第二章 六話 認識の甘さを痛感せざるをえない
「不和はもうすぐ生まれよう! すぐさま行いを省みるべきです!」
払暁早々、古ぼけた教会をびりびりと振るわす大音響。
大きいのは声だけではない。
その身振り手振りも激しいもので、赤毛の聖堂騎士はとてもご立腹であることを窺える。
半ば会議室と化している感が否めない、司祭、アイザックさんの部屋で、いつも通りの面々が一堂に会していた。
話の内容は、いつぞやの続きのようなもの。
即ち、これ以上カペルに避難民を受け入れるか否か。
再びその話をぶり返す切っ掛けとなってしまったのは、言うまでもない。
僕が夜半に避難民に襲われたことだ。
「奴はツカサと教会に対する不満を口にしていた! それは本来取るに足りないことでしょう! しかし、今の極限の状況下、そんな些細な火の粉でも大火事になりかねません!」
叫ぶような声量で、なお、ケイトは続ける。
僕は申し訳のない気持ちで、彼女の咆哮を聞いた。
確かに昨夜、僕は襲われた。
けれど、元はと言えば夜にのこのこ一人で外に出た僕にも非がある。
いくら、この街が平和とはいえ、それはあくまで外の惨状との比較論。
彼女の言う通り、極限状態に置かれているのは間違いないのだ。
異世界に慣れたつもりだったけど、二一世紀の日本の感覚が抜けきってなかった。
今回のことはそんな油断が招いたことでもある。
だから、彼女がここまで怒ってくるのは、本当に悪い気がするのだ。
少なくとも、僕にも落ち度があったのは間違いがないのだから。
「はい。どう、どう。落ち着け、落ち着け」
怒るケイトを宥めようとしたのはデイビットさん。
なんだか気怠げな様子で、彼女の曲がったつむじを、どうにか直そうと試みている。
彼からしてみれば、朝一番に部下の機嫌を直さねばならなくなったのだ。
面倒くさそうにするのは、無理のないことなのかもしれない。
「ツカサさん。彼の者の顔、やっぱりよく思い出せませんか?」
「ええ。ごめんなさい。暗かったし……それに」
何よりも怖かった。
アイザックさんからの問いに、首に巻かれた包帯を撫でながら答えた。
強い恐怖により、顔を思い出そうとすると身震いがして、まったくもって上手くいかない。
試しに、もう一度奴の顔を思い出そうとすると……ほら。
ぶるりと不随意の身震い。
思考がそこで中断される。
「……困りましたね」
犯人がわからないのであれば、対応することが出来ない。
言葉通り困り果てた、と言わんばかりに、アイザックさんは眉根を揉み込んだ。
追放するにしても注意するにしても、その対象が誰だか解らないのだから、お話にならない。
ケイトの言うとおり、今後最悪の事態に繋がりかねない、そんなはじめの予兆と言うべき出来事が起こったのに、対応できない。
そんな歯がゆさに部屋に沈黙が訪れる。
「……レイチェル」
ケイトの声に、長椅子に座して、頭を抱えていたレイチェルが僅かに動く。
今朝の彼女は、僕が襲われた、と聞いてからずっと項垂れたままだった。
「ねえ、レイチェル。どう? 貴女が望んでいたことが、こうして危機を呼び込もうとしてるのよ」
皮肉たっぷりの一言。
先のように大声で叫んでは居ないが、ケイトの怒りはなお、治まっていないらしい。
静かに、けれども未だ熱く燃える怒りがあることを、その口調から感じ取ることが出来た。
対するレイチェルは答えない。
先日のようにムキになって、反論する様子は見られない。
不可視の重たい何かが、彼女の上にのしかかっているのか。
