第一章 七話 決断を後悔しないほど僕は強くない
もう幾日も水以外に、何も口にしていなかった。
途中、何回か街を見つけることが出来たけれど、その全てが廃墟、廃墟、廃墟……
食べ物を期待できない、死と瓦礫のみの街しか僕を歓迎してくれなかった。
日に日に、いや、今や刻一刻と僕の飢えは重みを増していた。
その重さは直接足取りに作用し、とても緩慢で、気怠げな歩調を強要させる。
正確な速度を割り出すことは出来ないけれども、初日のそれより明らかに落ちていることだろう。
栄養不足でいまいち働かない意識を、僕の前方に広がる風景にへと向ける。
進行速度が落ちるのも当然の風景が、そこにある。
何故なら、今、僕は歩きにくいことこの上ない、石礫広がる大地を歩んでいるのだから。
どうして、僕は踏み固められた道を歩くのを止めて、わざわざ歩きにくい、石ころの原を歩いているのか。
その答えは簡単。
踏み固められた道はもうなくなってしまったからだ。
いや、なくなったと表現するには少し語弊があるか。
正確には、進むことが出来なくなった、と言うべきだろう。
道が乗っていた赤銅の大地はその途中で、クレヴァスよろしくに、ぱっくりと広く広く、そして深く深く垂直に割れてしまっていたのだ。
その光景を視界に収めたときの僕の絶望の深度は、きっと眼前に横たわっていたあの地割れといい勝負をしていただろう。
人が作り出した道を上ってゆけば、いずれ被害を免れた幸運な街にたどり着くだろう――
そんな小さな希望のみを胸に、ひたすらに道を上っていったのに、それを真正面から打ち砕かれてしまったのだ。
どうして絶望しないと言えないだろうか。
それでも、なんとか立ち直って、生き残るために、まずは大地の切れ目を迂回する形で、向こう側へたどり着こうと僕は思い立った。
だから、クレヴァスに対して、平行に歩き始めたのだけれども、これが中々その端に着くことができない。
もしかして、世界の端まで地が裂けているのではないか。
そんなネガティブな妄想に囚われかけた、その時であった。
履き替えた異世界製の靴のつま先が、ごろりととても固い感触をつかんだのは。
唐突な感触に驚き、僕は足下を見やり、そしてそこで二度目の喫驚を覚えた。
赤土がいつの間にやら、石塊転がる礫地に変わっていたのだ。
それも、転がっている石は、くねくね道や廃墟で嫌と言うほど見かけた、空から降り注いと思しき石とは様相を異としていた。
丸く、すべすべしていて、とても滑らかな石。
それが辺り一面にごろごろと転がっていたのである。
既視感。
異世界なはずだけども、以前に来たことがあるような感覚を、その時覚えた。
そしてその既視感の正体を明かすのに要した時間は、決して長いものではなかった。
石にこびり付いていた、ぱりぱりに乾いた深緑の何かを、僕は見つけたのだ。
それも一個、二個の騒ぎでなく、似たような石は、そこら中にごろごろとあった。
「藻? 乾いてミイラになった」
なるほど、既視感を抱いて当然だ。
このたどり着いた礫地は河原だったのだ、僕は河原に出てしまったのだ、と。
河原だからどうした、そんなことよりも地割れの端探しが最優先だと流しかけたその意識。
それを待てよ、と思いとどめたのは、予想外にもこの身を苛む空腹感であった。
空っぽになった胃が囁いたのだ。
川があるならば、魚も居るではないか! と。
胃の突っ込みを理解して、にわかに色めき立つ。
しかしそれも一瞬のこと。
藻が付着した石が、僕のすぐそばに転がっているということは、この場は、確かに水に浸かっていた場所であったのは間違いない。
だが僕の付近を何度見渡しても、水の流れはもちろん、水たまりすら見受けられない。
そして眼前に広がる礫野に水の気配が一切感じられないところを見ると、どうにも川は干上がってしまったと考えるべきだろう。
多分この先を行っても、川は見つかるまい。
それに、藻の付いた石が、僕より先に行けば行くほど数を減らしていく傾向もあるのだ。
水があったころ、この石ころの原で、水がたっぷりとあったのは、僕の立つ場所であった、と見るべきか。
と、なれば僕の認識を少し改める必要があった。
僕がたどり着いたのは河原でなく、どうやら、からからの川床であったようだと。
魚どころではないじゃないか、と失望の息を漏らすも、ものは考えようと良く言う。
「もし、これが川床なら……これを辿っていけば」
高度に発達した水道がない限り、水のないところに人間の集落は成立しえない。
この川床を沿って行けば、その内集落にぶつかる可能性が高いと見るべきだろう。
なら、地の裂け目の端っこまで、大きく回り込んだ後に元の道に戻るよりも、このまま川床を進んだ方が、より簡単に街を見つけることが出来るかもしれない。
