第二章 九話 今度は逃げない
晴天。本当にすっきりするくらいの晴天だった。
太陽が天頂ど真ん中にある。丁度お昼時といってもいい頃合い。
広々とした平原、心地よく顔を撫でるそよ風、ほのかにする草の香、柔らかい日差し。
穏やかなシチュエーションがここまで、揃ったのだから、たいした理由はなくとも、いい気分になってしまうというもの。
現に僕はいい気分。
ピクニックにでも出かけているような、そんな晴れやかな心模様である。
こんな日に、木陰で友達と一緒にお弁当を広げられたら、どんなに幸せなことだろう。
この世界に来て、気が滅入ることばかりだったからか。
街の外にて穏やかな風景を見ただけで、意識がそんな想像の世界に、いとも簡単に飛んでしまいそうになる。
でも、都合の良い想像の国に、意識を亡命させてはならない。
何せ僕は、僕らは決して遊びに行くために、カペルを後にしたのではないのだから。
無事が判明した王領にて食料を手に入れる。
そんな重要な使命を帯びているのだから、気を弛ましていけない。
それにいくら目の前が平和な風景だからといって、それに騙されてはいけない。
世界は間違いなく荒廃しおり、人心もまたそれに然り。
何処に他人の悪意が埋伏しているか、知れたものではない。
常に誰かに狙われている――そう心がけなければならぬのだ。
だから、ほんの少し先を行く二人の聖堂騎士の背中からは、油断の気配が露とも感じ取れない。
その警戒感故に、僕ら三人の間を飛ぶ会話も皆無だった。
しかし二人は、僕にまるっきり気を配っていないわけではない。
むしろ、申し訳なくなる位に気を遣って貰っており、しかもその気遣いは現在進行中である。
その証拠に、僕がバテずに歩き続けていることが挙げられる。
彼女ら二人に同行するにあたって、一番の懸案事項が、僕の体力であった。
僕は体を鍛えておらず、そのまんまもやしなので、その体力は二人に比して著しく低い。
だから、大した距離も歩いてもないのにさっさとバテて、道中休憩の嵐を引き起こしてしまうのでは、という懸念が、出発前には確かにあった。
けれど、現在一回しか休憩を挟んではいない。
もちろん、この生活の中で、僕の体力が飛躍的に成長したわけではない。
これは明らかに前行く二人が、僕に合わせたペースで歩いてくれているからである。
あたりを警戒しつつ、お守りをしなければならない。
オーバーワークもいいところだろう。
それでも文句の雰囲気一つも醸し出さない、二人の懐の深さ驚くばかりだし、ありがたいばかりである。
もちろん、僕とてただ守られているだけの、お姫様よろしくに終わる気はない。
素人ながら、主に空中への警戒は怠っていないつもりだ。
魔法が使えるから、ルフに対しては彼女らより、僕の方が撃退することが容易だろうから。
多分、それは彼女らもわかっていることなのだろう。
初め、地、空に向けていた警戒の目も、僕が空に注意の視線を注いでいることを悟った後は、地平線付近に固定するようになった。
一応、空のことにおいては頼られているようだった。
ほんのちょっとだけ、嬉しくなる。
なおも無言で歩みを進める。
視線の先に小高い丘が現れ始めた頃合いか。
先行く二人の足がぴたりと止まった。
「何? どうかしたの?」
問いかける言葉に、返事はない。
代わりにケイトが右人差し指を唇に当てて、沈黙を要求した。
何かが、聞こえるというのか。
二人は丘、いや正確には、その裏側にあるであろう何かを見透かさんと、じっと注視。
僕も、意識を前方に集中させる。
音が聞こえた。
それは多分に人の気配がする音だった。
複数人が地面を蹴って駆ける、そんな音。
音は徐々に近くなる。
足音だけではなく、荒い呼吸も僅かに聞こえるようになった。
誰かが駆け寄ってくる。
警戒レベルを高めた二人は、片足を一歩引いて半身に。
そして音を立てずに、腰に差したそれぞれの愛剣の柄に手をかける。
臨戦態勢整う。
丘の稜線がゆらりと揺れる。
向こう側から人影が現れる。