より一層、深く項垂れて口を閉ざすのみ。
「ねえ? ツカサが襲われたのよ? 貴女の恩人が。ねえ? 解ってる? 貴女が望んだことで、恩人傷つけて。貴女は恩知らずになろうとしたのよ? 自分で自分を傷つけようとしてるのよ?」
が、その様子に更なる苛立ちを覚えたのか。
徐々に徐々にケイトの語り口に再び熱が帯び始めた。
それでも言葉を返そうとしないレイチェルに、ケイトは一度歯ぎしり。
更なる怒声を浴びせるために、口を開いて――
そしてそれは阻止された。
この街の司祭、アイザックさんによって。
「ケイト!」
いつもの椅子に座す、いつも温厚な司祭にしては、珍しく強い調子の一声。
「最後に決断を下したのは私です」
問い詰める相手はレイチェルではない。彼の言葉には、そんな意味が込められていた。
頭の内を支配していた怒りが晴れたようで、ケイトははっとした様子を見せた。
そして見る見るバツが悪そうな顔になり、反省一色の顔色となり。
「……ごめんなさい。これじゃあ八つ当たりね。自分の思い通りにならないからって」
ケイトは素直にレイチェルに謝罪をした。
「いや……いいんだ。私の願望。それがとても甘いものだということは、変え難い事実なのだから」
今日初めてのレイチェルの発言は、重く、沈痛な声色で紡がれた。
つられて先ほどまで、怒り一色だったケイトの顔色もそれに釣られる。
言い過ぎてしまった自覚があるだけに、ここまでレイチェルを落ち込ませてしまったことの、罪悪感があるのだろう。
しょぼんと、すっかりいつもの威勢を喪失してしまった二人。
感情豊かな二人を尻目に、外野よりやれやれ、と言わんばかりのため息が聞こえた。
デイビットさんのものだ。
「アイザック、現在の食糧事情は?」
湿気った雰囲気を変えよう。
まずは、視点を変えよう。
起きてしまった過去の出来事じゃなく、現在に目を向けようではないか。
話を変えたデイビットさんの意図は、こんなところだろう。
その意図をくみ取ったのだろうか。
穏やかな空気を纏ったアイザックさんが、その空気そのままの口調で答えた。
「余裕はありません。ですが、今の生活レベルを落とすほどでもありません。十分に次の収穫までには持ちます」
「なるほど。今回のは、飯が減ったから起きた、って訳じゃないんな」
なるほど、なるほど、と、人相の悪さを強調させている、鼻筋の傷を幾度かデイビットさんは撫でる。
一度ならず、二度、三度撫でる。
それはどうやらデイビットさんが思案する際の癖らしい。
「……ぼんやりとした不安にやられちまったのかな?」
ぼそり、と熟考の果てを口に出した。
「恐らくは。何しろ人間は、目に見える不安よりも、不可視な不安の方を嫌いますから」
アイザックさんも静かに首肯する。
不可視の不安ってやつは、カペルの食料があとどれくらい持つか、という不安だろう。
教会で配給する食糧の残量を正しく知り得るのは、当然教会だけだ。
僕をはじめとする避難民はもちろん、この街に元より住んでいた人たちも、それを知っていない。
真実が見えない故に、そこに不安が生じるのだ。
もしかしたならば、食料に底が見え始めているのかもしれない。
明日にはご飯の量が減っているかもしれない、と。
その懸念を否定する材料はない。
けれども肯定する材料もないのだ。
こういった場合、人は往々にして悪い方向に考えがちなものだ。
そんな状況下、同じ避難民の立場なのに、どうにも教会から厚遇されている人物が存在するならば――
