第二章 八話 司祭の祈りは
三人が出立したのは、そうと決めた次の日であった。
東雲に門を後にした三人の背中を、アイザックはデイビットと共に内側から見送った。
アイザックの胸中に心配がないと言えば嘘になる。
何せいずれの齢も、自分の半分に満たぬのだ。
俗世に残り、早めに婚姻を結んでいたのであれば、あの年頃の子が一人や二人居てもおかしくはない。
そんな意識が働いてのことだろう。
街の代表者として、無事に食料を持ち帰ってくれ、と願うより、ただ無事に帰ってくれ、と願う心が強い。
その根底にあるのは子を成すべきころに子を成さず、その癖、歳を重ねる毎に大きくなっていった、彼の穏やかな父性。
その父性が、あの三人に集束してしまいそうな、そんな危うい瞬間に直面することも多々あった。
しかし、彼が神に仕えて幾星霜。
長きに渡って香油の香に包まれ生きてきた、その矜持というものがある。
自らは神の下、その奇跡と恩寵を求める人々に対して平等に接し、教化せねばならぬ。
魂にまで刻まれたその意識をもってすれば、一種のセンチメンタルを一蹴することなど、苦労することなかった。
「行ったな」
右隣に立つ、聖堂騎士、デイビットが言う。
見れば、三人の影は、未だ薄明るい北の地平線に溶けかけ、今まさに目に見えなくなろうとしていた。
「ええ。どうか、万事上手く行って欲しいものです」
「やっぱあの年頃の連中だけに任せるのは心配? 能力的な心配じゃなくて、親心的に」
心中を見透かされたような一言に、驚いて勢いよく、隣の騎士へと視線を向ける。
痛々しい紫色の傷が目立つ顔を、にししと意地悪く歪める、馴染みの顔がそこにあった。
彼との付き合いは長い。
腐れ縁というやつで、自分の考えていることなぞ、解ってしまうのだろうな、とため息と共にアイザックは思った。
初めて会ったのは、アイザックが二十四の時か。
助祭として派遣された教会にて、彼はデイビットと出会った。
あの時の奴は十一で、こんなに憎たらしくはなくて、まだ可愛げあったのにな、とひっそりと歳寄り特有の回顧をした。
「ま、心配しなくていいと思うぜ。レイチェルとケイトも腕も立つ。何せ二人とも、剣じゃあ俺を超えてるからな」
肩をすくめて、ちったあ年上に花を持たせろ、と軽口一つつく姿に、悔しさは見られなかった。
一見すれば、部下の成長を素直に喜ぶ上司の鏡のようであるが、アイザックは知っている。
彼がこんなにも余裕ぶれるのは、彼が最も得意とする槍では彼女らは彼の足下に及んでいないからであることを。
追い越されたのは、さほど得意ではない剣であるからということを。
根っこでは、極めて子供っぽい彼のことだ。
槍で追いつかれた日が来たとすれば、何かと揚げ足を取って、自身の腕を上回ったことを認めないに違いない。
そんな確信がアイザックにはあった。
その根拠は、もちろん、十七年に及ぶ長い付き合いの、やはり腐れ縁からであった。
「それよりも、俺が心配なのは、だ。アイザック、あんたの方だぜ」
「はて、何のことですかね」
やはりあの金の正体。彼にはバレていたか。
腐れ縁ってやつは、要らんことでもそれとなく気付くから厄介だな、と思いつつも、彼はあくまでしらばっくれた。
「あいつらに渡した金のことさ。アレ、聖都の総本山に納めるべき税だろ。この街の」
「ああ、そう言えば、そんなお金。この教会にあった気がしますね。私はてっきり地震のせいで、紛失したかと」
ついでに言えば、偶然にもその額と、三人に渡した額は偶然にも一致してた。
そう、恐ろしいことに偶然にも、である。
我ながら、白々しいな、とあまりの厚かましさにアイザックは苦笑いを作る。
「いいのかい? 聖都が無事であれば、いずれ税の催促がやってくる。その時どうするんだ?」
「その時は私がこの地位を失うことでしょう。ただそれだけのことですよ」
生来軽薄な性であるデイビットが、珍しく深刻な声色で聞いてきた、その時とやらなぞ、恐るる足らず。
カペルの司祭は怖めず臆せずの態度で、簡潔に答えた。
咎められることなど、元より覚悟。
今回の決断は間違ったものではないと胸を張って言える。
司祭の地位を失い、宗教界から指弾され、一切の身分を失おうとも、それでも一向に構わなかった。
それは何故か?