少なくとも、川床の方を選択すれば、裂け目の端を探し、また戻る、という行程を踏む必要ない。
今の僕には時間がたっぷりある、とは言いがたい。
激しい空腹。
ゆっくりとだけれども、それでも確実に餓死へと向かう僕の身体。
でもそれ以上に深刻なのが、渇きの問題だろう。
拝借した水筒で、水は確保出来ている。
けれども、大きさそのものは決して大きくはなく、せいぜい持って二日分の水が持ち運ぶ事が出来る程度だろう。
人間案外飢餓には強いらしいが、渇きには極端に弱いとどこかで聞いた記憶がある。
あの飽食時代の日本でさえ、毎年真夏に脱水症状による死者を出しているのだ。
その弱さは折り紙付きと見るべきだろう。
そう考えると、僕が持ち出したこの水筒が途端に頼りなく思えてきてしまう。
渇きへの弱さをカバー出来ないような気がしてきた。
持ち運べる水が長持ちしないなら、迂回する手間の省ける川床の道を選ぶべきだろう。
それに、今この場所は乾いてしまっているとはいえ、この先のどこかに水が残っているかも知れない。
水場に出くわす確率は、あの荒野を歩くよりも高いように思えた。
なら、もう行くべき道は決まっていた。
石ころの上を行くために、歩きづらくなろうとも。
川沿いにあるはずの街と、残っているかも知れない水の存在への期待を考えたら、些細なこと。
だから、僕は川床を行くと決断したのである。
◇◇◇
その結果がこれである。
既に水筒は空。
藻付きの石々が帯状に並ぶ道をひたすら歩いたけれど、街にたどり着く様子もない。
水場も見当たらない。
大地の裂け目に対面してこの方、一切状況が好転していなかった。
徐々に徐々に辺りが薄暗くなってゆく。
気付けば日が地平線に隠れる寸前まで来ていた。
焦りを覚える。
早く街を見つけ、今日の宿を探さねばという焦りが心中を支配する。
野宿は嫌だ。
絶対に嫌だ。
どこにごろつきが、化け物が居るか解らないこの状況で、たった一人で星空の下で眠ったのならば、どうなるだろう?
それも周りに身を隠せるような、遮蔽物が皆無というおまけも付いてくるのだ。
余程の幸運に恵まれない限り、眠りがそのまま永久のモノになってしまうことだろう。
恐怖を抱く。
口の中のひどく粘つく。
恐怖の緊張と渇きが原因だろう。
お腹も痛い。
鳩尾のあたりがきりりと痛む。
胃が痛い。
何も食べていないのに。
いや、何も食べていないから。
何も入っていないから。
僕の胃液が、僕の胃を荒らしているのだろう。
胃が胃を食べているのだろう。
食べ物を寄越せ! と僕に要求しているのだろう。
胃に言われなくとも、食べ物があるなら僕だって飛びついている。
でも、食べ物がないのだ。
どこを探しても、欠片も見つからないのだ。
だから僕はこうして激しい飢餓に見舞われている。
「うわっ」
焦りと疲れ、そして飢えによるものか。
突然膝の力が抜け、僕は沢山の石礫の上で腹ばいに転んでしまった。
がらりと石の動く音が耳朶を打つ。
一拍遅れて、身体のあちこちに鈍い痛みが走る。
「情けないなあ……僕」
鼻先に石ころを認めながら、僕は呟く。
決定的な根拠はなかったけれど、川床を行くのがよりよい選択だと、日中の僕は信じていた。
けれども、日没、つまり今の僕ときたら、その選択をひどく後悔していた。
何て馬鹿げたことを、と日中の僕を呪うほどに後悔していた。
情けない、と呟いたのは、自分を信じ切ることの出来なかった、とても弱い自分に対してだった。
自分の決断に責任を持ちきることが出来なかった。
あまりの無責任さに赤面し、僕は石塊に顔を埋める。
とても固い感触が、顔全体を包んだ。
顔に押しのけられた石ころが動いて、他の石ころにぶつかって押しのける。
からりというかすかな音が鼓膜を振るわした。
その時だった。
ぱちん。
石塊たちが生み出す、無機質でかたい音とはまったく趣を異としている、そんな音がした。
ぱちんという、そんな音。
僕はバネのように勢いよく、突っ伏した顔を上げ、音が飛んできた方へと視線を向けた。
ぱちん。
もう一度音がした。
間違いない。
聞き覚えのある音だった。
どんと焼きをしている神社の境内だったり、家族と行ったバーベキューだったり、林間学校だったり――そんな場面でこの音を良く聞いた。
あの音は、火にくべた薪が爆ぜる音だ。
この音が火の気もなにもない、この石塊たちの住処でするということは――
僕は萎えた足腰を励ましながら立ち上がり、よろよろとした足取りで音のした方へと向かい始める。
誰かがいる。
誰かが火を使っているのだ。
でなければ、この場所であの音は生じ得ない。
