第二章 二十話 警戒しすぎたところで、悪いことはない
想起する。
当たれば容易に肉を引きちぎる、そんな岩の塊を。
夜のカペルの広場での鍛錬がここにきて役に立つ。
僕のイメージを受けた魔力は、ほとんど間をおかずに現実の岩塊へと姿を変えた。
本来であれば、そこが僕の限界。
一度具現化した魔法は放つか、中断しなけければ新たな魔法を行使することはできない。
だが、今に限っては違う。
岩が出来上がり、宙に浮かぶ段階となるや否や、魔法のコントロール権が横からひょいと取り上げられる。
ハクが岩を宙に留めるための制御を引き受けたのだ。
魔法を制御する必要がなくなった。
何も魔法を行使していない、ニュートラルな状態へと戻る。
こうなればまた、僕は魔法を使うことが出来る。
だからまた僕は想起して岩を生み出す。
「いいね。その調子だ。どんどん作り出してくれ。受け入れるから」
ハクの声が吐息に乗って、僕の耳をくすぐる。
君が作り出した魔法は、私がプールしておくから、兎角今は岩を作り出すことに集中してくれ。
彼女はそう言った。
言われなくとも、そうするつもりだ。
今、ここで僕が何かしらをしくじれば、僕はもちろん、北条君もレイチェルもハクもリグも二人の騎士達も命を落とす。
そうであるならば、絶対にしくじることが出来ない。
邪念を抱かないためにも、何かに注意を奪われないためにも、僕は目を瞑った。
岩を生み出すことに意識の全てを注いだ。
僕が生んで、生んで、生んで、生んで、奴の身を刻むための魔法を生んで。
彼女が止めて、止めて、止めて、止めて、奴を瞬きの間に微塵とするために魔法を貯める。
遮断しきれない聴覚が捉え続ける。
剣士の二人が地を蹴る音、触手が空を切る音、二人が襲い来る触手を刻む音を。
それらに意識を奪われそうになり、目を開けて彼らを攻防を見守りたくなる欲求に駆られる。
けれども、それをぐっと我慢。
今、僕が出来る唯一にして最大の役割をひたすらに果たし続けた。
「さて、そろそろだろうか。ツカサ、目を開けて」
一体の岩の塊を生んだだろうか。
数えるに億劫になった頃合いに、ハクが耳打つ。
言われるままに目を開ける。
まず視線を向けたのは、激戦の音曲奏でる二人の剣士。
相も変わらず強烈な触手の一撃を躱し、時に一閃を振るう姿があった。
見る限り、二人は打擲を受けた様子なく、無傷のようだ。
まずはその事実にほっとする。
次いで目を、絡み合う僕とハクの頭上へと向ける。
空中に僕が生んだ魔法が、ところ狭し、しかし秩序めいた様でずらりと浮いていた。
その数、もはや指で数えるに能わぬ。
これだけの数を岩を作ったのか、と、自分のことながら息を呑んで驚く。
が、同時に希望を抱く。
これだけの数の岩を、間断なく撃ち込み続けたのであれば、きっと――
「ツカサ。彼らに合図を。ここまま撃ち込めば彼らを巻き込んでしまう」
「うん」
もう一度目を瞑って。
大きく息を吸って。
二人に伝える。
その時が来たりと。
「撃つよっ! どいてっ!」
声帯のみならず、僕の小さくて細っこい全身を振るわせて、大音声を生み出す。
対する二人の反応は機敏だった。
まずはレイチェルが、それから三つくらいの間をおいて北条君が触手の結界より離脱し。
僕ら二人と化け物の間を遮るものが、何も存在しなくなる。
ぞくりとするほどおぞましい奴の姿を真っ正面に直視して、やはり恐怖を覚えて身をぶるりと震わす。
僕が恐怖を覚えたことに気付いたのか。
ハクの僕を抱きとめる力が、ほんの少しだけ強くなる。
大丈夫、安心して。
彼女のぬくもりは、そう僕に語りかけた。
その心遣いの効果は覿面だった。