「私の使命は、この街に安寧をもたらすこと。決して、体制の維持のために、この街に居るのではありません。懐にある銭にて、人々の腹を満たすこと。これ自体、神の御意志に反するところが、一体どこにありましょうか」
「それがあんたの破滅を招いても?」
「身の破滅と引き替えに、数多の命を救えるのですよ? 躊躇う理由がありません……それに」
「それに?」
「使ってしまった税を、聖都がこの街に再び請求すること、それはないでしょう。何故なら世界がこんな様になってしまったのだから」
徴税官がやってきて、再び税を街の求めたとしよう。
その時は即ち、このカペルの街が、教会の支配体制から自ら抜け出すことになろう。
先行きの見えない未来に、飢えの足音が聞こえるこのご時世。
余裕のない民衆に搾取を企てようとしたのならば、だ。
民衆はたとえ世界の秩序が相手だろうと、憤然と抵抗を見せることだろう。
あるいは武器をとり、あるいは逃散し、あるいは悪言を流布し、あらゆる形で体制との闘争を始めることだろう。
それが魔族を初めとする不信の民によるものではなく、教会を主として戴く、世界機構の内で起こるのならばだ。
それは体制の存立を、脅かしかねない危うきことに他ならない。
だから、教会は民衆に鞭打つような真似は決して出来ない。
処罰できることといえば、精々街の責任者の首を飛ばすくらい。
故に、この決断によるツケを支払うのはアイザック当人のみ。
最小の犠牲で、最大の利を得る判断であると、アイザックは信じていた。
「この変わり者め。相も変わらず信仰にクソ真面目で、損をする性格だねえ。やれやれ」
ただ文字だけを捉えれば、不器用なアイザックの信仰を呆れていると見るべき、デイビットのその言葉。
しかし、言い放った本人の顔を見れば、どこか満足そうな笑みを浮かべ、声の調子もなんとなしに嬉しそうである。
言葉の意味と、彼の感情がまったく一致していなかった。
「それでこそあんただよ。だからこそ、俺は苦手な香油のにおいにも耐えることが出来る」
それは聖堂騎士としてはあるまじき発言だろう。
彼は教会に武を奉納しているのは、信仰のためではなく、アイザックという一個人のためだと豪語しているのだから。
教会への忠誠を疑う一言、と換言してもいい。
さて、となれば、当然に司祭たるアイザックは発言を咎める立場にある。
だが、彼は一向に咎めようともせず、それどころか険しい顔すら作ることはなかった。
せいぜい苦笑いを浮かべた程度で、とうとう何も言わずに彼の問題発言を流してしまった。
諫めなかったのは単純な話。
それはかつて交わしたとある約束を、デイビットは愚直に守っているだけだから、と知っているからだった。
荒んでいた彼を、更生させる。そのために交わしたの約束を、アイザックも当然覚えていた。
――荒んでいる、と言えばだ。
「デイビット。話は変わりますが……ツカサさんをどう思いますか?」
見過ごせない存在がツカサだ。
ツカサの心は荒んでいる、という確信が、アイザックにはあった。
根拠はない。
ただ、これまでの教会暮らしの経験からして、彼の直感は確かに捉えたのだ。
この人は何か心に傷を負っている、どこか荒んでいる、と。
昨日の懺悔はその直感を見事に補完するものだった。
生き残るために、死者の懐からモノを掠め取った――
そう告解するツカサは、心からその罪悪感に苛まれているように見えた。
ツカサの心はその罪悪感によって、傷ついていたのだと、はじめアイザックは思った。
だが、なお顔色の優れないツカサを諭している中、彼は思った。
果たして、ツカサの内の傷はそれだけなのかと。
救いの術を示したというのに、だ。
その顔に希望の光が、あまりにも灯らなさすぎた。
目の前に希望があるのにも関わらずにでもある。
まるで自分には救いが絶対にやってこない、そう悟ってしまっているように、彼は見えた。
それが何により、そう思ってしまっているのか、皆目見当がつかなかった。
だから聞いたのだ。
自分よりも直感に優れたデイビットなら、それを知る切っ掛けを作ってくれるのではないのかと。
「何さ、藪から棒に。そうねえ……」
デイビットはにわかに腕を組みながら、右手で二度三度、鼻筋の傷を撫でた。
そして薄明るくなってきた天頂をゆっくりと睨む。
「臆病な奴……ってのが第一印象かな。でも、悪い奴じゃないのは間違いないぜ。じゃなきゃレイチェルはともかく、ケイトがあんなに気を許すわけがない」
堅苦しいものの、底抜けに人がいいレイチェルとは対照的に、ケイトは人に対する疑心が強い。
連日の論争にて、常に避難民を警戒すべしと強く述べていたのは、その心性が故のことだ。
そんな彼女が、襲われたツカサの身を案じるくらいには気を許している。
レイチェルを救った実績があるとはいえ、それを勘案すれば、彼のツカサ評はかなりの説得力は持つと言ってもいい。
しかし、それアイザックもまったく同じ見解でもあった。
つまりは、勘の鋭いデイビットも彼女の傷の気配を感じ取れなかった、と見るべきか。
「ただ。ただなあ」
「ただ?」
しかし、それはどうやら早合点だったようだ。
