第一章 八話 わざとらしい義憤に酔わなくちゃ前に進めない
闇に飲まれ始めた曇天の空に、急につらら状の石が生まれたかと思えば、気付けば落下し、あっさりと一人の命を奪い去った。
非現実な現象が、非日常な現象を引き起こしたことに、僕の認識はついて来れなかった。
商人らしき男であった肉塊を、僕はしばし、遠目にぼうと眺めた。
何も感じず、考えず、ただただ静かに血の海を広げつつあるそれを眺める。
そうしているとその内、どこかより、ごろりと石同士がこすりあう音を聞いた。
その音に僕は、はたと我に返り、元より縮ませていた身体を、更に目立たぬようにと地に伏せる。
先の音は聞き覚えがあった。
それは僕が一歩、また一歩と歩みを進めているときに、僕の足下から聞こえてきた音だ。
即ち河原での足音に他ならない。
誰か来る。
遠慮なしに足音立てているところから察するに、警戒はしていないように聞こえる。
情報やその他をあの商人から得ようとした僕にとって、彼が消えて、代わりに誰かが現れる状況というのは、好都合と言えるかも知れない。
だけど、僕は音の方へと向かわずその場で蹲ることを選んだ。
あまりにタイミングが良すぎる。
あんな悲惨な死の直後も直後に、取り立てて警戒する様子もなく、のこのこと現場に近付くなんて、それは――
やがてその足音の主が姿を現す。
男であった。
そこそこ身なりが良かった商人とは一転、男の装いは野卑そのものであった。
よれよれの上着とズボン、それが垢か土か、兎角黒いよごれを模様よろしくに、あちらこちら服に纏わり付かせている。
その汚れ具合は尋常なものではなく、視覚で饐えた臭いを覚えるのではないか、と思ってしまうほどだ。
身なりだけを取り出せば、浮浪者と呼んでも差し支えない。
そんな男が、一歩、二歩と商人の下へと歩み寄る。
からり、からりと石の上を歩む音が止まる。
汚らしい男が、商人の亡骸へとたどり着く。
男の顔が歪む。
服装と同じくらい、いや、それ以上に品のない笑みに。
「やっぱ物売りか。ああ、ツイてんなあ、俺」
辺りに音がないからであろう。
それなりの距離が離れているというのに、下品な男の声が僕の耳に飛び込んだ。
死体を前に奴は、悼む様子も哀れむ様子もない。
それどころかその声は喜色に染まっていた。
何よりもあんな悲惨な死体を見て、ツイてると言った。
奴はやはり――
男は商人の傍らに鎮座していた背負子へと視線を移した後、一度舌なめずりをした。
一揉み、二揉みと両の手を揉み込み、おもむろに背負子へとしゃがみこんで。
そして忌憚する様子を一切見せず、むしろ鼻歌を歌う上機嫌さを見せながら、その中を漁り始めた。
間違いない。
先の発言に、眼前の行動。
この男は追い剥ぎに違いない。
何をどうやったのかは定かではないが、あの宙に浮かんだ岩も男が作り出したのだろう。
それを商人へと落として、殺して、今こうして鼻歌交じりに彼の商品をまさぐっている。
脳裏にこれまでの道中で見た、出し殻と成り果てた彼らの姿がよぎった。
彼らもこうして突然襲われたのだろうか。
何が起こったこともわからず、あるいは深い困惑の中でその命を散らしていったのだろうか。
そして自らの死に対し、何ら罪悪感や同情も抱かれることもなく、その持ち物をこうして剥がれていったのか。
もしそうであるならば。
そうであったのならば。
ああ、この世界は本当に荒んでいるのだ、と改めて認識した。
男は、背負子から次々と商品を引っ張り出しては品定めをする。
先に取り出したのは、眩い光放つ金細工、今取り出したるは、冷たい光沢放つ銀装飾。
どれもこれも豪奢な装飾品ばかり。
遠目から見ても十分に綺麗だと、そして高いだろうと思わせるそれらを背負子から引っ張り出す度に、男の顔がくにゃりと喜色に歪む。
本当に俺はツイている、とその顔は雄弁に語っていた。
どうやらあの商人の商いは、金銀細工の類を中心にしていたようである。
ただ、それ一辺倒でもなかったようだ。
時折物色する男のその手に古めかしい本が取られているのを見るに、手広く商売をやっていたように見える。
もっとも、男には本を価値がないもの、と見なしているのだろう。
金銀細工を手にしたときとは打って変わって、実につまならなさげに、冷めた表情でもって本を見つめて。
懐に入れるのでもなく、ただ乱雑に放り投げる。
それが本を手にしたときの男の一連の行動となっていた。
男が物色をはじめて、いくらか時間を経た時であった。
背負子の内から、それまでとは全く異質な物品が取り出された。
大多数を占めていた金銀細工ではない。
本当にほんのわずかに姿を見せていた、古びた本でもなかった。
大玉スイカ程の大きさに丸く膨らんだ布袋。今男が手にしているものはそれであった。
それを認めた時、僕は大きく目を見開いた。
僕の心臓は一度大きく高鳴った。
あの大きさの布袋。あれに僕は見覚えがあった。
あれは二つ目の死んだ街だったか。
食べ物は、地図はないかと街中を探し回っていたとき、大岩に粉砕された元店舗であった残骸。そこに似たような袋が転がっていた。
中身はどろどろに黒く溶け、蛆の温床と化した何かの肉であった。
今男の手に持つそれが、あれと同じモノであるならば。
あれの中身は食べ物に違いない。
僕の胃が自己主張を強める。
お腹の虫が鳴く。
それまで渇いていた口の中が、にわかに潤う。
よだれで潤う。
胃がきりりと痛む。
胃酸を絞りだし、胃壁を荒らし、僕の脳髄にこう訴える。
お腹がすいた!
