第一章 五話 他人を気遣っている余裕なんかない
僕は振り返る。
生気のすべてが揮発した赤い大地と、陰気な灰色の空、そして巨大な集合墓と化した傷だらけな防壁の街が、そこにあった。
昨日と変わらない光景。
そのはずなのに、どこか昨日とは違う風景に見えた。
昨日よりもどこか悲しく、そしてじっと見ていると、少しばかり後ろめたさをも感じる風景だ。
その原因はきっと、僕にあるのだろう。
生き延びるために、仕方がなく――その免罪符を用い、火事場泥棒を働いた僕の心性が多分に影響しているに違いない。
懐に手を伸ばす。
いくらかのお金の入った麻袋とナイフ、そして水筒がそこにあった。
一夜の宿として世話になった、無傷の家屋から持ち出したそれらは、火事場泥棒としての僕の初めての獲物であると言えよう。
物の購入、宿の確保、情報の入手、そして贈賄による保身。
お金さえあれば、できることが格段に増えるのだ。
持っておいて損になることは、絶対にない。
そう、例え、そのお金が他人の家から持ち攫ったものであろうとも。
僕の良心がきりりと痛む。
生きるために仕方がないと割り切ったとはいえ、罪悪感を覚える感性は、きちんと僕の中に引き続き存在していた。
ナイフは自衛のために借りることにした。
仰々しい防壁が取り囲んでいるところを見るに、ここが決して治安の良い場所であるとは到底思えない。
暴漢に襲われてしまうことだって十分にあり得るだろう。
人を刺す度胸と技量が備わっているとは、僕自身思っていないけど、それでもあるとないのでは雲泥の差があるはずだ。
本当に刺さなくても、ナイフを見せて、脅しの姿勢を作っておけば、危うきに近づかず、と引いてくれる暴漢も居るかもしれないのだ。
ならば、持って行かない理由がどこにあろうか。
本音を言うなら、地図も欲しかったところである。
しかし残念無念と言うべきか。
あの街の地図は見つけることはできたけれど、他の街が載っているような広範なそれを見つけることができなかった。
持ち出しても意味のない地図ではあったけど、見つけたこと自体に意味を持たない地図ではなかった。
何故なら、どこの門から出れば他の街に行けるのか。どの門にどの道が繋がっているのか。それを知れたのだから。
それだけでも大収穫である。
おかげで、僕は次に向かうべき場所の見当をつけることができたのだ。
地図の代わり、というわけではないが、あの家屋から拝借したものもう一つだけあった。
それが今僕が身に纏っている、この世界で織られた衣服だ。
故郷の名残であるブレザーは、ここにおくことにした。
何故、僕が制服のブレザーを捨て、色鮮やかなこの世界の民族衣装に袖を通すことになったのか。
これも言ってしまえば、より生き残り易くするため、であった。
衣服とは、即ち、自らが所属する共同体を他の人間へと表明するための、一種の名刺であり、身分証明証でもある。
僕が着ていた学校の制服がいい例だろう。
着ているだけで、自分の身分を、つまり僕が学生であることを、言葉なくとも他人に説明することができる。
僕はあの高校の生徒です、と、口に出さずとも周りに示すことができる。
例え、どこの学校の制服かを知らなくとも、その者が学生というノーマルな身分にあると、文字通りその身でもって語ることができる。
そう、あくまで僕の世界での話、ではあるが。
この世界ではそれは通用しないのだ。
ブレザー、もしくは学ラン、セーラー服と学生が、イコールで繋がる常識がそもそも存在しないだろう。
と、なれば身分証明としての機能は望めまい。ただ一つのことを除いて。
生まれた世界とは真逆に、身分の一切を証明できないことを証明する――その機能だけはきっと元気に働き続けることだろう。
それに見たところ、制服は生地といい造りといい、この世界の衣服のノーマルからは逸脱した存在であることは間違いなかった。
もし、そんなアブノーマルな制服に身を包んだ僕を、この世界の住民が見たならば、さて、その彼はどう思うだろうか。
異邦人程度ならまだいい。
どこか遠いところから来たんだな、くらいにしか思われていないから。
だけど、外から来た未知の敵、と判断されたら?