僕の恐怖心はすうと薄まった。
「ハクっ」
そして僕は彼女の名前を呼ぶ。
魔法を撃ち込むための引き金は、彼女が握っていた。
だから僕は撃ってとお願いした。
「ああ。行けえっ!」
背中から直接伝わるハクの声。
それは初めて聞く、やる気と気迫に満ちたものであった。
その気迫の熱量を表すかのように宙浮く岩が、ぶんと威勢の良い音を立てて飛び立った。
鋭利な岩が連続して化け物へと暴力的な勢いをもって襲いかかる。
その激甚さは、まさに機関銃の如し。
再生能力に自信を持つのか、案の定奴は避ける素振りを見せようともしない。
僕らにとっては好都合。
かくして酷を極めた惨劇は約束された。
無論、あの化け物にとってのものであるが。
肉を打つ音がした。
一発、二発、三発。
岩をその身で受ける度に、血飛沫上がり、肉は弾ける。
例によって奴は再生を試みようとする。
だがしかし。
四発、五発、六発。
失った体を新たに生み出そうと血管を伸ばそうとも。
傷口にすっ飛んだ体を押し当てようとも。
肉が弾ける音は終わることはない。
七発、八発、九発。
再生が完了しきるその前に岩の塊が直撃する。
再生を上回る速度で僕らの魔法が、奴の体に殺到する。
崩壊が始まる。
十、十一、十二。
みるみるその体は小さくなってゆく。
末梢を削られ、正中を穿たれ、徐々に徐々に体が崩れゆく。
それらは破壊が再生を超越している証。
何発目? 何発目? 何発目?
もはや直撃した魔法、それを数えることが出来なくなってきた頃合いとなると。
あのおぞましき巨体はすっかりと姿を消していた。
あるのは均された岩盤に広がる血だまりと。
境界を失った肉と骨と臓物が混ざり合った、細々とした肉塊の山のみ。
それでもなお、魔法はそれらに執拗に当たり続ける。
魔法の岩は砕け、岩盤を破砕し、砂利と血肉と空気を撹拌し続ける。
最後の最後の一発が宙を走る。
もはや挽肉以下の細片と化した、化け物の血肉に当たり。
大掛かりな撹拌作業は終わりを告げた。
音が消えた。
岩が風を斬る音も、肉を打つも、血が噴き出す音も、血管が絡み合う音も今は聞こえない。
森閑としたの中、僕らの視線はそれに注ぎ続ける。
警戒の視線を注ぎ続ける。
土煙に煙る先の砂利と血肉と骨の混合物に。
ここから再生されたのであれば、僕らの敗北。
再生しなければ――さて、はたして。
刹那の間をおく。
それは動く気配はない。沈黙を保ったまま。
暫くの間を作る。
なお動かず。土煙は晴れる。その姿が詳らかになろうともなお揺るがず。
長い間待った。
それがぐらりとにわかに動く。僕らは身をびくりと振るわせる。
まさか。
しかしそれは杞憂。
以後動かない。
積もったそれの上部が、バランスを失いべちゃりと崩れて落ちただけ。
「……勝ったの?」
それでもまだ、疑いの晴れない僕は、抱きしめてくれているハクに問う。
目はしつこく肉片に置きながら。
耳のすぐ側にて、ふっと息を漏らして笑う声がした。
ハクが頷く気配もした。
「ああ。勝ったよ」
ハクが答えた。
勝利宣言。
肩の力がようやく抜けた。
安堵のため息も漏れる。
強烈な安心感に、思わず足腰がくだけて、みっともなくへなへなとその場にへたり込みそうになる。
でも、ハクが支えてくれているお陰で、なんとか情けない姿は見せずに済んだ。
「おやおや。緊張の糸が切れてしまったようで。まあ、仕方がないか」
声だけで、彼女が苦笑いを浮かべているのがわかった。
やれやれ、仕方がないな、といった態度で僕を未だ抱き留めてくれているのだろう。
「それはそうと、だ。聞きたいことがある。ツカサ、君は……」