それは下衆の勘ぐりが生じる隙でしかないだろう。
「俺たち、秘密主義に過ぎたかねえ。余裕があるポーズ。見せておくべきだったか」
「慎ましくあれ――教会が率先して実践すべきこの行い。平時でなく、異常時であるならば、むしろそれは悪しき行いになり得る。手痛い教訓を得ました」
「んで、どうするよ? この不安、放っておいたら、またどっかのタイミングで噴出するぜ。俺たちに余裕、あることを見せておくべきじゃないか?」
アイザックさんは、その問いに暫く手を組んで熟考。
組んで十五秒程の後に、先のデイビットさんのものと比べて、とても重々しいため息をついた。
そのため息に、部屋の視線は彼に集中。
注目の中、この街の司祭はゆっくりとした動作で立ち上がり、自らの背中にて屹立する本棚と向き合った。
本棚の中段にあった本を数冊取り除く。
奥には、黒塗りの小さな扉であった。
光沢を見るにきっと金属製。
隠し金庫、のように見える。
しかし、鍵穴が見当たらない。
どうやれば、あれは開くのだろう。
ない知恵を絞って考えていると、迷いなくアイザックさんは手のひらを黒金の扉に当てて。
「開け」
一言。
その直後にカチリと解錠の音。
開け方を見るに、どうやら魔法仕掛けの金庫であるらしい。
アイザックさんは金庫の内から、小さな麻袋を取り出す。
それが外に現れた時、僕は視界の端で、デイビットさんの表情がぴくりと動いたのを捉えた。
唇も音を出さずに、もごもごと動く。
おい、それは――
そう口は動いているように、僕は見えた。
「昨日のことです。王領から伝書鳩が飛んできました。自領に被害なし、という旨のね」
袋を机にそっとおいて、アイザックさんは再び椅子に腰を降ろす。
着席と共に紡いだ一言に、場がにわかに色めき立つ。
新たに被害を免れた場所が判明したことに、希望を見出したのだ。
それも小さな街や村ではない。
経済的に発展した区域、王領がそっくりそのまま生きていると解ったのだから、抱いた希望はとても大きい。
「この袋の中に幾らかの金があります。王領まで赴き、食料の買い足しを行いましょう。小さなキャラバンを組めるだけの金額はあるはずです」
どうやら袋の中には、それなりの額が入っているらしい。
これで新たに食料を手に入れ、カペルの人たちに食料の不安を払拭させる。
それこそが、アイザックさんの狙いだろう。
だからこそ気になることがある。
僕はすっと手を上げる。
「あの、質問いいですか?」
「どうぞ、ツカサさん?」
「その……お金って使えるんですか? この被害状況じゃ、価値を担保している権威が無事かどうかも……」
その質問による反応は二通りだった。
あ、そうか、というはっと気付かされた、という風のものと、何を不思議なこと言っているのだろう、と意外そうに僕を眺める二通り。
前者はデイビットさんとケイト、後者はアイザックさんとレイチェルが見せた。
何かまずいこと言ってしまっただろうか。
でも心配なのだ。
この世界、貨幣の価値を保証しているのは、無事が判明した王領を持つ王家ではなく、未だその安否が解らぬ、再生教の総本山なのだから。
この世界の王家にはすでに実権はない。
教会に納税の義務のない領地を保証されている、他と隔絶した歴史を持つ、優遇された一貴族に過ぎない。
徴税人の不入の権利を代償に、王家が持っていた政治の実権を、遠い昔に再生教に譲渡していた。
当然財政も再生教が握っており、先の通り総本山の無事が解らない現在、貨幣の価値は無くなってしまっているのではないか?
