第一章 六話 順応していく自分に嘆いている暇はない
音と声がしなくなった。
まだ化け物が居るかも知れない。
そこに留まっているかどうかを知るために、僕は耳に全神経を傾け、岩の裏側の様子を窺った。
咀嚼の音も、交合の音も聞こえない。
すすり泣く声も、苦痛の声も、無念の声も今はしない。
わずかな音も認められないことから、僕は奴が立ち去り、全てが終わったと判断して、恐る恐る岩陰から身を乗り出した。
「ごめんなさい」
音がしなくなったということは、つまりはそういうことだ。
自身の血肉と化け物由来の粘液に塗れ、腕から肩にかけ真っ白な骨が露出した、女性がそこにあった。
立ち上がることは二度とない。
涙に濡れた双眸が瞬くこともない。
当然呼吸もない。
名前も知らない彼女は死んでしまった。
殺されてしまった。
僕が見捨てたから。
罪悪感に駆られ、僕は謝罪の言葉を口にする。
返事も当然ない。
ひどく居心地が悪い。
だから僕は逃げるように、その場から立ち去った。
死人に物は必要あるまい、と持ち物を引き剥ぐこともせず。
弔うこともせずに。
早足で逃げ去った。
◇◇◇
ごろつきや化け物。
それらの気配を探りながらも、僕は道を行く。
幸いにも、先の陵辱の場を除いては、その二つに遭遇することはなかった。
ただし、奴らの残り香は別であった。
道の上には、あるいは端には、収奪の限りを尽くされた遺体や、あの女の人のように、骨までしゃぶり尽くされた骸が時折転がっていたのだ。
化け物はともかくとして、何故奪われた死体がここまで多いのだろうか。
やはり倫理や秩序が崩壊してしまっているとか言いようがない。
どうしてここまで荒んでしまっているのだろうか。
その答えのヒントとなりうるものが、道から外れた、荒れ果てた平野にざっくりと刻まれていた。
「地割れ?」
僕は立ち止まり、その光景を眺める。
地面が割れていた。
人が二人、いや三人分の背の丈ほどの幅がある、裂け目が横たわっている。
それも一つではない。
あちらこちら、数えるのがおっくうなほどに裂け目があった。
僕は道を外れ、直近の割れ目へと歩み寄る。
まずはのぞき込んで。
ああ、ぞっとする。
光届かず、底が一切見えない、文字通り奈落へと通ずる大穴がそこにあった。
じっと見ているだけで引き込まれそうだ。
急いで視線を、裂け目の底から剥がし、水平に戻そうと――したときであった。
視界の端で何かを捉える。
それは、裂けた地の端とも言うべきか、それともその断面とも言うべきか。
とにかく僕は、その部分に気になる情報の一端を見た。
「まだ新しい?」
視線を背けたくなる衝動をこらえて、僕は地のへりを睨み、そして左手で撫でる。
小さな土塊のいくつかがぼろぼろと崩れ、深い地の底へと落ちてゆく。
手触りはざらざらで、ごつごつ。
荒い断裂面と言っていいだろう。
風化はさほど進んでいないように思えた。
素人考えだから、根拠に薄いけど、この地割れは出来てから、日をおいていないものだと思う。
そういえば空から降ったきた思われる岩の数もそうだった。
地面にめりこんで、日をおいていないように見えた。
つまりは。
「とても大きな天災が起こった、ということ?」
地割れと落石、いや噴石と見るならば、火山の噴火でも起こったのだろうか。
それもつい最近に。
となれば、どうしてこんな末法的な世界になったか、仮説ではあるけれど、それを説明することができるようになる。
存在していた秩序が、何らかの災害により、完膚なきまで粉砕されてしまったのだ。人々の生活と生命をもろともに。
辛うじて生き残った人々も、環境が激変してしまえば、それまで通りの生活を送ることができない。
以前の生活に戻るには復興が必要で、そのためには国家なり、支配者なりの支援なければ成り立たない。
しかし全滅してしまったあの街はともかくとして、道に死体がごろごろ転がっている様子を見るに、きちんと復興が行われているとは思えない。
どんなに甘く見ても、治安を維持する機能を、現在進行形で喪失していることは間違いないだろう。
いや、むしろ逆か。
天災により、国家、あるいは支配者層が壊滅的打撃を受けてしまったために、こんな事態を招いてしまっていると見るべきか。
秩序を保証するモノがなくなってしまったから、人々は秩序に従い生きることをやめてしまったのだ。
自分が持っていないモノを手に入れるのに、金銭のやりとりを除いて、もっとも手っ取り早い方法は何か。
それは持っている誰かから奪うことに他ならない。
もちろん、全ての人間がその答えを受け入れたわけではあるまい。
真っ当な人たちは、被害を受けていない地に逃げて、まだ崩壊していない秩序を求めたことだろう。
けれども、同じく全ての人間がきちんとしているわけでもないのだ。手っ取り早く、欲しい物を手に入れてしまった人たちも、また存在する。
奪われた人々がその辺に転がっているのが、その証拠だ。
自分が生き残るために、他者を犠牲にしても良しとすることを、多くの人間はこう評するだろう。
浅ましい、と。
僕だってそう思う。いや、そう思っていた。
だが、僕にそう評する資格はない。
僕は現実に浅ましかったのだから。
僕は他人のモノを奪ってしまったのだ。
他ならぬ生存のために。
追い剥ぎのように、直接手を下していないけれど。
死人にソレは必要あるまい、そう身勝手に判断して金銭を、刃物を、水筒を奪い取った。
やっていることは同じだ。
高潔な人間から見れば、僕は人としての誇りを捨てた鬼畜と断ぜられるだろう。
「でも、誰だって」
死にたくはないのだ。
お行儀良くして、あるいは誇りを守りながら、この荒廃した世界を生きてゆけるなら、僕だってそうしたい。
日本で過ごしたように、平凡に過ごして、末永く平和で過ごしていたい。
でも、現状はどうだ?