何か食べさせて!
あれの中身を頂戴! と。
そして願う、祈る。
男に対して。
どうか中身を確認せず、価値ないもの、と見なしてこの場に置いてくれることを。
置いていってくれれば。
僕はどうにかこの場をやり過ぎして、食べ物にありつけるから。
そうなるようにとひたすらに祈った。
「うっ」
胃の痛みに身体をくの字曲げ、それでも目は、男の手にある大きな布袋に釘付けとなる。
僕にとって絶望的な光景が広がる。
男は訝しんだ様子で、袋の口を開け、中身は何かと覗き込んでいた。
そして一拍の間をおいて、満面の笑み。
ああ、中身を確認されてしまった。
こんなにも荒れ果ててしまっている世界なのだ。
あの袋の中身が食べ物と認識されてしまったら、この場に置いてく道理がないだろう。
食べ物が僕の目前から遠ざかって行くに違いない。
「なんてこと」
絶望し、視線を男から石ころだらけの地面へと移し、深く項垂れる。
僕の胸元から何かが滑り落ちる。
音もなく石礫の地に何かが転がった。
何が落ちたのだろう。
それを認めようと、僕は目をその先へと向けて。
そして目を大きく剥いた。
僕の胸元から滑り落ちたもの。
それは一番初めにたどり着いた廃墟から拝借したものであった。
お金の入った麻袋?
違う。
では空っぽになった水筒?
それも違う。
石ころの上に転がったのはナイフであった。
護身のためにと拝借したナイフ。
それがこうして滑り落ちて、目に入れた今、僕の脳裏に一つの小さい、けれどもはっきりとした声を聞いた。
――何も護身のために使わなくてもいいじゃん──
囁く声が、頭の中で響いた。
──そう、例えばそのナイフで奴を刺して――
「でも、それは」
僕は呟く。
それは追い剥ぎ行為だ。
既に火事場泥場を働いている僕であれど。
人を殺して、何かを奪う真似なんて出来っこない。出来るはずがない。
これまでの十六年の人生、僕は平和な日本で過ごしてきたのだ。
僕の故郷では殺人は重罪で、その上強盗もしてのけるとなると、まさに悪鬼の所行なり、と人々から指弾される。
そんな環境下で僕は生まれ育ったのだ。
それは最後の超えてはいけない一線だと、僕の、饗庭司の理性が叫んでいる。
出来るはずもない、やってはいけないと。
だから僕は、転がったナイフから目を――
「どうして?」
――離すことが出来なかった。
理性が解せないと首を傾げる。
何故?
どうして?
何で?