徐々に薄暗くなって行く世界とは逆行して、僕の心中には希望の光が点る。
ようやく生きた人間の気配を感じ取れたのだ。
これに希望を抱かなければ、何に抱けばよいのだろうか。
ぱちん。
三度目の音がした。
その大きさは先に比べて、明らかに大きい。
着実に近づいている証拠と見るべきだろう。
逸る歩調を抑え、急ぎたい欲求とは真逆に、ゆっくりと、音を立てないように僕は歩く。
火を使っている相手に余計な警戒を抱かせないように、という気遣いもある。
そして、同時に警戒のためでもある。
もし、火を使っているのが野党の類いであったのならば。
それを知らないで、火の元へ駆け寄ってしまったのならば。
まさしくそれは飛んで火に入る夏の虫であろう。
あっという間に全てを奪われてしまうに違いない。
それは避けなければならなかった。
抜き足。
差し足。
忍び足。
音を立てずに歩む。
「やっぱりっ。火だっ」
やがて視界にも変化が生じる。
オレンジ色の暖かい光が、僕の網膜に映り込んだのである。
その正面には人影。
間違いない。焚火だ。誰かが焚火をしている。
僕はその場で目立たないようにと身を屈め、その人となりを観察した。
人影は男の人であった。
こちらには目をくれず、火の様子を窺っているところを見るに、彼ははこちらに気がついていないようである。
眼を細め、より詳しく様子を探る。
見た限りでは、身なりは悪くはない。
恰幅の良い体格に、しばらく着た切りだろうけど、それでもなお、しっかりと手入れの行き届いた衣服。
そしてその傍らに、大きな背負子を置いていることから察するに、どうやら男は商人の類いであるらしい。
刀剣の類いは見当たらない。
その情報を拾い出して、僕は思わず安堵の息を漏らした。
よかった! 夜盗ではなさそうだ!
そうとなれば安心して近づくことが出来る。
それどころか、商人であるらしいのはまさに僕にとっては僥倖。
衣服越しに、懐を探る。
ぎっしりと重たい感触が返ってくる。
廃屋で探し出した、この世界のお金の感触だ。
足りるかどうかは解らないけど、とにかく、これであの人から何かを、扱っているのであれば食べ物を買おう。
そう心に決め、彼へと向かう一歩を踏み出した。
けれど。
「あれ?」
足が止まる。
奇妙な現象を見たせいで。
異物が生じた。
言うべきことを端折ったわけではない。
本当に、異物がにわかに発生したのだ。
火の面倒を見ている商人の男の頭上で。
先ほどまでなかった何もなく、紫色の夕焼け空だけだったのに。
今では、正体不明の異物がぷかぷか浮かんでいた。
それにその下に居る商人は気がついていないようだ。
瞬きするごとに、それはみるみる大きくなっていった。
あれはなんなのだろうか。
商人を探った時以上に眼を細め、その正体を掴もうとする。
正体は岩であった。
荒野でよく見た、あの岩達とは少し毛色の違う岩だ。
地に埋まり、そして刺さっていた岩はいかにもといった、無骨なもの。
対してこちらは鍾乳石にも似たつらら状。
無骨というよりも、洗練された、そんな感じの岩。
それが宙に浮いていた。
僕は夢でも見ているのか。
そうであるならば嬉しいと思いつつ、目をこする。
一度瞬きする。
そうすると、次の瞬間には宙に浮いていた岩は消えていた。
綺麗さっぱりとなくなっていた。
あれは夢であったのか?
いや、違う。
岩そのものが消えたのではない。
見える範囲からつらら状の岩が外れただけのことだった。
では、岩は何処に?
そう首を傾げたその時、音が響いた。
ぱあんという、大きな音が。
衝突音?
いや破裂音か。
何か水気をたっぷり含んだモノが、かたい何かにぶつかり、弾けてしまったような、そんな音。
どこからその音がしたのか。
それを探すべく首を左右に振る――必要はなかった。
何故ならそうしなくても、音の源を見つけたから。見つけてしまったから。
宙に向けていた視線を、ただそのまま下に降ろしただけのところ。
そこに音の発生源があった。
僕が見失った岩もそこにあった。
そこは目を宙に向ける前には商人が座していたその場所だ。
つまり。
岩は、商人へと落ちた。
頭に目がけて。
ソレに頭はなかった。
落ちてきた岩に潰され、岩が頭の代わりにと胴体に突き刺さっていた。
血が噴き出していた。噴水みたいに。
ゆらりと力が抜け、ソレが倒れる。
血をまき散らしながら。
どしゃりと音を立てながら。
商人であった肉体は倒れてしまった。
立ち上がる気配はない。
つまり。
商人は死んでしまった。
唐突に。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。