一つ、二つ、三つ。
目を凝らしてみる。
三人の体の線は細い。どうやらいずれも女性のようだ。
光を良く跳ね返す、真っ白な服装からして、教会に仕える身か。
三人が三人、後ろを気にしながら、なお駆ける。
ちらちらとよく振り返る。
その表情には恐怖が色濃い。
追われているのだろうか。
多分それは是。
正確な数の見当はつかずとも、鼓膜振るわす足音は、明らかに三人分より多いことはわかる。
まだ何かが来ることは必定。
僕らの三つの視線は、稜線をじっと睨む。
彼女たちを追っているであろう、何かを見るために。
彼女らを視界に収めて、その対象が現れるまでの時間はきっと数秒のことだろう。
でも、アドレナリンか何かの脳内物質のせいだろう。
その間が何十秒のことにも感じた。
そんな焦れったい合間の後、そいつらはやってきた。
三人の神官が現れたときと同じように、稜線をゆらりと揺らしながら。
彼女たちよりも、小さな人型の影が……六、七……? いや八つ。
認めるや否や、二人の騎士は地を蹴り、彼女らの下へ。
駆け出しと同時に鞘走りの音響かせながら。
「うっ」
勇ましい二人とは、まったく対照的な音を生んだのは、他でもない僕だ。
彼女らを追うモノ、その正体を知って思わず息を呑んだ。
思い出したくない記憶が蘇る。
あれは、この世界に飛ばされてきて、一日経った時のことだ。
からからに乾いた赤土の原で、僕はそいつらのお仲間に出会った。
いや、見つけたと言うべきか。
組み敷かれ、静かに泣いて苦しむ、女性と共に、僕はそいつを見つけた。
そう、今、目の前で三人の神官を追い立てるのは。
戦斧を手に握った。
子鬼ことゴブリン。
けたけたけたけたけたけたけたけた。
あの時の笑い声が、耳の奥で蘇る。
罪悪感と共に蘇る。
あの時僕は、何も出来ず、また何をするだけの力を持たず、一つの命を見殺しにしてしまった。
罪悪感が、今、再び胸中を焼いた。
(でも、今は)
あの時と違う。
やつらに対抗する力がある。
植え付けられたトラウマをぬぐい去るため、大きく目を瞑って深呼吸。
再び目を開けて、奴らを睨む。
「今度は、逃げない」
今度は立ち向かう。
その意思を誰にでもなく呟いた。
恐怖心は、やっぱりあるものの無視できる範囲内。
闘争を挑むために、一歩引いた視点を心がけて、現状を把握。
逃げる三人。追う八体。迎撃せんと急行する二人。
その中で一番足色がいいのは、聖堂騎士の二人だ。
次点でゴブリンの群れ。一番悪いのが神官達であった。
しかし、都合の悪いことに、いくら二人が速度に勝るとはいえ、どうにも間に合いそうにない。
つまり、レイチェル達がゴブリンと接触するその前に、ゴブリンらが神官一行に追いついてしまうということ。
少なくとも暴虐の嚆矢ならんと、突出している二体は追いついてしまう。
なら、僕がやることは簡単。
そして、イメージ。
魔力を空気に馴染ませて。
岩の弾丸を一つ拵えて。
大きく鋭く形成して。
狙いを定めて、射出。
岩が生み出した、空気を打ち切る音を聞いたのと、ほぼ同時に、再び想起。
こういう時、魔法を一度に複数行使できないのがもどかしい。
速度重視。速度重視だ。
大きさもそこまで大きくなくていい。
肉体を容易に貫けるに適う、鋭さがなくってもいい。
ただ、石をぶつけて足を止めさせる。
それさえ出来ればそれでいい。
その全てが、一発目に比べるととても粗末な出来でもあるけれど。
しかし一発目から間髪入れずに二発目を発射。
二つの岩はあっさりレイチェル、ケイトを追い抜き、神官たちとすれ違って。
目標に着弾。
丁寧に作った初弾は、追撃する魔物の腹に命中。
その腹膜下に収まるもの、全てを四方八方、あちこちに飛散させるに至る。
一方、拙速に生み出した塊は、当たり所が極めて良く、頭部に直撃。
貫くことは出来ずとも、しかし首をへし折り、ゴブリンの片割れの命を奪うことに成功した。
遠距離からの攻撃に、僅かに追っ手の足の回転が鈍る。