混乱する。
何故が頭の中でいっぱいになる。
そんな中、もう一度あの声が、頭蓋の内に響き渡る。
――でも、それをやらなければ、この飢えは治まらないよ? ――
やはりはっきりとした声でそう囁かれる。
そして、それに同意したかのようなタイミングで、僕のお腹が鳴る。
胃が更に痛む。
この際やってしまえと、僕の背中を押してくる。
「駄目。駄目。駄目。だめ」
必死で僕はあの声を否定する。
やっては駄目だと僕の胃を諫める。
胃は反発するように、更なる痛みを僕にもたらした。
痛みに耐えるべく更に身を縮み込ませても、どうしてか視線は一点、ナイフに突き刺さったままで動かすことが出来なかった。
また声がした。
――ねえ、この機を逃したら後がないんじゃない? ぐずぐずしてもいいの? ――
先よりもより鮮明に、そして大きく聞こえた。
更に胃が暴れる。
そして涎が次々と生み出され、だらだらと口の端から垂れ落ちて行く。
僕の口があの声の味方に回ったようだった。
理性の敵が、増えてしまった。
「ぼくは。ぼくは」
あふれ続ける涎により、口が回らない。
脳内で聞こえる声を否定する言葉を口にすることが出来ない。
それをいいことに、ますます胃は暴虐に神経をいじめ続ける。
涎は貴重な水分を消費し続ける。
激しい痛みに、浪費され続ける水分にとうとう根負けしたのか。
僕の身体が声に賛同する。
そろそろと、転がったナイフへと右手が伸びていった。
手を伸ばすなとひたすらに右手に命じても、身体はちっとも言うことを聞こうとしない。
手は、ナイフへ近付く一方だ。
理性の味方はもはやない。
「いや。やだ。やぁ……」
けれども、負けてはいけない。
それだけはやってはならないと、僕は必死に戦う。
孤軍奮闘をする。
僕は人を殺したくない!
その意思表明に、一層胃は反旗を激しく翻し、人生で感じたことのない大きな苦痛を僕へと与えた。
胃と共謀して唾液腺は元気に働いて、体内の水を排出し続ける。
それでは足りないだろうと、涙腺がまさかの後詰めに入り、ぽろりぽろりと大粒涙を落とし始める。
そして手はとうとう、ナイフを掴む。
唯一自由のきく頭をいやいやと振り、着実に悪の道に進もうとする身体の動きに対して、拒絶の意思を僕は示し続けた。
そんな頃合いであった。
四度目の声がしたのは。
呆れたような鼻息の後に。
声はこう言った。
――意固地にならないでよ。
このままだと。
このまま見逃しちゃうと。
死んじゃうんだよ? ――
その一言にがつんとした衝撃を覚えた。
脳味噌を直接ぶん殴られたような、強い衝撃を覚えた。
にわかに胃の痛みが引いた。
涎もぴたりと止まり、涙も枯れ果てたかのようにこぼれなくなった。
理性が声たちにとうとう打ち勝ったからか?
その答えは。
「……あいつは。追い剥ぎ」
僕は呟く。
あいつは追い剥ぎだと。
この世界の法はどうなっているかは、とんと見当も付かないけど、まさか、法が追い剥ぎ行為を推奨しているはずはあるまい。
何故なら、法は秩序を維持するためにあるのだから。
秩序を乱す追い剥ぎを認めるなんて道理、どこにあろうか。
だから、奴は秩序を乱す者であるはずだ。
「応報を。罰を。誰かが。この場で出来るのは……」
法を犯した者は罰せられなければならない。
だが、この世界に来てこの方、法が機能している光景なんて、一度たりとも見たことがない。
だから、こうして無法がまかり通っているのだろう。
誰も責めないから。
誰も罰しないから。
だから忌避すべき所行がそこかしこに満ちてしまっているのだ。
それは本来あってはならない事態。
誰かが歯止めとならなければならない。
だがこの場にその役割を果たせる人間なぞ存在しない。
たった一人、そう僕を除いては。
そうであるならば。
「僕が」
決して大勢を覆るほどの大きな歯止めではないけれど。
むしろあまりに小さすぎる歯止めであるけれど。
この場において、止めれられる人間が僕であるならば。
僕が止めるべきではないか。
それに。
「相手は追い剥ぎなんだ。社会にとって害悪な存在。悪、とも言える。それを討つことに」
何のためらいがあろうか。
これは正義の執行なのだと自分に言い聞かせる。
そして、その結果あの食べ物が得られるなら。
拒否をする理由など何処にもないではないか、と態度を翻した理性が囁く。
そう。
声が、胃の痛みが、涎と涙が止まったのは、理性が僕の内なる声に打ち勝った訳ではなかった。
むしろ結果はその逆であった。
理性は白旗を上げたのだ。
意地を張って僕が死んでしまうなら、意地を張る必要もない、と。
死ぬことを回避できるのであれば。
あの追い剥ぎを殺すこと、それは仕方のないことだと。
むしろこの世界の惨状から鑑みれば、善なる行動だと、僕に免罪符を与えたのだ。
僕の背中を押したその後押しを、今度は素直に受け入れた。
音を立てないように細心の注意を払って。
ナイフ片手に僕はそろりと男に詰め寄った。