しかし、その様子がにわかに変化した。
彼女が口にした声は、至極真面目な声色。
今までのふわふわとした、どこか夢見心地な話し方とは全く違うそれに驚き、僕は彼女の顔を見た。
表情も、今までに見たことのない真面目なものだ。
それは優等生が、先生に質問しているものと似ていた。
いまいち納得せず、わからないことを解消するために、真摯に教えを請うている――今の彼女の姿はそれだった。
そんな姿を見せられれば、真面目に答えなければならない。
力の抜けた背筋をなんとか叱りつけて、姿勢を正す。
彼女は僕の何を聞きたいのだろう。
答えられることならいいけど。
「いつまでツカサに抱きついているかぁ! 離れよ!」
勇ましい大声と共に、突進してくる者が居た。レイチェルだ。
彼女は、さながら鳶よろしくにハクから僕を掠め取って引き剥がす。
レイチェルが鳶なら、僕は油揚げか。
お陰で、僕は彼女の質問、その全てを聞き取ることが出来なかった。
「うええ」
運動能力に優れる彼女の突進を受けて、目がぐるぐると回って気持ち悪い。
当然、彼女は加減してくれたのだろうけど、何せ受けるのがもやしの僕だ。
ダメージはそこそこ大きかった。
「ツカサ、口だ! 口を開けるのだ!」
どうして? そう聞こうと口を開くや否や、レイチェルは何かの瓶を突っ込んでくる。
中身の何らかの液体が遠慮なく、どくどくと口に流れ入ってくる。
あ、やばい。
これ、気をつけないと気管に入ってむせるやつだ。
それを防ごうと、なんとか口の中に液体を留めた。
そうすると、口から鼻腔ににおいが突き抜けてきた。
悪いにおいではない。
香りと呼ぶ方が妥当だろう。
お香のような、そんなにおいだ。
が、それを香りと称せるのは、鼻で嗅いだ時の話。
口に入れたものが、お香っぽいにおいがするなんて、それは異常事態に他ならない。
何だこのにおいは!
びっくりしてそれが僅かに気管に入る。
僕は盛大にむせかえった。
「ごほっごほっ……レ、レイチェル。何なの、それっ。なにするのっ」
「うむ! 聖水だ! 魔族と口付けてしまったのだ。しっかり清めておかねば……ほら。もう一回やるぞ!」
いや、その対応は中々酷くないか?
しかも本人が目の前に居るのに。
ちらとハクを見てみれば、やれやれ、もう慣れっこだから気にしないで、と諦めの表情を顔に貼り付けていた。
「清めなきゃって……というか、これ。なんか変なにおいがするんだけど」
なんとか手を差し出して、口に差し込まれるのを阻止。
そして彼女に問う。
聖水のにおいの正体は何かと。
自信満々に彼女が答える。
「神聖な儀礼が施されているからな。香油でもって水を清めているのだ」
「香油」
「ああ、香油だ」
「それって口に入れて大丈夫なものなの?」
お香っぽいにおいがすると思ったけど、まさかお香の親戚だった。
生まれた世界で見た、アロマオイルの裏書きを思い出す。
飲むな、肌につけるな。
そう書かれていた。
どう考えたって、口に入れちゃいけないものだと思うのだけど……
「大丈夫だ!」
にっこりと頷いて、レイチェルが安全だと太鼓判を押す。
考えてみればそうか。
教会の香油といえば、洗礼のために額に垂らしたりと、なにかと人体に接触する機会が多い。
人体に害のないものを使用していて当然……
「ちょっとくらいなら飲んでも死なない!」
当然じゃなかったようだ。
「ちょっとくらいならっ?! じゃあ沢山だと……ごぼ」
死ぬのか、と紡ぐはずだった台詞は続かず。
衝撃的な一言に愕然とした僕の隙を突いて、彼女は再び聖水の瓶をねじ込み傾ける。
またしても香油くさい水が、僕の口内を蹂躙した。