知っている情報も少なければ、昨日からの空腹を満たすこともできていない。
水だけはあるけれど、ゆっくりと死に向かっていることは間違いない状況だ。
そんな状況を切り抜けるには、まずは手段を選ばず生き延びることが最重要ではないか?
お行儀も、誇りも、そして平凡も、それらを甘受するには、何につけても生きてこそ。そうであるはずだ。
ならば。
「それでも人は殺せないだろうけど……でもなりふり構ってられない」
決意を口にして僕は立ち上がる。
まずは、道をまっすぐ行き、新たな街に向かおう。
もし、本当に天災であれば、その街も無事である保証はどこにもないけど、その逆の保証も、また、ないのだ。
街が残っていれば、そこにはまだ秩序があるはずだ。
秩序さえ残っていれば、僕が生きるために蓋をしてしまい込んでしまった、誇りだのなんだのを取り戻せることだろう。
では、次の街も死に絶えてしまっていたのなら?
ごめんなさい、と謝るべきことを、もう一回するだけだろう。
なるべく無事な家を見繕って。
何か使えそうなモノを拝借しなければなるまい。
二度目の火事場泥棒をやらなければなるまい。
仕方がないことと割り切りながら。
全ては僕が生き残るために。
僕は再び歩み始めた。
◇◇◇
息を潜め、辺りに気を配りながら歩み続けて、僕はようやく目的の地にたどり着くことができた。
初めの街と同じく、防壁に囲まれた街。
その細かいところまでを認められる距離に来たとき、僕は一つ大きな息を吐いた。
目的地にたどり着いたことに起因する、安堵のため息?
いや違う。
その逆、失意のため息。嘆息であった。
当然だろう。
ごろつきや化け物の襲撃に怯え、ビクビクしながらも歩き続け、ようやくたどり着いた場所が、巨石による蹂躙を受けていたのだから。
僕はまたしても廃墟にたどり着く羽目となった。
「最初のあの街よりも……大分やられちゃってる」
被害はこちらの街の方が大きいように見える。
最初の街は降石により、自慢の防壁はところどころ破損してはいたものの、その大部分はきちんと乾いた地面にせせり立っていた。
外界の攻撃から街を守る、防壁としての機能は低下してはいたが、外との境界という、壁としての機能はきちんと発揮していたのだ。
ところが目の前のそれはどうだろうか。
防壁はところどころ残ってはいる。
だがそれ以外を除けば、粉砕、四散してしまい、壁ではなく残骸と成り果ててしまっていた。
加えて、わざわざ門を探さずとも、崩壊した壁の残骸を乗り越えれば、あっさりとその内側へ行くことができる始末。
防壁の機能を完全に喪失したばかりか、境界としての役割も果たせていない。
「内は……当然ダメだよね」
するどい破断面でけがをしないようにと、細心の注意をもって壁の残骸を乗り越えた僕は、もう一度深く嘆息する。
街を守るべき防壁がこの有様なのだ。
その内側が無事という、とても都合の良いことは、やはりなかった。
どうにも、この世界が大きな天災に見舞われたのは間違いないようであった。
降石はまたも、生活の全てを踏みつぶし、街を活気の欠片も感じさせない廃墟へと変貌させていた。
右を見れば瓦礫の山。
左を見れば砕かれた家屋。
正面を見れば岩目立つ更地。
希望の欠片もない光景である。
そして極めつけは耳奥にへばりつくような、ぶんぶんという蠅の羽音。
これが聞こえるということは。
ここにも亡骸がたんとあるのだろう。
「うっ」
フラッシュバックに襲われる。
蘇ったのは昨日踏んでしまった、腐った胴の足触り。
辛うじてまだ形を保っていた、千切れた腕の感触。
ぐにゃりとした気持ちの悪い弾力を、僕は思い出してしまっていた。
吐き気は覚えなかった。
僕の胃の中が空っぽで、吐き出す物がないからだろう。
ただ代わりと言うべきか。
手足に蘇った昨日の感触は、時を重ねるごとに、僕の神経のより深いところまで浸食していった。
僕の左手に、あの腐ったぶよぶよの腕が、いつまでもまとわりついているような気がした。
左足は、黒い汁を滲出させているあの胴の上に、ずっと乗っけているような気がした。
「井戸……井戸を探そう」
飲み水を確保するために。
そして粘っこくまとわりついた、昨日のあの感触を洗い流すために。
僕は井戸を探し求めて、二つ目の死んだ街の内へと歩みを進めた。
その途中で、腐った人々を見ても、僕は昨日のように泣きわめくことはなかった。
心は確実にこの荒廃した世界に順応し始めていた。