何かデイビットは思うところがあるらしい。
それを上手く言語化できないのか、直言が是である彼にしては珍しく、ごにょごにょと言い淀んだ。
「何者なんだろう、って思うところはある。なんというか……うーん。ちぐはぐ……そうちぐはぐなんだよ。ツカサ」
「ちぐはぐ?」
思いも寄らぬ評に、アイザックは思わず聞き返した。
「文字が読めて、高等な計算も出来る。初めてここに来たときは、ホコリやなんやで汚れていたが、それでも毛艶、肌艶も良かったから、いいもん食ってたんだろうな。間違いなく上流の出だろう」
「ええ。そうでしょうね」
その意見に、アイザックは首肯する。
華奢な体つきではあったが、やつれている、という風ではなかったから、食うに困る環境に居なかったことは間違いない。
ついでに言えば、手もびっくりするくらい綺麗で、農作業のようなハードな労働する環境に居なかったのも確かであろう。
きっと、箱入りというやつで、大事に育てられたのだろうと、アイザックは思った。
「でもよ。それにしちゃ、聖典について無知すぎないか?」
上流の階級に生まれたものには共通しているものがある。
それは聖典への理解である。
貴族を初めとする上流階級が、文字と言葉を学ぶのに用いられるテキストは、聖典の他に置いて存在しないからだ。
ところが、ツカサの聖典の理解はあまりにも乏し過ぎる。
理解度で言えば、この教会で保護している幼子達と、ほとんど変わらない程度だ。
そんな体たらくにも関わらず、ツカサは淀みなく聖典を読める。
内容をほとんど知らないのに、文字への理解度は高いから、問題なく読める。
恐ろしいことに、聖職者が用いる、難解な文語体の聖典でも読めるほどに、ツカサは文字を知っているのだ。
なるほど、確かにちぐはぐという評価はもっともである。
ちぐはぐなのは、何も聖典のことだけではない。
昨日のコインの件にしてもそうである。
何故貨幣が価値を持つのか、その仕組みは漠然となれど理解しているようだった。
それなのに、材質に関してはまったく知らなかったのだ。
聖典と同じく上流の出なら、知っているはずのことなのに。
そう、ちぐはぐ。本当にちぐはぐだ。
受けたであろう教育に反して、明らかに常識が欠乏している。
故に、ツカサの何者かを推理する手がかりが、決定的に不足していた。
いや、本当にそうだろうか?
実は心当たりが、アイザックにはある。
(先導者たち……)
聖典で説かれていることだ。
後に復活する救世主が世に現れる、時を同じくして出現する六人の者達。
それが先導者。
彼らは救世主と共に神の怒りを静め、破滅を防ぐために奔走する、外界からやって来た遣いだと言う。
救世を助けるための知識を携えながら。
先導者は外界から来た故に、この世界の常識は何一つとして、知ってはいない。
しかし、外界にて教育を受けた故に知識は有している。
ツカサの現状は、この先導者のくだりとぴたりと符合するのではないか?
(だが、それならば。そうであってしまうならば)
それは何て救いのないことだろう、と思う。
先導者が現れたということは、やがて救世主がこの世界に降臨するという、本来喜ばしい出来事のはずである。
にも関わらず、アイザックはそうであってくれるな、と心から願っていた。
敬虔な再生教徒であるはずなのにである。
だが、聖典にはこうあるのだ。
先導者が現れた後に壊滅的な破壊が世界に訪れると。
先導者たちが一堂に会し、大戦を止めんと試みる、すわその時に世界は滅亡の瀬戸際まで追い込まれると。
まだ、先導者が現れた、という噂はとんと耳にしない。
とあれば、まだ一堂に会すその前と見るべきだろう。
つまり、此度の大災害は、滅亡の直前に追いやるほどの威力はなかったことになる。
換言すれば、もう一度、しかもこの災害よりも大きな災厄が世界を襲撃する羽目となるのだ。
そして何よりも。
救世主による救世を目にする先導者は僅か二人のみ。
他の四人の先導者は、破滅を防ぐ中悪徳に倒れ、息を引き取ってしまうのだ。
もし、ツカサが先導者であって先導者であることを自覚していたのならば。
あの自分は救われぬ、という態度も説明がつくのであるまいか。
自身は死ぬ向かう運命にあるやも知っているから、思い詰めているのではあるまいか。
六人中四人だぞ、とアイザックは自らに問いかける。
あまりにも確率が大きすぎる。
そのほとんどが死ぬと言っても過言ではない。
世界を救うために他の世界から呼ばれて、挙げ句、命を落としてしまう。
しかもその人となりは、極めて普通の人間なのだ。
自分のように、迷う人々を救うなら地位も命も要らぬと覚悟した者ではない。
生と救済を願う、ごく普通の迷える教衆なのだ。
そんな人間に過酷な運命を背負わせるのは、あまりにも……
だから、アイザックは祈った。
ツカサが先導者でなかれと。
これ以上の破壊を望まないがために。
ツカサが死の運命に飲み込まれるのをを望まぬ故に。
急に無口になったアイザックを、デイビットは怪訝そうな視線を投げかける。
しかしそれでも構わず、彼は祈り続けた。
眩い朝日の中で。




