる。もう綺麗な身ではないのに――
黙れ。黙れ。黙れ。
汚れてしまったからこそ、だからこそ僕はこれ以上汚れないようにする努力が必要なんだ。
じゃないと意思が弱い僕のことだ。
唆されて彼を殺してしまったように、どんどんと墜ちてしまうことだろう。
歯止めが必要なんだ。
――ふうん。これ以上汚れないために、ね。これ以上罪を背負わないために。ね――
そうだ、だから僕は。
――なら、なおさらだ。食べるのを拒む必要がないじゃないか――
何を、言っているの?
――うん? 忘れちゃった? じゃあ、思い出させてあげようか? ――
嫌。
拒絶の意思を僕は示す。
これから声が言わんとしていること、それを聞いてしまったら、僕は後戻り出来なくなる。
食べてしまえと強烈に主張する、食欲に抗うことが出来なくってしまう。理性が同調してしまう。
そんな予感がした。
だから拒絶した。
――あはっ。必死になったね。聞いたらまずいって理解できてるんだ。じゃあ、言ってあげるね――
黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。
言うな。言うな。言うな。言うな。言うな。
――だって、さ。君は。いや、僕は――
嫌!
お願い!
黙っていて!
言わないで!
言葉にしないで!
突きつけないで!
涙で顔中を汚しながら、僕は耳をふさぐ。
もう、声を止めることは出来ない。
だったら聞こえないようにしよう、そんな念でもっての行動。
けれども、あの声は僕の頭の内に直接響くもの。
そして声は他でもない僕のもの。
あの声は、何が何でも生存を優先しようとする、僕の汚い一面なのだから。
耳をふさいだところとて、それが聞こえなくなる道理はない。
そして僕は聞いてしまった。
聞きたくもない声を、触れたくもなかった、とある事実を。
心の奥底にしまっていた傷ついた記憶を。
聞いてしまった。
――だって、これが初めてじゃないでしょ? 人を食べるの。 ずっと、ずうっと前に食べたじゃないか――
ぽきん、と音がした。
その音の正体は何か、もう言うまでもない。
僕の心が折れる音だ。
もう、強烈な食欲に抵抗するものは、なにもなかった。
僕は首を回して、傍らのソレを眺めた。
涙溢れる目でソレを見た。
ぴくりとも動かない人型のソレを。
そして、袋ににじり寄ったときと同じように、地虫のように這いずって側に寄って。
首に刺さったままのナイフを抜いて。
切り離しやすい、関節部である手首にそって刃を当てて。
「う……うあ。ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
何度も何度も謝意を口にしながら。
僕はゆっくりとナイフに体重をかけた。
ぶつりと皮と肉を裂く感触が、ナイフから身体全体に伝わっていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。