僕には、それが心配でならなかった。
「ツカサさん。このコインに魔力を通してみて下さい」
アイザックさんからコインを手渡される。
兜を被った救世主が刻印された金色のコインは、この世界で最も高価な貨幣である。
手渡されたのは、いまさっき金庫から取り出した、袋の内の一枚だ。
「わ」
促されたとおり、魔力を浸透させてみると、思わず声が漏れてしまうほど、容易に魔力が隅々まで浸透した。
得意の土を操るときよりも、ずっとずっとスムースに魔力が染みこんだのだ。
「その魔力の通しやすさ。それこそが、異常時での貨幣の最低限の価値を保証しています」
どこか皮肉げに語ったアイザックさん。
言葉にそんな音色が混ざった理由は、すぐに明らかになった。
「例えばそれを鋳つぶして、鍔や目釘に加工すれば、剣は立派な魔道具になります。戦争での需要が高い魔道具に。長きに渡る魔族との戦争。先人達はそれを、貨幣の最低保証のシステムに組み込んだわけです」
もちろん、平時の貨幣損壊は犯罪で、鋳つぶすのは最後の最後の手段ですが、と彼は付け加える。
魔力が通りやすい物質は、そのまま魔法的な加工のしやすさに直結する。
それらを素材として、魔力を通せば、切れ味が増す剣等がこの世界には存在する。
貨幣に用いられている貴金属は、その手の道具を造るのに必要不可欠な素材で拵えらている。
だから、極限の状況でもある程度の価値は失わずに済むのだ。
戦争が継続していればなおいい。
武器としての需要があるのだから。
勿論、それは流通する貨幣が減っていく一方の、極めて破滅的な手段であるけれども。
アイザックさんが苦々しく思っているのは、平和をもたらさんと説く再生教が、戦争を日常生活の一サイクルに利用していることに対してだろう。
「無論、兵器への使用だけではないぞ。さっきの金庫や、農機具に用いられることもある。むしろ、この状況下の需要はそっちによるものが大きい」
レイチェルの補足は、司祭の暗い声色を、払拭させるものだろう。
戦争ばかりではない、平和目的の行為でも価値は担保できるのだ、と言う。
「……何よりも、今戦争している場合ではない。魔族も我々も」
長きに渡る魔族との戦争、ようやくそれに一つの区切りが見えてきた頃合いでのこの大災害。
人類だろうが、魔族だろうが、一切の区別なくあらゆる生命を葬り去ったその現象の前に、もはや互いに争う余裕は残っていない。
皮肉なことに、生活と生命の全てを蹂躙した災害は、絶え間なく殺し合い続けた二勢力の間に、奇跡の休戦をもたらしたのだ。
だからこそ、ここの居る皆の表情に苦いものが浮かび上がる。
ここに至るまで、戦争をどうにか出来なかった、人類の愚かしさを見た気がするから。
「して、人選はどうしましょう?」
消沈から少し立ち直ったらしい、声にハリが戻ってきたケイトが問う。
王領へ向かうのは誰がいいかと。
「そうですね。ケイト、レイチェル。貴女たち二人でお願いします。それと」
ちらと、黒の瞳が僕に向く。
「ツカサさん。お願いできますか?」
僕? と自らを人差し指で指し、無言で聞く。
対する司祭も、無言で答える。
にっこりと柔和な笑みを浮かべながら、暫く街に居ない方が、落ち着くでしょう? と
ありがたい申し出だった。
確かに、街に居る避難民の誰かに襲われたために、今の僕は彼らを好意的に見ることが、難しくなっている。
もちろん、外は治安の観点から言えば恐ろしく危ない。
けれど実力十分な聖堂騎士二人が居るのであれば、話は別。
好き好んで戦闘のプロに襲う連中も居なければ、仮に襲われたとしても、返り討ちにしてくれることは疑いない。
二人も王領に向かわせるのは、使者として道中の安全を自力で、それも確実に確保するというよりも、僕の護衛、という意味が強いのだろう。
心のざわつきを鎮める、いい機会かもしれない。
僕は申し出に首肯した。
「では三人とも、お願いしますよ。準備に取りかかって下さい」
パンと手を鳴らしたその後の一言が、解散の合図となった。
聖堂騎士の三人は、各々が陣取っていた場所から離れ、廊下へと向かう。
あるいは出立の準備のため、あるいは日常の仕事に戻るために。
けれど、僕は動かなかった。
何故なら今から僕はしなければならないことがあるから。
部屋を出ようとしない僕に、アイザックさんは訝しげな視線を向ける。
僕は真っ直ぐにそれを見返した。
懐にある、あの麻袋を手でいじりながら。
経済は……わかりませぬ……