迎え撃つ聖堂騎士二人は、その僅かな隙を見逃すほど甘くはなかった。
ぐんと、一層地を強く蹴り、あれよあれよと、間合いの内に標的を収めた。
「値千金の活躍だ! ツカサ!」
三人に危害が及ぶ前に、間合いに収めることが出来たからであろう。
レイチェルが上機嫌に僕を称えてくれた。
抵抗する術のない者たちを、どういたぶるか。
それを考えるのに夢中になっていたからだろう。
強襲した二人に対する防備を、ゴブリン達はとることが出来なかった。
大きな隙だ。
「「祓魔っ!」」
重なり合わさったかけ声と、それぞれの一閃はほぼ同時。
いなす暇なく斬撃を受けた二体は、あるいは袈裟に、あるいは真一文字に断たれ、速やかに絶命。
しかし、流石人類に仇なす生命体、魔物と言うべきか。
たたら踏みながらも、各々手に持つ戦斧を振りかざし、二人の命を消し去らんと画策する。
一対一なら分が悪くとも、二対一なら勝てると踏んだのか。
それぞれ二つずつの閃光が二人を襲う。
それに対する二人の対応策は綺麗に対照を成していた。
レイチェルは半歩横に体をずらして、一つ目の攻撃を躱すと。
並行し、一撃を空かされたゴブリンを蹴って、残る一体へとはじき飛ばす。
残る一体は、渾身の一発を与えんと大きく振りかぶっていたが故に、すっ飛んできた仲間を躱すことが出来なかった。
結果、無様に激突してしまい、むざむざ攻撃のチャンスを逃す醜態を見せた。
「ふっ」
対するレイチェルはゴブリン二体の体がぶつかり重なった、その瞬間を狙った。
剛直な剣筋が横一文字に走る。
数拍遅れて、ゴブリンの身体が上下に泣き別れ、さらに遅れて下半身が倒れる音と、上半身が落ちる音が鼓膜を振るわす。
しかも音は四回した。
そう、レイチェルただの一振りで、強引に二体同時に両断するという離れ業をやってのけたのだ。
野性味溢れる剣がレイチェルなら、ケイトのものは差し詰め、精緻な剣と呼ぶべきか。
ほとんど間を置かず襲来した敵の攻撃を、ととんとウサギさながらの軽い跳躍であっさり躱し。
そしてどういうわけか、ゴブリン達は振り下ろした斧を戻さずに、そのままどうと地面にもんどり打った。
以降、細やかに痙攣をするのみで、大きく動こうとしない。
既にあばらのあたりに一突きずつお見舞いして、心臓を貫いていたらしい。
伏したゴブリンの体から、真っ赤な血が大河よろしくに流れ出していた。
僕の目では、何時彼女が刺突を繰り出したのか、それを見ることが出来なかった。
ぱちんと、二つの音が青空に響く。
二人が剣を納めた音だ。
彼女らは、振り向いて、追い抜かした神官たちへの下へと向かう。
神官たちは急に助かったことが信じられないのか。
腰を抜かしてしまったようで、全員ぺたんと尻餅をついていた。
ゴブリンとの戦闘は、接触して一瞬にして勝敗がついてしまった。
鎧袖一触とはまさにこのこと。
二人は強い。
デタラメに強い。
乾いた笑いを出しながらも、僕も彼女たちへと駆け足。
「大丈夫? ツカサ、彼女たちに水を」
たどり着いてみれば、ケイトは腰を抜かした三人に優しい言葉を投げかけている、その場面であった。
どれだけの距離を走っていたのかは解らないが、疲労と緊張により、のどがからからだろう。
僕にも覚えがある。
だから、ケイトに要求されたように、腰に下げた水筒を、未だ放心、といった体の彼女たちに差し出した。
「どうぞ」
僕の問いかけに、ようやく我を取り戻したのか。
茶色の髪の、一番背の低い一人が、がばりと勢いよく地面から腰を浮かせた。
「あ、あの!」
胸に手を当てて、大きな声で言う。
僕よりも小さな体を必死に使って、何かを訴えかけているように、僕は見えた。
「どうか、助けて下さい!」
まだ、混乱してるのかな?
もう助かったというのに。
僕はレイチェル、ケイトの順で目を合わせ、言葉を使わず聞いてみた。
この神官さんの言わんとしてること、わかる? と。
どうやら、彼女たちもとんと見当がつかないらしい。
さあ、とそれぞれ首を傾げただけだった。