逃げられたり、追い出されたりするのなら御の字。
最悪、未知への恐怖に駆られた彼に殺されてしまうかも知れない。
その最悪をブレザーを捨てて、この民族衣装に着替えるだけで回避できるのだ。
捨てるものよりも、明らかに得られるものの方がずっと大きい、そんな美味しい取引きと言えるだろう。
やはり良心は痛むけれど、死んでしまった誰かの衣服を盗るだけで、このような恩恵を授かるのであれば。
心を犠牲にして、窃盗を行うのは仕方のないことなのだ。
「……行こう」
ここに居ても何も起こらない。
いくら僕が街を眺めていて、あの街に活気が戻るなんて魔法はかからないのだ。
だから僕は悲しくて、後ろめたさを覚える死んだ街から視線を剥がす。
街に再度背を向ける。
出発するために。
視界に広がるのは昨日見たとおりに、からからに乾燥してささくれだった赤土。
けれども、昨日とは異なる点が一つ。
僕の足下から、遙か地平線までくねくねと続く道がそれだ。そこだけ踏み固められ、ささくれは見られない。
この道を辿れば隣の街にたどり着くよと、あの街の地図は教えてくれた。
人が集うところに行くために。
そこで昨日からの空腹をなんとか満たすために。
生きた街に行くために。
そして何より、ここよりもっとマシな場所にたどり着くために。
僕はしっかりとした一歩を踏み出した。
さくり、と土を砕く音は今日はしなかった。
◇◇◇
きっとあの死んだ街が最底辺で、あそこから出ればもっとマシな場所に行けるだろう。
そう思っていた時期が僕にもありました。
結論から言えば、その期待に僕は真っ正面から裏切られたことになる。
あそこよりも更に救いようのない光景が、僕の目の前に躍り出てきたのだ。
それも一回だけではない。
恐ろしいことに、僕の中にある最底辺な状況の定義が、次々、続々、どんどんと更新されていったのだった。
振り向いても、死んだ街が視認できなくなった距離に来た頃合いに、はじめのそれはやってきた。
かの街と同じく、ここにも降り注いだのだろう。
地面にめり込んだ岩が、たくさん転がる場所にたどり着いた時だった。
僕はそこに人型の物影があることに気がついたのだった。
また、岩に潰された死体か。
反射的にそう思ってしまっただけに、恐怖と嫌悪で胸をどきりとさせてしまった僕ではあったが、どうも街の時とは様子が違っていた。
ほとんどがが潰され、はじき飛ばされ、半ば地面に一体化していたのは、街のそれら。
それに対して、その人影は足を投げ出し、岩を背もたれにする形で地に座していたのである。
まるで休んでいるかのように。
それも遠目に見た限りでは、身体が欠損している様子も、どこにも見られなかったのだ。
その時、僕は再び胸を高鳴らせた。
今度は希望が原因で。
きっとあの人影は、生きている人だ!