口の端から漏れて、ぼたぼたと顎を伝って流れ落ちた。
「……あれ? リグは?」
手をじたばたさせて、押し寄せる聖水に必死となって抵抗している僕を尻目に、北条君が呟く。
どうやら、客席からリグが移動して見当たらないらしい。
「む……言われてみれば」
浄化作業を思う存分やったレイチェルは、からっぽになった瓶を片手に、右に左にと視線を滑らせる。
「ああ、居た居た」
そしてレイチェルはリグを見つける。
蹲ってむせ返りながらも、僕もレイチェルの見る方へと目を向ける。
いつの間にか客席を降りたリグは、かつては化け物であった、血肉と岩のカクテルの側に居た。
跪いて俯いて、両手を組んで目を瞑ってそこに居た。
口元をよく観察してみれば、ぽつりぽつりと何かを囁いている。
「……祈り?」
「の、ようだな」
なんとか呼吸を落ち着かせた僕の呟きに、北条君が首肯する。
「もしかしたら……に備えてか」
とはレイチェル。
ハクの奴の正体に関する推察を思い出す。
並外れた再生能力と、触手を生やしたことから、怪しくはなったけれど、あれはもしかしたら人間であった可能性がある。
もし、そうであったならば、弔いの祈りを捧げねばならない。
だからリグは今、簡略なれど祈りを捧げているのだろう。
「……どれ。なら私も」
修道士であるから、やらねばならるまい。
そう口にしながら、リグの元へと向かう一歩をレイチェルが踏みしめた。
――その時であった。
化け物の残骸に異変が生じたのは。
にわかにぞわりと、肉片の山が蠢いた気がした。
気のせいか?
我が目を疑い、二、三回こする。
が、結果は変わらず。
ぞわりぞわりと相変わらず肉片は動いていて。
それに皆、気がついていない。
「リグっ」
一番危ないのは至近のリグだ。
警句が口から飛び出る。
異変に気付いたレイチェルが剣抜き、駆け出す。
僕は魔法を構築。
相性の悪いハクは何も出来ない。
その間も肉片は動いて絡み合って固まって。
そして形が成る。
「きゃっ」
リグの短い悲鳴。
成った形は大きな大きな右腕。
奇妙なことにそれが、独立してぎこちないながらも動いていた。
握り拳作り、リグに振り下ろさんとする。
きっとそれは奴の最後っ屁。
固まったそばから、外縁からぼろぼろと肉がこぼれ落ちる。
その様子から鑑みるに、時間をおけば自壊することだろう。
だが、間に合ってしまう。
リグに一撃を与えるその瞬間には。
助けなきゃ。
だが、間に合わない。
レイチェルも僕も、意表を突かれて反応が遅れた。
剣も魔法も、届くのはリグが襲われたその後。
拳がリグに迫る。
せめて一人の神官を道連れにせんと。
勝負、あった。
結末を悟り、レイチェルから歯ぎしりの音聞こゆ。
「リグ! 伏せろ!」
もう間に合わない。
皆がそう思っていたという認識は誤解であったらしい。
北条君がなお、諦めず、懸命に疾走する。
加護が強く働いているのか。
その速さはレイチェルよりもずっと速い。
見る見る距離を縮める。
もしかしたら間に合うかもしれない。
皆が期待を込めて北条君を見た。
彼は剣を振りかざした。
銀色の剣。
しかし振り抜くその直前。
剣の色が変わる。
銀から金へ。
輝きが変わる。
さながら太陽の眩い輝きに。
そして振り抜きに先行して、剣纏う金光が化け物を包む。
その刹那振り下ろす拳がぴたりと止まり。
あちらこちらから真白い炎が腕から上がり、苦しげに震えて。
そして彼の一閃をもろに受ける。
両断。
左右にずるりとずれる。
されどそれも一瞬。
次の瞬間には。
一層強くなった金光に包まれ、絡まれ、集束して。
文字通り跡形もなく奴は消滅した。