そう思うや否や、僕は夢中になって駆け出し、岩に寄りかかっている人影へと近寄った。
もしかしたならば、休憩中の旅人か、あるいはあの街へと向かう商人だろうか。
そうならば、家屋から拝借したお金を使って、食料を分けて貰おう。
この先に行っても、待つのは死人の街があるだけだと教えよう。
それから、それから――
その人に向かって、何を伝えようか。
駆け寄る最中、それを必死に考えていた僕であったが、しかし、それらを人型の物影に向かって話す未来はやってこなかった。
そう。結局のところ、見つけた人影も者ではなくモノであったのである。
また、僕は死体を見つけてしまったのだ。
ただ、昨日のソレらとは異なり、今日見つけたソレは遠目で見た通り、大きな欠損もなく、かなり綺麗な状態であった。
が、それはあくまで昨日と比較した場合の話であり、岩によりかかる彼も欠損はないものの、大きな目立つ傷はその身に受けていた。
それでも、今日の方がよほど見れる状態であることは間違いない。
どちらが悲惨な死体かと問われれば、間違いなく昨日のものを上げるだろう。
ただ、その問いが、どちらが救いようのない死体か、というものであるならば。
答えもがらりと変わって、今日の方が救いようがないと答えざるを得ない。
それは何故か。
鋭利な刃物か何かか。
とにかく、今日の死体は右肩から鳩尾のところにかけ、ばっさりと袈裟に斬り下ろされていた、と言えば、その救いようのなさがわかるだろうか。
即ちその人の死因とは、他人に襲われたことによるものであったのだ。
それに加えて、見つけた遺体の身なりも絶望感をあおるに一役買っていた。
斬りつけられ、血まみれになった上半身はさておき、下半身に肌着を除いた衣服がなかったのだ。
彼の周りには一切手荷物が見当たらなかったことを踏まえると、ズボン共々盗られたと見るべきだろう。
つまりは、彼は追い剥ぎ行為の犠牲者であったのだ。
この亡骸は言うなれば出し殻であったのだ。
生前に盗られたのか、それとも死後に盗られたのか。
それを判断する術は僕にないけれど、どちらにせよ救いようのない事態には違いない。
窃盗をしてのけた僕が言う筋合いはないだろうが、こんな遺体が転がっているところを見るに、どうにもこの地域は。
いや、下手をすれば、この世界の倫理は大分破綻しているのではないだろうか。
そんな邪推をせざるを得ないその光景が、まず初めての最底辺定義の更新であった。
第二の更新は第一の更新と類似しているものであった。
道を上れば上るほど、転がる出し殻の数が明らかに増えていった。
岩に寄りかかって死んでいた彼のような遺体が、文字通りそこかしこに転がる、悲惨な光景が僕を待ち受けていたのだ。
あっちにごろり。
こっちのばたり。
そっちにちょこん。
そんな具合で。
ひどいところになると、四、五体の骸が折り重なり、小さな山を作っていた。
これを見て、もはやこの場所に倫理を期待する方が無理があろう。
時はまさに世紀末。
どういうわけか、この言葉が脳裏に浮かび、こびり付いて離れない。
倫理が崩壊してしまったのでは、という邪推が推測でなくなってしまった光景。
それが第二の更新であった。
そして第三のそれは。
まさに今、僕の近くで絶賛更新中であった。
今の僕の状態を少しばかり説明しよう。
僕は今、出し殻と同じく道を上るに比例して増えていった、地にめり込んだ岩の影に身を潜めている。
そう、今、僕は。
息を潜めている。
隠れ潜んでいる。
気配を殺している。
身を縮ませている。
身を隠している。
出会ってしまった脅威に対して。
「いやだ、嘘、いやだ、嘘、いやだ、嘘、いやだ、嘘、いやだ、嘘」
読み込みに失敗した音声データのように、同じことを繰り返す女の人の声が、岩の向こう側から聞こえる。
絶望に染まった声色が聞こえてくる。
どうして彼女は壊れたように同じことを繰り返すのか。
どうして彼女は絶望してしまっているのか。
僕はその答えを知っている。
何故なら、僕は見てしまったから。
彼女の身に起きた出来事を。
そして僕がこうして身を縮ませている理由とは。
昨日からあんなにも探し求めていた、生きている人をようやく見つけたのに、彼女と会おうとしないのは。
現在進行で彼女に襲っている不幸に、僕が巻き込まれないためであった。
僕が見たものとは。
それは――
「誰か。助けて、助けて、助けて、助けて。誰か、誰か、誰か」
鬼。
そう、鬼がいた。
比喩表現でも何でもない、鬼そのものを僕は見つけてしまったのだ。
いや、鬼にしては妙に身体が小さかったら、西洋の小鬼であるゴブリンってやつかも知れない。
いずれにせよ、僕は怪物を見た。
一瞬、僕は頭が本当に狂ってしまったのかと思った。
過度なストレスにより壊れてしまったのかと思った。
けれどもここ異世界。
悪魔に突き落とされてやってきてしまった異世界。
倫理も崩壊してしまった異世界。
僕の居た世界の理が、そのまま通用しないことを、先ほどから嫌でも見ているではないか。
そう思い至った時、僕は目の前の光景がまごうことなく現実であることを認め、自分の身を守るため静かに岩陰へと隠れたのだった。
震える両手で自衛のためのナイフを握りながら。
「やめて、やめて、やめて、やめて、いや、いや、いや、いや」
その小鬼が、またはゴブリンがなにをやっているのか。
女の人の張りのないかすれ声と、奴がどう関係するのか。
関係性ならある。
奴は女の人を貪り食っているのだ。
生きたま、腕の肉を、肩の肉をむしゃりむしゃりと。
楽しげに食っていたのだ。
躍り食いをしているのだ。
だから彼女は苦しげな声をあげている。
そして貪り食っていたのは、何も肉体だけの話ではなかった。
「ああ、あなた、あなた。苦しいよう。悔しいよう」
あなたとは彼女の夫を指すのだろうか。
その言葉を聞いて、僕は気分が悪くなった。
悲しくなった。
二日連続で、目に涙が浮かぶ。
くちゃりくちゃりと、肉を食む音がする。
奴が女の人を食べる音だ。
くちゅりくちゅりと、粘膜が弄ばれる音がする。
この音は奴が。
あの化け物が。
襲われている女性の女性を貪っている音だ。
だから女性は悔しげな声をあげている。
そう、出会った光景とは。
新たに更新された最底辺とは。
化け物が人を食い、人を犯している。
そんな真に救いが見当たらないものだった。
「けたけたけたけたけたけたけたけた」
奴が笑う。
愉快げに笑う。
不快な笑声が僕の鼓膜を振るわす。
不快だ。
煩累だ。
耳障りだ。
気持ちが悪い!
その笑い声は僕の神経を逆なでする。
その笑い声は僕の神経をも犯す。
ああ、嫌だ!
嫌!
僕を犯さないで!
がちがちがちがちがちがちがちがち
歯の根も合わない。
怖くて怖くて。
僕の歯が鳴っている。
がたがた震えている。
この音が奴に聞こえるかもと思い至って。
僕は急いで両手で口を押さえる。
指を歯に噛ませて、音が出ないようにする。
歯が食い込んで指が痛い。
皮を噛みちぎったのだろう。
血の味がした。
だけど、歯の音はこれで止まった。
対して、岩の向こうから聞こえる音はは相変わらず止まらない。
それはつまり、奴があの女性に夢中になっている証。
ああ、よかった。
気付かれていない。
僕はまだ無事だ。
次いで罪悪感に襲われる。
(ごめんなさい)
心の中で、あの女の人に謝る。
何も出来なくてごめんなさいと。
見捨ててごめんなさいと。
助けられなくてごめんなさいと。
何度も。何度も。
助けられるわけがない。
あんな怪物、どうやって追い払うというのだ。
怒り狂った犬猫ですら、僕の手に余るというのに。
人型の怪物に勝てる理由がどこにあろうか。
奴の獲物が一つ増えるだけに終わってしまうだけだろう。
化け物の楽しみが一つ増えるだけとなろう。
なら、僕に出来ることは。
ひたすらあの女性に謝り続けることと。
ただただ事が早く終わってほしいと祈って。
奴がこの場から立ち去ってほしいと祈るだけ。
だから僕は身勝手な謝罪と祈祷をし続けた。
ことが終わったとき、彼女はどうなるか。
どうなってしまうのか。
どうなってしまうことを意味しているのか。
今の僕はそれを考えようともしなかった。